文芸論5と文献リスト(2017年度)

 2017年度後期から文芸論5を担当している。前に担当されていた池田雄一先生が退職されたので、そのあとを受けて行うことになった。池田先生が「読んで書く」ことを毎週していたので、それを踏襲しようと思い、授業設計をしていった……のだが、全員が毎週は書いてこない……。池田先生はどうしていたのであろうか、と授業をしながら思ったことを覚えている。

 内容としては評論や論文を読む授業が文芸学科ではなかったため、それらを読むこと、読む内容を踏まえて書くことを行うことにした。ちなみに前期の作品読解と同様にこのあと毎年内容をかえていくことになる。学生だけではなく教員も学ぶつもりでのぞんでいるのだ。

 そして記録に残していなかったので、思い出しながら書いている。今はもう3年目に突入している。

1:授業の進め方。テクストを読み、考える方法とは。 
 初回なので、「読むこと」と「書くこと」の意義を解説した。

2:山口誠「パワースポットの想像力と変容―メディア・ツーリズム研究の可能性」(遠藤英樹・松本健太郎・江藤茂博編『メディア文化論 想像力の現在』ナカニシヤ出版、2017年)

 最初に読む数本は、文芸学科の枠組みだけではなく、もう少し幅広い出来事を取り扱ったものを読もうと思い、取り上げた。パワースポットに関してであるが、思いのほか御朱印帳マニアが受講生の中にはいなかった記憶がある。

3:山崎鎮親「世界が小舟か、小舟がセカイか」(『半径1メートルの想像力 サブカル時代の子ども若者』旬報社、2014年)

 若者論という流れの中で結局のところコンテンツ系(オタク系)の論文を取り上げてしまう。90年代からゼロ年代にかけて若者がどのようなコンテンツの影響を受け、その中で文化を作り上げていったのかを考えていった。

4:谷本奈穂「恋愛の死と再生」(『恋愛の社会学 「遊び」とロマンティック・ラブの変容』青弓社、2008年)

 若者論の続きである。恋愛というものが、近代から現代においてどのように捉えられていたのかを検討した。

5:西兼志「〈キャラ〉と〈アイドル〉/拡張されたリアリティ」(『アイドル/メディア論講義』東京大学出版会、2017年)

 アイドルに対する興味はほとんどないのだが、アイドルをめぐる議論は興味深いので、いろいろと読んだりしている。その中でキャラクター論を考えるために、この論考を取り上げた。

6:玉川博章「ファンダムの場を創るということ―コミックマーケットのスタッフ活動」(東園子・岡井崇之・小林義寛・玉川博章・辻泉・名藤多香子『それぞれのファン研究 I am a fan』風塵社、2017年)

 コミケットにサークル参加をしているので……という個人的なことは置いておいて、ファン研究を考えるために取り上げた。

7:小池隆太「マンガにおける物語論の可能性とその限界」(小山昌宏・玉川博章・小池隆太編『マンガ研究13講』水声社、2016年)

 ここから文芸学科の授業として物語を考える回に入っていく。創作演習で取り扱った物語論の復習も兼ねて、読んで、考えていくのである。

8:都留泰作「空間感覚の研究」(『“面白さ”の研究―世界観エンタメはなぜブームを生むのか』角川新書、2015年)

 文化人類学者であり漫画家である著者による、物語の描く空間に関する文章である。非常に示唆的であり、物語を考える上で批評的な視点が養われると思い取り上げた。

9:橋本陽介「「おもしろい展開」の法則」(『物語論 基礎と応用』講談社、2017年)

 本書は物語論の入門書として、そしてタイトルの通り応用として非常にまとまっており、発売されたばかりだというのに授業で取り上げている。皆さんも読んだほうがいい。

10:一柳廣孝「学校の異界/妖怪の学校  峰守ひろかず『ほうかご百物語』を中心に」(小松和彦編『妖怪文化の伝統と創造 絵巻・草紙からマンガ・ラノベまで』せりか書房、2010年)

 ここから具体的な作品を取り上げている論考を読んでいく。初回はライトノベル研究であり、妖怪研究でもあるという内容なので、多面的に考察していく姿勢を学んでほしくて取り上げた。

11:広瀬正浩「仮想世界の中の身体―川原礫『ソードアート・オンライン』アインクラッド編から考える」(西田谷洋編『文学研究から現代日本の批評を考える』ひつじ書房、2017年)

 続けてみんな大好きSAOである。VRでのゲームを描いた作品の身体性は一つの視点として重要である。

12:池田雄一「魂のジャンルのために 宮崎作品におけるアニメーションとアレゴリー」(『ユリイカ』36巻13号、2004年)

 そして前任者の池田先生の論考を読むのであった。宮崎作品への批評でもある。

13:上田早夕里「リリエンタールの末裔」(『リリエンタールの末裔』ハヤカワ文庫JA、2011年)

 ここから具体的に作品を読んで、みんなで考えてみようとしてみた。初回はSF。空を飛ぶことにどのような意義を評者として見出すのか、みたいなことを考えていた。

14:『プリンセス・プリンシパル』(制作:Studio 3Hz Actas Inc.)

