どんでん返し

 「ランティエ」7月号の特集は「今野敏の世界」で、ベストセラー作家今野敏と新鋭作家の今村翔吾が対談をしている。

 今野敏は昨年作家生活40周年を迎えたベテランのミステリ作家で、今年5月まで日本推理作家協会理事長をつとめていた。今村翔吾は「羽州ぼろ鳶組」「くらまし屋稼業」シリーズでベストセラーを記録し、今年一月『童の神』(角川春樹小説賞)で直木賞候補になり、惜しくも賞を逃したが、真藤順丈の受賞作『宝島』に次ぐ高い評価を得た。文壇でもっとも注目されている若手作家だろう(※今村さんを7月28日の東北芸術工科大学のオープンキャンパスにお招きします。午後12時からトークショーあり。詳細は後日。午後2時からは今村さんは山形小説家・ライター講座の講師をつとめます)。

 二人の対談はとても面白いのだが、いちばん驚いたのは、このくだりだろう。

今野 俺は決めてないよ、結末。
今村 犯人も決めてないんですか?
今野 決めてない。いや、大まかにこいつにしようかなというのはあるけれど、布石を打っているうちに、どう考えてもこっちを犯人にしたほうが面白いってなると、振り返って齟齬(そご)がないかどうか調べて、拾える布石があれば拾って、そうすると、あたかも最初から考えていたかのように、物語ができる。すごいどんでん返しですねなんて言われるけど、当たり前だ、俺だって知らなかったんだから(笑)。
今村 道理で面白いわけだ(笑)。

「すごいどんでん返しですねなんて言われるけど、当たり前だ、俺だって知らなかったんだから(笑)」がおかしい。というか、結末も決めないで、35シリーズ(!)何百冊も書けるのだからたいしたものである。

 今野敏の発言を聞いて驚いた人もいるかと思うが、ストーリーを何一つ決めずに書いていく作家は少なからずいる。昭和の流行作家(という言い方があった)は月産500枚とか600枚とか、なかには1000枚、2000枚という作家もいたので(一時期月産2000枚だったのが勝目梓で、素晴らしく見事な純文学的自伝『小説家』によれば、多忙で鬱病にもなった)、いちいちプロットを決めて書くなど時間的に無理だろう。ぶっつけ本番で小説を書きはじめ、想のおもむくまま物語を展開させて巧みに着地した。プロ作家となればそんなことはなんでもなくなる。

 ストーリーを決めないで書く作家としては池波正太郎や北方謙三が有名だろう。5月の「せんだい文学塾」と「山形小説家・ライター講座」の講師を務めてくれた『バッテリー』で有名なあさのあつこさんも、実はストーリーを決めないで書く作家の一人だ。いかにストーリーを決めないで小説を書くのかを詳しく語ってくれたが(詳細は6月下旬公開の山形小説家講座のホームページをご覧ください)、これは何年も訓練を重ねたゆえに会得したもので、安易にとびつかないほうがいい。

 といっても、学生や小説家講座の受講生を見ていると、プロットを決めて書くのが苦手な人がいる。人それぞれの書き方があるので、プロットを決めて書くことがベストとはいわないが(そのかわりキャラクターや設定やテーマなど様々なことは押さえておくべきだが)、少しでも決めて書いたほうがあとあと楽である。全部を決める必要はないし、前半だけでもいいから決めたほうが終盤であまり迷うことはない。プロット作りが苦手な人でも、書き方やアプローチを教えれば、問題をクリアできる。理論が頭にあれば、困ったときにどうすれば対処すべきかが見えてくる。そのために大学では理論を教えている。

 先日から、大学のゼミでは、ジェフリー・ディーヴァーの短篇をテキストにしている。現在、世界でナンバーワンのどんでん返し作家といったら、誰もがディーヴァーをあげるだろう(あと数十年たってもディーヴァーはナンバーワンだろう)。四肢麻痺の科学捜査官リンカーン・ライム・シリーズ(『ボーン・コレクター』『ウォッチメイカー』)や、いかなる嘘も見抜く尋問の名手(別名“人間嘘発見器”)キャサリン・ダンス・シリーズ(『スリーピング・ドール』『ロードサイド・クロス』)が有名だが、長篇のみならず短篇の名手でもあり、短い枚数の物語のなかに仕掛けが詰まっていて、どんでん返しの切れ味たるや抜群である。