 次はアニメ作品。スチームパンクでありスパイものである本作品をどう解釈するのか。アニメという枠組みの中で表現されていること、描き方、様々な論点が存在する。ちなみに2020年から劇場版が随時、公開されていくとのことで、非常に楽しみにしている。

15:受講生によるセレクト作品の批評
 最終回は受講生それぞれが選んで、書いてきた批評文を全員で検討する回である。これがこの授業の最終課題でもある。

『スライム倒して300年~』と夏の集中講義

 森田季節さんの『スライム倒して300年、知らないうちにレベルMAXになってました』(GAノベル)のアニメ化が発表された。まことにめでたい。

 その森田季節さんと毎年夏に集中講義を行っているのだが、この夏も例年のごとく行われた。森田さんのブログを見るとお分かりだと思うが、旅好きの森田さんは旅をしながら山形に来られ、旅をしながら山形から帰られたのであった。

 授業は受講生個々人に合わせた内容にしているので、大枠は一緒でも一人ひとりではまったく違う取り組みになっている。そのため初日から最終日まで毎日のように全員の面談を行い、その日の課題を出していくことになる。受講者数がその年により違うため、面談時間は固定ではないが、それでも教員側からすると一日のほとんどが面談に費やされ、提出された課題を持って帰り、夜に読むということになる。それなりにハードである。

 とはいえ個々人に向けたバラバラの内容というわけでもなく、大枠としては「ライトノベルを書くこと」が授業目的として設定されている。そのうえで今年はその日の授業のスタート時に玉井と森田さんとの対談を行うことにした。対談というより一方的に玉井が森田さんに聞いていくという形式が多かったような気もするが、さておき「現役のラノベ作家がこれまで(特に学生時代に)どのようなものを読んで、吸収してきたのか」、「学生のときは何をどれだけ書いていたのか」、「その後、プロとして何に取り組んできたのか」、「そして今、考えていることは何か」という点を重点的に聞いていった。

 毎日のように話題をかえて喋っていったのだが、これら連日の内容はすべて「本を読み、小説を書く」に帰結していく。「小説を書く」というのは、文字通りの意味以上はないのだが、書かないとレベルアップも何もしないので課題のときだけ書くのではなく、日ごろから取り組みなさいということになる(先生っぽい内容である)。問題は「本を読む」のほうだ。単に漫然と受け身のまま読書をするだけではダメで、それをどのようにして能動的にアプトプットに変換していくのかが問われていく。いや、もちろん漫然と文章を書いても意味はないので読書だけの問題ではないのは確かだが、文章を書くという行為はそれ自体が否応もなく能動的にならざるをえない。それに対し、物語を受容することは、下手したらただひたすら読者としての自らの位置づけを変化させることないまま読み続けることが可能となってしまう。

 そこで授業では森田さんが書かれた短編作品を読んでもらい、玉井が解説をしていく中で体感してもらうという手法を取ってみた。そう。ここで問題となるのは作者本人を前にして、作品解説をしていくのだ。自分が。玉井が。批評であったり評論であったり研究であったりするのは、作者自身の考えやテーマが作品に反映されていれば、それをくみ取って考えていくことになるが(そしてくみ取らなくても良いのだが)、それだけで成り立つものではない。研究などの文脈の中で、作品がどう位置づけられて、それをどの切り口で語っていくのかは、作者の立ち位置というよりは評者自身の立ち位置が求められていくことになる。

 授業で取り上げた作品は森田季節さんの「まどろみは遠く、遠く彼女を運ぶ」(『切望小説。』所収)である。この作品はいわゆる百合小説と呼ばれるもので、そこからイメージされる通り耽美的であり、静寂な雰囲気は物語全体を覆うものとなっている。さらにこの作品のもう一つの特徴はポストアポカリプス的な側面で、耽美的な要素に退廃的な要素をも追加しているところである。単なる架空の世界をそのまま描くと、当然ながら読者とは違う百合物語という世界観に彩られてしまうのだが、現実世界との地続き状態を維持するためにポストアポカリプス的要素は一役買っている。現実世界に存在する土地や概念、事物が文明が滅びたあとにも残り続け、登場人物たちにというよりは読者に対して語りかける。この二つの要素により物語の完成度が一気に高まっており、SF的な百合小説として評価することができるのではないだろうか。みたいな話をした気がする(あまり覚えていないが)。

 ここで授業として重要なのは森田さんの作品を作者や玉井がどう考えているのかではなく、受講生が何を考えるかである。物語を読むときに考えるべき点は複数存在するのだが、その一つには物語の構造を考えること、もう一つには物語の型を身につけることが創作に活かせる大きなポイントだと思う。もちろん取り上げるテーマ性など受容すべき点は多々あるのは確かだが、それは恐らく次のステップではないだろうか。物語の構造に関しては世間一般に物語論として流布しているものが多数存在するので(プロップとかキャンベルとか)一つひとつ説明するのは避けていくが、簡単にいえば主人公がどのタイミングで何を選択し、どのような行動を起こすのかということである。もちろんシステマティックに分量で切り分けていき、物語の展開を考えていくこともできるし(シド・フィールドとかを読めば何となくわかると思う)、もう少し曖昧に「序盤ではこういうことをしている」ぐらいでも構わない。とはいえ実はこれだけでは物語を生み出し、作品を書いていくことに直接的にはつながらない。

 なぜなら構造をどれだけ精緻に作り上げていっても、極論では大枠でしかないし、普遍化すればするほど曖昧にならざるをえない。それはプロップやキャンベルのような古典的な物語論にも言えることで、大枠を広げれば広げるほど、どこかの要素は何かの作品に当てはまってしまうことになる。要は中身について考えていることにはならないし、普遍化すればするほど個々の作品に活用する意義が失われていく。

 そのために内容の型を身につけることも考えたほうがいい。これは読書論の視点からいえば、ヤウスが概念化した古典的な「期待の地平」というものに近いのかもしれない。「ジャンルについての予備知識、それより前に知られた作品の形式と主題形成」(H.R.ヤウス『挑発としての文学史』岩波現代文庫、2001年)などから読者に対象作品への「期待の地平」が形成され、作品はその「期待の地平」をこえていかなければならない。授業で森田さんの作品を取り上げたときに、比較対象として話に挙げられたのは宮澤伊織さんの『裏世界ピクニック』シリーズであった。これは百合小説としての単純な対比でしかないのだが、森田さんの作品と宮澤さんの作品を比べるだけで同じ百合小説というジャンルではまとまらないということがわかると思う。

 森田さんの作品は百合という耽美性を率直に打ち出し、そこにポストアポカリプスの退廃性を付与しているのに対し、宮澤さんの作品はネットロアの捜索という直接的な物語の目的を設定した上で、そこに取り組む二人の女性のバディものというキャラクター構造を取っている。百合小説という枠組みではあるが、そこで描かれている作品はここまで違うのは、「期待の地平」として想定しうる「あるあるネタ」を多様性ある中からセレクトして描き出していき、さらにそこから読者の期待をきちんと裏切っていくことにより浮かび上がってくる。

 創作者として取り組むのであれば、単に小説を受動的に読むのではなく、「期待の地平」を認識するために様々なものを吸収し、「期待の地平」を乗り越えるためにやはり様々なものを吸収しなければならない。

 ということを思いながら、今年の夏の集中講義をしたような気がするが、とにかく暑かったことが一番印象深い。

数をこなせば忘れます

 芸工大の文芸学科に寄贈するために、研究室で、ブックオフで求めた文庫解説本を整理していたら、あれれと思った。重松清『幼な子われらに生まれ』(幻冬舎文庫)の解説者が吉野仁なのである。え? なんで池上冬樹ではないの? と思った。ブックオフで買い求めるときに何故確認をしなかったのか。もう頭から自分が解説を書いた本と思いこんでいたのだろう。文庫本を見ながら、突然勘違いに気づいた。僕が担当したのは『ビフォア・ラン』(幻冬舎文庫)。重松さんのデビュー作であり、重松清文庫化第一弾だ。幻冬舎文庫ということで勘違いしていたのかもしれない。

 ある有名なシンガー・ソングライターが、こんなことをいっていたのを思い出す。「街なかの商店街を歩いていると音楽が流れてくる。あ、俺が作った曲だ! と一瞬思うんだけど、歌っているのは自分じゃないんだよね。俺の曲なのに、どうして俺が歌っていないんだろうと思う。それもたいていヒットしている曲なんだけど(笑)」

 オチはともかく、そういう錯覚もわからないではない。デビューして30年もたてば、作曲した数は数百を数えるだろう。短い曲をいれたら、1000近くいっているかもしれない。そうなると錯覚が起きる。似たような曲を聞いて、一瞬自分の作った曲と勘違いしてしまうのだ。

 逆に、自分の作品なのに、まったく自分の作品ではなく、人ごとのように愉しんでしまう場合もある。戦後を代表するベストセラー作家の森村誠一さんは、戦争小説&青春小説の傑作『ミッドウェイ』が4次文庫(版元を変えて4度目の文庫化)になるので、十数年ぶりに読み返したら夢中になってしまった(と編集者から聞いた)。そしてこう感じたという。「いやあ、この小説は面白いね!」

 森村誠一さんのご指名で僕が解説を担当することになり(ちなみに講談社文庫版である)、僕もゲラで読んだのだが、森村誠一さんの気持ちがよくわかった。これはものすごい傑作で、僕自身もゲラで読んでいてわくわくしてしまった。森村文学のでもベスト10に入る作品なのではないかと思う。ベストセラー作家が自分の小説であることを忘れて感動する理由もわかる。

 というと、自分の小説なのに、まるで人の作品のように感じるなんておかしいではないか・・と思われるかもしれないが、森村誠一さんはなんと420冊以上を上梓している。覚えられるわけがないだろう。

 実は、その3分の1にもみたない(それでも充分に多い)エンターテインメントのベテラン作家(いまや巨匠といってもいい)も、初期の名作が版元を変えて文庫化されたとき、実に久々に読み返した。きっかけは、僕が朝日新聞に書いた文庫本の書評である。「ツイストの連続」という表現をしたら、その作家も気になって文庫本を手にした。

「池上さん、おそるおそる読み返したら、なかなか面白くてさ、どういう結末になるのかと我ながらはらはらしましたよ」というので、「××さん、あの中盤の展開から結末まで実にスリリングだし、どんでん返しも効いているし、傑作ではないですか」といったら、「そうなんだよ、どうなるかと思ったら、うまい具合に結末が考えぬかれていて、いやあ感心しましたね(笑)」と完全に他人が書いたような感想を寄せている。

 これは特別なことではない。ほかの作家も同じようなことをいっている。次々に依頼がきて原稿を書いていると、前に書いた作品など読んでいる暇がない。実はこれは作家に限ったことではない。評論家にもいえる。

 エンターテインメント界のナンバーワンの文芸評論家といったら、これは誰がみても、北上次郎(目黒考二)だろう。北上さん(いや、僕は目黒さんとよんでいるので、以下目黒さんと書く)が書評集を編むことになり、ゲラで読んでいたら、自分が書いた書評のことも忘れて、この小説は面白そうだ、読みたくなったと感想を述べているほど。

 何を馬鹿なことをと思う人もいるかもしれないが、数をこなしていけば忘れるということです。読んだことを忘れて面白そうだ、という話は、よく目黒さんが書くけれど、そして僕も昔はそんなことは絶対にない! と思っていたけれど、僕も近年経験するようになった。

 仙台市鉤取(かぎとり)に萬葉堂というどでかい古本屋がある。神田の古本屋を数軒集めて、ジャンル別・アイウエオ順に並べ替えたような巨大な古本屋なので(ほとんど図書館ですね)、ついつい「ア」から順に眺めていって、ときどき、おおこれは面白そうだ! という本を発見する。本を手にして、ストーリー紹介を読み、後書きを読み、こういう本は絶対に自分の好みにあうし、こういう本を探していたのだとすら思って買い込む。

 ところがだ。家に帰って本棚を見ると、何とその本がある。あれ? と思って、本棚からとりだすと、頁の端が折ってある。頁の端が折ってあるということは、読んでいるということだ。読んでいるということは、ひょっとしたら書評もしたのではないかとスクラップブックを見ると、ちゃんと書評も書いてある(!)。まいったなあ、完全に忘れているよと思う。