 学生たちに、これはどんでん返しの名手の短篇であり、最後に大きなどんでん返しがあるから、それを頭に入れてだまされないように推理して読みなさい、と事前にいっておくのだが、誰もがころりとだまされる(プロの評論家ですらだまされるのだから当然だが)。え? そういうオチなの!? と驚いている。一読したあと、伏線そのほかの確認のためにもう一度読み返して、一つ一つの細部にうなり、これはすごい! と感嘆している。エンターテインメント、とりわけミステリ系の作品を書きたいと思っているなら、ツイストやどんでん返しは必須で、どのように仕掛けるのか、その方法とは何かを、細部を通して実感しないといけない。

 もちろん今野敏クラスになれば、どんでん返しも書いているうちに思いつくかもしれないが、それもまた長年の経験(とくに読書量)があるからこそ。学生や小説家志望者はたくさんのサンプルを読んで、その方法を学んだほうがいい。どんでん返しにもパターンがある。どんでん返しの作家はディーヴァーばかりではなく、ほかにも多くの作家がいて、読者を愉しませる(騙す)技を磨いているのだ。その技に触れるのがいちばんだろう。

『ソワレ学級』、『私は存在が空気』と授業第六週

 あいみょんの曲に「君はロックを聴かない」がある。一時期、よく聞いていて、「ロック」を「聴かない」という否定形なのが非常に心地よかった。別にロックに対し愛情も信仰もないのだが、それでも一つのジャンルを築き上げている概念に対して見事なタイトルだと思う。しかも、本人がインタビューなどで「青春の曲」と言うように、ロックを否定している曲ではない。むしろ、この歌詞の主人公はロックを聴いている。聴かないのは君なんだ。

 胸の高鳴りを抑えきれず、何もできないけど自らのことを知って欲しい自分、ロックを聴いて欲しい自分。それぞれのロックンロールに自らを重ね合わせてきた、そういうアイデンティティを積極的に伝えることができない。それを「こんな歌」や「あんな歌」に乗せていこうとする姿勢。そのすべてが、ここぞというときにはいじらしいほど受け身であり、積極的に最後まで貫くことのできない勇気のなさを感じ取ってしまう。いや、いい。青春というのはそういうものだ。青春という枠組みの中にありながらも、学校や教室、部活、登下校という既存の中に属していかないものだってあると思う。深夜ラジオで聞いた曲を、そのあと何年経っても聞き続けたりするなんて思うわけないだろう? そのようなときに曲の力、歌詞の力は強大だなと思う。

 「普通」という枠組みは非常に強固で、そこから外れてしまうと生きていくのが大変だと錯覚してしまう。そう思ってしまうは仕方のないことだし、別に非難されることではない。でも、そんな一面的な物事だけで世の中は成り立っていない。第六週のゼミで読んだ靴下ぬぎ子さんの『ソワレ学級』(徳間書店、全2巻)は、進学校でドロップアウトしてしまった主人公が定時制高校に入り直す物語である。自由に登校し、自由に行動をする。年齢もばらばらであれば、授業にきちんと出るかどうかも定まっていない(そりゃ、出るのが前提だが)。その姿勢に慣れていく過程のなか、主人公が電車内で中学校の同級生に会ったときに、双方が感じ取る気まずさが描かれる。ほんのわずかなシーンだし、それが主題であることもない。作品としては、その後、同級生の女子学生2名の関係性が中心に描かれていく。そう教室内の関係性なんか、この物語では無意味なんだ。本当に学校という枠組みの絶対性を、この作品は崩してくれている。