 ただ、弁解させてもらえば、忘れている理由がわかる。忘れている本はたいてい「ミステリマガジン」(早川書房)の新刊レビューを担当した時期(1988年1月号~1996年3月号)の本である。毎月編集部から与えられた5冊を書評していたので、およそ500冊にのぼる(書評稼業30年、他紙誌の書評を入れたら5000冊はいっているかもしれない。それは忘れるよね?)。逆にいうと、自分から逆提案した本(新人の頃はできなかったが、ある程度売れてきた頃から「その本もいいかと思いますが、こちらのほうが面白いと思いますが、どうでしょう?」と提案した本)の書評は忘れない。

 数をこなせば忘れます。でも、数をこなせないとあがらないレベルもある。粗製濫造になって駄目になる場合もあるから、要注意ではあるけれど。

2019年度前期ゼミ(漫画ゼミ)と作品群(玉井ゼミのみ)

 前回の更新で取り上げたゼミ1コマ目は多様な作品を読み、多様な考えに触れることを一つの目的としていたが、ゼミの3コマ目では漫画を読むことに主眼を置いている。このようなゼミを行っている理由として一つにはゼミには漫画家志望の学生が参加する傾向にあるためと、もう一つには物語を紡ぐのは何も小説という媒体だけではないので、小説家志望の学生も数多くの作品に触れる必要があるからである。

 とはいえ3コマ目は学科全体のイベントが開催されることがあるため、定期的に休みとなる。漫画ゼミが開かれなくとも、ゼミ自体は全体イベントへの参加となるので特に休みではない。

1:井上智徳『CANDY & CIGARETTES』(講談社)

 爺と幼女の組み合わせによるアクションは初回の景気づけに最高ではないか。

2:田村由美『ミステリと言う勿れ』(小学館)

 2回目は会話で物語を進めていく方法を学ぼうと選んだ。当然だが議論では「見事すぎる」が主たる内容となってしまった。

3:学科イベントによりお休み

 学科の青果賞(2年の最終課題から学生自身が投票して決まる賞)の講評会があった。

4:澤江ポンプ『パンダ探偵社』(リイド社)

 これは名作。コマやカメラワークの上手さは当然ながら、ストーリーも素晴らしい。

5:藤緒あい『かわるがわる変わる』(祥伝社)

 ここらへんで女性向け作品を読もうと思ってのセレクト。女性のゼミ生が楽しそうに読んでいたのが印象深い。

6:靴下ぬぎ子『ソワレ学級』(徳間書店)

 社会で生きるなかで普通を志向することは当然ではあるが、そこにしか目を向けない創作はありえないのではないか。という感じでのセレクト。

7:田川とまた『ひとりぼっちで恋をしてみた』(講談社)

 物語を動かすとき、非常に難しいのは奥手な主人公なのだが、困った作者が2話以降どうしていったのかを読もうというセレクトである。

8:影待蛍太『GROUNDLESS』(双葉社)

 戦争を描くことは必ずしも大局的に国家を描くことだけではない。

9:須藤佑実『みやこ美人夜話』(祥伝社)

 須藤作品は毎回買ってしまうぐらいなのだが、細部から物語全体にいたるまでの作りこみに感心している。

10:磯谷友紀『本屋の森のあかり』(講談社)

 読者がキャラクターを把握し、物語がドライブするようになったあと、コマ割りやカメラワークが変化していくのが非常に興味深い。

11:学科イベントによりお休み

 就活に向けてのマナー講座が開催された。

12:増田里穂『春庭』(集英社)

 少女漫画=恋愛と大枠でくくってしまうことは非常に危険なのだが、その大雑把なイメージですら、細かいところでズレがあることは認識したほうがいい。

13:こがたくう『宇宙のプロフィル』(講談社)

 アイデアの連作短編。アイデアで短編を動かせることの一つの証左である。

14:熊倉献『春と盆暗』(講談社)

 この作品は本当に秀逸。キャラクターの浮遊性が主人公と物語を飲み込んでく感じが良い。

15:野村亮馬『ベントラーベントラー』(講談社)

 ラストは肩の力を抜いた作品で終わらせた。ご近所圏内で起こるドタバタ喜劇とSF要素との融合はお見事。

2019年度前期ゼミ(一コマ目)と作品群(こちらも玉井ゼミのみ)

 ゼミでは3年生以上の学生が所属し、それぞれ教員に指導を受けながらいろいろ学んでいくことになる。そのため私は厳密には他のゼミが何をやっているのかは知らない(自分のゼミの時間帯に他の教員もゼミをしているため)。とはいえ教員同士や学生と会話をしているときに耳にしたりするので、何となくは知っている。

 玉井ゼミでは「書くことと読むこと」を基本的な作業にしているため、1コマ目では「読むこと」に取り組み、2コマ目では「書くこと」を行っている。3コマ目は漫画ゼミとして漫画を読んでいる。2コマ目で「書くこと」としているが、実際にゼミの時間に書いても仕方ないので、概ね事前に学生たちが書いてきた作品を講評している。

 ここでは記録として2019年度の前期にゼミで読んだ作品を記しておこうと思う。今年は例年とは少し趣向をかえて、小説と評論・研究論文を交互に読んでいった。

1:ガイダンス
 ガイダンスといいつつ、ゼミで取り組むべきことや個々人が取り組むべきこと、その心構えなどの話をしていった。けど、皆さん、覚えているだろうか(自分も覚えているだろうか)。

2:長谷敏司「Hollow Vision」(『My Humanity』ハヤカワ文庫、2014年)

 アニメ化された『BEATLESS』と世界観を同じにする作品ではあるが、独立して読むことはできる。毎年、SF作品を取り上げると「SFを読んだことのない学生がどこを読めばいいかわからない」問題にぶつかるので、今年は最初から取り上げてみた。

3:円堂都司昭「空転する痛み 西尾維新における傷の無意味と意味」(『ユリイカ2004年9月臨時増刊号 総特集=西尾維新』)

 西尾維新について書かれた評論が読みたいというゼミ生の要望によりセレクトした。ちなみに『文芸ラジオ』でも西尾維新特集をしたことがあるのだ。学生の皆さんはそちらも読もう。

4:谷原秋桜子「失せ物は丼」(『鏡の迷宮、白い蝶』創元推理文庫、2010年)

 ミステリーを読もうというテンションで取り上げた。落語と絡めた作品で読みながら北村薫作品を思い出していた……のは10年ぐらい前の玉井である。懐かしい。ちなみにイラストを『さらざんまい』のキャラデザを担当しているミギーさんが描いている。

5:藤津亮太「不可視の世界/五感の世界 アニメ『精霊の守り人』の戦略」(『ユリイカ 2007年6月号 特集=上橋菜穂子』2007年)

 ファンタジーに関する評論を読みたいとの要望があったので、取り上げた。上橋作品は学生の皆さんがよく言及しているので、そこを踏まえて考えてみようと思った次第である。

6:柊サナカ「おばあさんとバスの一枚」(『人生写真館の奇跡』宝島社文庫、2019年)

 生と死との間をめぐる作品は、学生の皆さんがよく書いてくるモチーフなので、一つ読んでみようと取り上げた。

7:高橋透「サイボーグと『攻殻機動隊』」(『サイボーグ・フィロソフィー 『攻殻機動隊』『スカイ・クロラ』をめぐって』NTT出版、2008年)

 学生の皆さんにとって「『攻殻機動隊』は名前を知ってはいるが、具体的に見たことはない作品」となりつつある……気がする。世代的に仕方のないことかもしれない。

8:知野みさき「落ちぬ椿」(『落ちぬ椿 上絵師 律の似面絵帖』光文社時代小説文庫、2016年)

 ここらへんで時代小説を読もうと取り上げた。構造を分析し、作品で描かれるテーマなどについて考えた。

9:鍵本優「「できなくなること」を享受する―日本社会でのデジタルゲームの経験から」(『多元化するゲーム文化と社会』ニューゲームズオーダー、2019年)

 そしてゲームですよ、と取り上げたのだが、ゲームがクリアできる/できないという問題は共通して語ることができるポイントではある。

10:高山羽根子「母のいる島」(『うどん キツネつきの』創元SF文庫、2016年)

 本当に高山作品は奥深くて素晴らしいと思っている。ゼミで考えていると、「うぬぬ」とうなるしかない感じになっていったことを覚えている。

11:石田美紀「戦闘少女と叫び、そして百合」(『ユリイカ2014年12月号 特集=百合文化の現在』2014年)

 さてそろそろ百合ですよ。百合を考えましょう。と取り上げたのである。

12:宮澤伊織「キミノスケープ」(『アステリズムに花束を 百合SFアンソロジー』ハヤカワ文庫、2019年)

 すると百合小説を取り上げることになる。百合とは……百合なのか……百合とは……という感じになった。

13:大城房美「<越境する>少女マンガとジェンダー」(大城房美・一木順・本浜秀彦編『マンガは越境する!』世界思想社、2010年)

 漫画ゼミで少女漫画を取り上げていたので、こちらも考えてみようとなり取り上げた。

14:彩藤アザミ「少女探偵ごきげんよう」(『昭和少女探偵團』新潮文庫NEX、2018年)

 そして少女文化的要素を取り入れた作品を読んでみようとなったのである。

15:岡本健「幽霊とゾンビ、この相反するもの」(小山聡子・松本健太郎編『幽霊の歴史文化学』思文閣出版、2019年)

 ラストは夏なので「幽霊とゾンビ」と思い取り上げたのだが、よく考えたらゾンビが夏である必然性はそれほどない気がする(中身とは関係のない話)。

文芸ラジオ 夢眠ねむさん公開インタビューのお知らせ(中止になりました)

(注意! 10月11日追記更新)台風の接近により芸工祭1日目(13日)は中止となりました。文芸ラジオのイベントも中止となります。楽しみにしていただいた皆さんには大変申し訳ありません。今後、誌面(6号)に何らかの形で掲載できればと考えております。どうぞ、よろしくお願いします。

 

 毎年、芸工祭で行っている文芸ラジオ公開インタビューですが、今年は夢眠ねむさんをお迎えいたします。これまで読まれてきた本や最近、開店した夢眠書店の話などをお聞きする予定です。お時間ある人はぜひご参加ください。なお本インタビューは来年発行予定の『文芸ラジオ』6号(5号はこちら)に収録予定です。

    • 夢眠ねむさん公開インタビュー
      日時:2019年10月13日(日)14時~(開場13時30分)
      場所:東北芸術工科大学本館201(入り口は3階になります)
      料金:入場無料

 

作品読解(全15週)と作品群(玉井担当のみ)

 『作品読解』は入学した一年生が受講する授業である。このブログでもちらちらと書いてきたし、玉井のtwitterアカウントでも毎回つぶやいていたのだが、前期も終わったのでここでまとめておこう。授業として何をしているかというと作品を読み、情報をきちんと把握し、要約を書くことを15回行っている。基本中の基本であるが、これが意外にできない。ちなみに今年は、授業第15週目が8月初旬にまで食い込んでおり、まさかのオープンキャンパス後にも授業を行ったのである(そして8月第2週は集中講義)。

 ちなみに去年までのものは以下にまとめてある。気分で書いているので、全作品を取り上げていないものもある。今、見ると何だか毎年同じようなことをしているので、少し反省してしまう。

1:青崎有吾「三月四日、午後二時半の密室」(『早朝始発の殺風景』集英社、2019年)

 初回授業は高校生が主人公のものにしよう、という謎の考えから、この作品をセレクトした。一応、受講生はつい数週間前まで高校生であったはずだから、読みやすいのではないかと思っているが、どうなのだろうか。本質的には経験からでしか読めないのは、読む手段が少なすぎると思っている。

2:彩瀬まる「かいぶつの名前」(『朝が来るまでそばにいる』新潮社、2016年)