 第六週の作品読解で取り上げたのは中田永一さんの「ファイアスターター湯川さん」(『私は存在が空気』祥伝社文庫、2018、所収)である。毎年、この授業の内容を一新するようにしているのだが、作品をかえても作家はそのままにすることもある。昨年は同じ短編集に収録されている「少年ジャンパー」を授業で取り上げた。この作品は教室内の関係性に疲弊した主人公が、超能力を手に入れることにより、大きな変化を起こしていく物語である。教室内の関係性から逸脱してしまった主人公は、その外で別の関係性に意味や意義を見出していく。どこかに属し、固定観念を抱き続けることは、決して間違っているわけではないが、そこから離れた存在・概念だって、世の中には存在している。「ファイアスターター湯川さん」の主人公も、必ずしも自らが社会的に属する大学生という価値観には縛られてはいない。

 そのうち皆さんもあいみょんの曲を聞きながら、見えなかった部分や感じ取れなかった概念を理解できるときがくるかもしれない。願わくば大学生活の4年間で、そうなって欲しいけれども、そう上手くいかないことも知っている。自分がそうではなかったから。

『かわるがわる変わる』と授業第五週目

 第五週目はオープンキャンパスですべてが語りつくされる……ような気がするが、そのようなことはなく通常の授業も行っている。そのため疲労感は倍増する。普段は接することのない高校生の皆さんとオープンキャンパスという場で語ることは、新しい経験でもあるし、自分の半分ぐらいの年齢の人々が今は何を読み、何を見ているのかは興味深いところでもある。何より大勢の高校生の皆さんが文芸学科に足を運んでいただき、大変うれしい。そしてオープンキャンパスで意図せずしてよく聞かれるのは、「授業で漫画を取り上げているが、どのようなものか」というものと、さらにはその質問に地続きな感じで「最近のおすすめの漫画(もしくはアニメ)は何ですか」となる。

 おすすめ問題はきわめて根深く、高校生が特別、数多く質問するわけではなく誰でも聞くことであるし、僕だって聞く。他者が何を考えているのかの入口として、作品やクリエーターの具体名を聞き出していく作業は別に非難されうるものではない。しかし、ひねくれてしまっている自分は「それを聞いてどうする。右から左に作品をすべて読んでいけばいいではないか」などと思ってしまうのである。これは主に「最近読んで面白かったのありますか?」とか質問してしまった自分自身に対しての疑問である。他者との会話の中で、自分に聞かれると何も考えずに答えていくので面倒くさい(なので嫌なわけではないので、今後も気にせず聞いて!)。

 とはいえ、このおすすめ本に関して本質的にはどうでもいい。一番面倒なのは、玉井の存在でもなく(いや、面倒なんだけど)、授業の話と連続性をもって質問が登場するときである。「教員はおすすめ本を授業で使っているに違いない」という考えのことだ。この点がいかに違うのか、ということを以前のブログに書いたような気がするが、大事なことなので二回も三回も書こう。書いておこう。書くのだ。

 大学の授業しかしたことがないので、それ以外はわからないのだが、基本的に学科内でも大きなカリキュラム構想の中で個々の授業内容が構築されている。より巨視的な見方をすると大学のディプロマポリシーの中で授業は作られていくのだが、それを個々の学科に落とし込み、さらに詳細を作りこんでいくのである。そして個々の授業に課せられた目標に合わせるかたちで、15回のうちの1回分の授業内容を考え、作っていく。その過程の中で、それぞれの意図(例えばキャラクター造形や物語構造、文体や書き出しなどなど)に合致する作品を取り上げているだけである。したがって、そこに教員の好みが反映されることは、皆さんが思っている以上にない。もちろん、ある程度は好きな作品・作家を取り上げるのだが、現実はそれだけではうまくいかないので、好きかどうかという基準で判断していない作品について考え、語ることになる。