 二回目は学校を舞台にした作品を取り上げた。とはいえ、初回の舞台が学校ではなかったように、この作品も教室という物理的空間に縛られたものではない。それでもとらわれてしまった存在に対し、何を思うのだろうか。と思ったりもしていた。

3:小嶋陽太郎「友情だねって感動してよ」(『友情だねって感動してよ』新潮社、2018年)

 そして三回目では教室内の出来事を描いたものを取り上げた。教室内という人間関係、そして権力関係を描いていくと、どうしてもそこから逸脱した存在に目を向けていくことになる。そのような呪縛から解き放たれて欲しいと思う(と作品とは最早関係がなくなっている)。

4:町田そのこ「夜空に泳ぐチョコレートグラミー」(『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』新潮社、2017年)

 そうなんですよ。結局必要なのは力強さなんですよ。

5:白尾悠「夜を跳びこえて」(『いまは、空しか見えない』新潮社、2018年)

 そしてもう一つ必要なのは、ほんのわずかな勇気。

6:中田永一「ファイアスターター湯川さん」(『私は存在が空気』祥伝社文庫、2018年)

 ここから教室にとらわれた話ではなく、いろいろなジャンルを読んでいこうという姿勢になっている。中田作品(というか乙一作品)が好きすぎるのか、授業の前の日にkindle版との比較をしていた(けど、授業では特に活用しなかった)。

7:円居挽「DRDR」(『さよならよ、こんにちは』星海社FICTIONS、2019年)

 まさかこの記事を書いている8月初旬のtwitterで、ドラクエ5(具体的には映画)の怨嗟ツイートをここまで目にすることになるとは思いもしなかった。実はこの作品で個人的なツボは、主人公が年上にもてあそばれているところである。

8:米澤穂信「913」(『本と鍵の季節』集英社、2018年)

 この作品の絶妙なキャラクター設定が見事だなと思っている(と玉井がえらそうなことを書いている)。ちなみに個人的にこれ以降、ハトムギ茶を飲むようになった(爽健美茶を飲むかわりに)。

9:武内涼「若冲という男」(『人斬り草 妖草師』徳間文庫、2015年)

 ここから時代小説ゾーンに入る。みんな大好き妖ものである。描写のスピードの話などもついでにした記憶がある。

10:伊吹亜門「監獄舎の殺人」(『刀と傘 明治京洛推理帖』東京創元社、2018年)

 この作品は本当に秀逸。単行本を読んだとき、うなってしまった。読めばわかる。

11:上田早夕里「くさびらの道」(『魚舟・獣舟』光文社文庫、2009年)

 ポストアポカリプスを取り上げようと思った第一弾。とはいえ、この作品は破綻にまで至っていないが、もう破綻エンド以外見えないものである。

12:北山猛邦「千年図書館」(『千年図書館』講談社ノベルス、2019年)

 ポストアポカリプス第二弾。現実世界に存在するものを散りばめながら、そこから読者に解き明かされることが前提で作られたものである。

13:門田充宏「風牙」(『風牙』東京創元社、2018年)

 そしてSFに移る。SF的なガジェットや関西弁の少女という明確なキャラクターだけではなく、人間の本質的な悩みにまで迫る作品だと思う。

14:柞刈湯葉「たのしい超監視社会」(『S-Fマガジン 2019年4月号』早川書房)

 ディストピア作品。みんな大好きビッグブラザーである。いや、皆さん、『1984年』はあまり読んでいないようであったが……。

15:小川一水「千歳の坂も」(『フリーランチの時代』ハヤカワ文庫、2008年)

 ラストは長いスパンを描いた作品を取り上げた。この描き方は簡単に思えて難しいし、二人の物語という主軸をずらさずに、でも社会や国家、経済というものが変容していく様も組み込まなければならない。

7月27日(土)・28日(日)は東北芸術工科大学のオープンキャンパスです。

 今週末の7月27日(土)・28日(日)にオープンキャンパスがあります。文芸学科の予定は以下の通りになります。皆さん、ぜひお越しください。

  • 学科説明会「文芸学科で学ぶ、言語表現・漫画・企画編集」
    担当:石川忠司
    文芸棟204教室(図書館2階)
    27日・28日(1)13:00-13:30 (2)14:30-15:00((1)(2)は同内容)

 文芸学科で行われている授業の内容を、実践的な演習を中心にご紹介。4年間のカリキュラムに沿って分かりやすく説明します。

  • 物語・ストーリー創作講座「読者を惹きつけるためのストーリーのつくり方」
    文芸棟205教室(図書館2階)
    担当:トミヤマユキコ
    27日・28日14:30-15:10

 好き勝手にストーリーを描くのは誰でもできます。しかし、プロの小説家になるには、読者を惹きつける必要があります。人気の小説やマンガを例に、書き出し・冒頭からどのようにストーリーを紡いでいくかを解説します。

  • 卒業生作家デビュー対談 猿渡かざみさん(角川スニーカー文庫より)×在学生
    文芸棟203教室(図書館2階)
    12:00-12:40 ※7月27日(土)のみ

 角川スニーカー文庫より作家デビューした卒業生の猿渡かざみ(さわたり・かざみ)さんと、文芸学科の学生が対談を行います。どうすればデビューできるのか、書き続ける秘訣は何かを、じっくりお聞きします。

  • 今村翔吾さん×池上冬樹教授トークショー「プロ作家になるには」
    文芸棟203教室(図書館2階)
    12:00-12:40 ※7月28日(日)のみ

 2018年に『童神』で第10回角川春樹小説賞を受賞した小説家の今村翔吾さんをお招きして、プロの作家になるための方法や、プロ作家としての仕事の様子、作品についてなどをお話しいただきます。ナビゲーターは文芸学科の池上冬樹教授です。

  • AO入試体験「昔話のリライトを体験しよう」
    文芸棟205教室(図書館2階)
    担当:玉井建也
    27日・28日13:40-14:20

 AO入試で行うグループワーク「昔話のリライト」を誰よりも早く体験できます。この課題のねらいやポイントを分かりやすく解説して、実際の入試のスタイルで行います。受験生はもちろん、1・2年生もぜひ参加してみてください。

 大学全体のオープンキャンパスに関してはこちらをご覧ください。

『文芸ラジオ』5号が発売になります。

7月26日(金)に『文芸ラジオ』5号が発売になります。東北芸術大学芸術学部文芸学科の学生・教員が編集にたずさわった雑誌になります。ぜひともお手に取りください。

  • 目次

Guest Talk 板倉俊之

 

  • 特集 異世界のつくり方

乾石智子「『魔道師の月』創作ノートから学ぶ世界創造」

高島雄哉「“架空”インタビュー 世界観がいっぱい」

荻原規子「ファンタジー小説の考え方」

森田季節「異世界物ライトノベルのはじめ方」

今井哲也「ファンタジー世界を描くための土台づくり」

水上悟志「“なんでもあり”のローファンタジー」

ファンタジー小説に登場する料理を食べてみた/ファンタジー小説にリアリティを持たせるために読むべき本

 

  • 特集 強い自分、ポジティブな自分になる

大学生ネガティブ実態調査

大嶋信頼「ネガティブとはただの悩みなのか」

前向きになれる本18選

あたそ「悩んだって、それが何になるっていうんだ」

小鳥遊しほ「小鳥遊しほに学ぶ、セルフプロデュース講座」

 

  • 小説

草野原々「札幌 vs. 那覇」

佐藤青南『二度目はない』

柊サナカ「炊飯器の騎士」

似鳥鶏「受験の神様」

辻堂ゆめ「君をミュート」

坂井希久子「スカートの人」

呉井城「キラー・イン・ザ・レモン」

宮崎晟汰「ジタ、タバコだけは吸わないで」

山川陽太郎「佐藤さん」

 

怪奇鼎談 押切蓮介×黒史郎×黒木あるじ「怪しくて怖いものだからこそ、惹かれる」

スペシャルインタビュー 保坂和志「自分の反応する興味全部を総動員して、それを小説にできるだけ入れる」

山本周五郎『五瓣の椿』とコーネル・ウールリッチ『黒衣の花嫁』の関係

山本周五郎(1903年~1967年)が亡くなって50年たつので、著作権がなくなり、遺族に印税を払わないで自由に出版できるようになった。山本周五郎といったら新潮文庫であったが、昨年から新潮文庫以外の講談社文庫や角川文庫でも、次々に山本周五郎が文庫化されているのは、そういう事情である。

今年に入っても、山本周五郎の代表作といっていい、『五瓣の椿』が3月に角川文庫、5月に新潮文庫に収録された(新潮文庫の場合は解説が一新された改訂版)。とても気に入っている作品なので多くの人に読んでほしいと思うけれど、困ったことに、角川文庫も新潮文庫も、解説の中で大事なことに一言も触れていない。年季の入った海外ミステリファンにはおなじみのことであるが、山本周五郎は何もないところから『五瓣の椿』を生み出したのではない。元ネタがある。それはコーネル・ウールリッチの『黒衣の花嫁』(ハヤカワ文庫)である。実際、ハヤカワ文庫版のあとがきでは軽くその事実に触れている。

これは海外ミステリファンの間では常識なのだが、いま検索をかけたら、この両者についての結びつきを詳しく論じているものが見つからないので、拙著『ヒーローたちの荒野』(本の雑誌社、2002年6月)から引用しておこう。「本の雑誌」に連載したものを一冊にまとめたもので、雑誌に書いたのは1990年代半ばかと思う。雑誌掲載時のまま、二回にわけてある。

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「二十年目の再読に評価が逆転した『五瓣の椿』と『黒衣の花嫁』」

約二十年ぶりに山本周五郎の時代小説『五瓣の椿』(新潮文庫)を読み返したら、これが意外と面白かった。それで、あわててコーネル・ウールリッチの『黒衣の花嫁』(ハヤカワ文庫)を再読したのだけれど、昔の昂奮はよみがえらなかった。どうしてだろう。
かつてはもちろん『黒衣の花嫁』を読んでから『五瓣の椿』を手にしたので、後者のひねりのなさが物足りず、少しストレートすぎるのではないかと思ったのだが、今回は逆の感想をもった。ウールリッチのひねりが気になり、山本周五郎の直截な筆致に心をうたれた。いやむしろ、こんに素晴らしかったのかと感動したほど。
『黒衣の花嫁』のあとがきで一言ふれられているが(新潮文庫の解説には一言もないが)、『五瓣の椿』は『黒衣の花嫁』から着想をえて書かれたものである。暴走運転で花婿を殺された花嫁ジュリーが、同情していた五人の男たちに復讐する・・というのが『黒衣の花嫁』だが、『五瓣の椿』は、若い娘おしの(、、、※ルビです)が、労咳の父親を見殺しにした淫蕩な母親と五人の愛人たちを次々に殺す物語である。名前を変え、男たちに言い寄り、男がその気になったところで動機を告白して殺す。このウールリッチのパターンをそのまま山本は踏襲している。連続殺人に刑事が注目し、結果的にヒロインの犯罪をあばくのも同じ(『五瓣の椿』では与力であるが)。
ただ違うのは(※以下、結末を明らかにします)、『黒衣の花嫁』の花婿の死亡が実は車で轢かれたからではなく、殺し屋が放った銃弾によるものであること、つまりジュリーの復讐はまったく根拠がなく、無垢の者たちを殺したことがわかる。このどんでん返し! ジュリーは、運命のいたずらに翻弄されて、犯した罪の重さを噛みしめるのだ。
いっぽう『五瓣の椿』は、おしのの行為を正当化する。“この世には御定法(ごじょうほう)で罰することのできない罪がある”“人が生きてゆくためには、お互いに守らなければならない掟がある。その掟が守られなければ世の中は成り立ってゆかないだろうし、人間の人間らしさも失われてしまうであろう”と。
現代の読者感覚からすれば、不義が殺人の動機になることへの違和感や、殺される者への同情を覚える人もいるかもしれないが、小説を読んでいると、そんな違和感や同情が差し挟まれる余裕はない。おしのの苛烈な精神性、熱くたぎる殺意にうちのめされてしまうからだ。生娘なのに、男をたぶらかすような真似をして誘い込み、一線を超えずに、最後は男たちの胸に銀の釵(かんざし)を打ち込む。その情念の峻烈さ。山本周五郎はウールリッチ以上に、より強く情念を打ち出しているのだが、もちろんそればかりではない。物語を借りて、もっと挑戦していることがある。(この項目続く)

「『五瓣の椿』はなぜ面白いのか」

コーネル・ウールリッチの『黒衣の花嫁』と山本周五郎の『五瓣の椿』。前回詳しく書いたように、後者は前者にインスパイアされて書かれた作品で、物語の構造はほとんど同じである。違うのはウールリッチがどんでん返しを採用しているのに、山本周五郎のほうはストレートに物語を運んだことだ。
当時の時代背景を探るなら、『黒衣の花嫁』が書かれたのが一九四〇年(余談だが、ハヤカワ・ポケット・ミステリから翻訳が出たのが五三年)、『五瓣の椿』は一九五九年。かたや第二次世界大戦に突入した時期の暗いムード、かたや翌年の安全保障条約改正阻止のために国情が騒然としはじめた頃を背景としている。だから、『黒衣の花嫁』のどんでん返し、つまり暴走運転で殺された夫の復讐のために連続殺人を犯したのに、実は死因が轢死ではなく殺し屋による銃殺というラストの衝撃は、ひとりよがりの正義のために無垢の者たちを殺してしまう“戦争”を批判したともとれるだろう。『五瓣の椿』がどんでん返しを採用せずに、ストレートに一人の女性の内面をぶつけたのは、己が信条のために行動を起こすことを是とする空気を反映したものとみることもできる。
もちろん作家論として、ウールリッチが絶望と哀愁を謳い、山本周五郎が世の中の底辺に生きる人々の真摯な思いをすくい上げたことをみれば、それぞれの結末は当然の帰結ともいえる。二人の作家とも“時代”を反映させ(いや反映させる意図はなかったにしろ)、それぞれの文学観で物語の結末をつけた。だからいま問題にすべきは、現代において、何故『黒衣の花嫁』が弱くて、『五瓣の椿』のほうが読者に面白く迫るのかということである。
簡単にいってしまうなら、『五瓣の椿』はまさに“現代のハードボイルド”ということにつきる。“この世には御定法で罰することのできない罪がある”という考えによって、おしのが殺人という私的正義を下すあたり、まさしく近年の(海外ミステリにおける)重要なテーマである自警団的正義の是非と絡んでくるし、何よりも文体そのものが、珍しいくらいに装飾を排して乾いている。非情な行動と台詞を冷徹に記述しながらも、こぼれおちる清冽な抒情。それは山本の代表作『樅の木は残った』にもいえることで(あの雪のなかでの鮮烈な鹿撃ちの場面を思い出せ!)、生島治郎や青木雨彦たちが国産ハードボイルドの先駆的な作品としてあげているほどだ。
しかも注目すべきは、外側から描かれていた『五瓣の椿』が終盤では一転しておしのの内面に入り込み、殺人を犯した女の悲しみや絶望が前面に打ち出され、心の闇がより鮮明になり、暗黒小説の片鱗をのぞかせることである。このハードボイルドからノワールへの移行。『五瓣の椿』が面白いのは、山本がはからずもその小説史を先取りした点にある。
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角川文庫の解説は、私小説家の西村賢太。角川の文芸サイト「カドブン」に解説がまるごと掲載されている。それによると、30年前の「初読時の本作の印象は決して心地良いものではなく、むしろ全篇に対し、軽ろき不興をさえ覚えた」という。「サスペンス仕立ての小説としては、現代の視点では至極ありきたりな筋の運びに感じたし、またそれだけにおしのの復讐心理にも不自然な――一口で云ってしまえば共感を重ねることがなかなかに難しかった」と。そしてこう続けている。

“さほどでもない作”との感想のまま、二度読み返すこともなかったのである。
そして三十年余の星霜を経たわけだが、先の、『山本周五郎長篇小説全集』配本の際に本作を再読してみて、私は過去の自身の大いなる不明を恥じぬわけにはいかなかった。
当然、細部については完全に忘れきっているから、それは殆ど初読に等しい復読である。
今度は若年時に感じた、おしのの心理に対する不自然さは露ほども感じなかった。
結句(けっく)、小説を読む際は単純に、どこまでもその物語の中に没入した方が得なのである。昔に読んだときには解らなかった語り口のうまさと緊密な構成力とが、今度はハッキリと本作にもあらわれていることを知った。
三十年と云う歳月が、こうも同じ作の読後感を変えるものかと驚いた次第である。
(KADOKAWA発の文芸情報サイト・カドブン「復讐は、虚しいか。父のために人を殺めた少女を待ち受ける、哀しくも優しい運命『五瓣の椿』」。角川文庫解説より

このあとに、僕が引用したところと同じ、“御定法”との絡みについての魅力が書いてある(関心のある方は読まれるといいだろう)。

おそらく山本の冷徹で直截な筆致は、いまの読者の胸に響くかと思う。ただし、大切なのは(大学の授業でも触れたことだが)、山本がハードボイルド・スタイルを貫き、最後に主人公の内面に入り込む方法をとったからでもある。最初から内面を描いていったら単調になるし、読者の胸には響かないでしょう。ぜひ『五瓣の椿』→『黒衣の花嫁』の順で読んでほしいし、できたら、フラソワ・トリュフォーが映画化した『黒衣の花嫁』(1968年)も見てほしいと思う。