 私としてはこれまで触れてこなかった作家・作品について考えるのは、非常に面白く、授業を行っている自分自身の可能性を広げ続けることにつながっているのではないか、と思っている。だいたい一番好きな作品は、もう何度も読んだし、いろいろと考えているではないか。そこから広げるためには未知のものに手を伸ばすしかない。でも、ああ、ここで問題が起きてしまう。こう書いてしまうと、以降、授業で取り上げた作品に対して、この教員は好意的ではないかもしれないという疑惑を与えてしまうような気がしてならない。それは「好きな作品を取り上げている」という間違った解釈の対称でしかない。「授業では好きな作品を取り上げている」と「授業では嫌いな作品を取り上げている」は同位相的に間違っていることになる。

 さて通常の授業でも漫画作品を取り上げることはあるのだが、毎週取り扱っているのはゼミである。第五週のゼミでは藤緒あいさんの「ビーフカツレツ」(『かわるがわる変わる』祥伝社、2017年、所収)を取り上げた。この作品が優れているのは、男性が女性に対してプロポーズをするという極めて単純なストーリーを重層的に描くことで、エンターテイメントとしての濃度を上げている点だと思う。レストランでプロポーズする男性と女性という存在があり、それを主軸に物語の展開自体は行われるのだが、その外枠として観察者である女性と男性(両方ともレストランのバイト)が存在する。この観察者が作品の主人公であり、そのことはコマ割りやビジュアルで明確に把握できるように設計されている。シンプルなストーリーラインを重層的に形作ることで、そして漫画的な設計を施すことで(だってプロポーズのシーンよりウェイターのほうがカメラが寄ってるんだよ)、読者が受け取る物語的な情報量が増幅していく。みたいなことを、もっと理論的に語ったりしている。

 まじめに考えてはいるのだが、別に学会発表ではないので、かなりフランクにゼミ自体は進めている。それがいいのか悪いのかはわからないが、提示された作品に対する考え方の一つを提示しているだけであって、別にそれが絶対ではないし、学生側から別の読み方が提示されることもある。あとは参加する学生さん自身が、家に持って帰り、沈思黙考しているとき、そして自らの制作をする際に、どういかされていくのか、でしかない。

池上冬樹の50冊(解説を担当した文庫本から)

 5月25日、東北芸術工科大学でオープンキャンパスが開催された。
 文芸学科の会場では、各教員の「教員の本棚」が設けられたが(「オープンキャンパスと忘れがたき本たち」参照)、そのほかに各教員が選んだ「お薦め50冊」の棚も作られた。「教員の本棚」は品切れ・絶版本でもOKだったが、こちらは新刊本が条件だった。
 何を選ぼうか迷ったけれど、読んでほしい文庫本がたくさんあるので、宣伝をかねて、自分が解説を担当した文庫本を50冊選んでみた。会場の都合で、ほかの先生方の本と紛れてしまったので、ここで僕がリストアップした50冊をあげてみることにする。

■池上冬樹の50冊(解説を担当した文庫から50冊)

▼文学賞およびミステリ・ベストテン第1位に輝いた名作(15冊)
・阿部和重『シンセミア』(講談社文庫)※伊藤整文学賞&毎日出版文化賞
・荻原浩『オロロ畑でつかまえて』(集英社文庫)※小説すばる新人賞
・恩田陸『夜のピクニック』(新潮文庫)※本屋大賞
・小池真理子『欲望』(新潮文庫)※島清恋愛文学賞
・佐藤賢一『王妃の離婚』(集英社文庫)※直木賞
・中島京子『かたづの!』(集英社文庫)※柴田錬三郎賞ほか2賞
・宮部みゆき『理由』(新潮文庫)※直木賞
・横山秀夫『第三の時効』(集英社文庫)※「この警察小説がすごい」オールタイム1位
・連城三紀彦『隠れ菊』(集英社文庫)※柴田錬三郎賞
・渡辺優『ラメルノエリキサ』(集英社文庫)※小説すばる新人賞
・ベン・H・ウィンタース『地上最後の刑事』(ハヤカワ文庫)
 ※アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀ペイパーバック賞
・ボストン・テラン『神は銃弾』(文春文庫)※「このミステリーがすごい」第1位
・ジョン・ハート『ラスト・チャイルド』(ハヤカワ文庫)
 ※アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀長篇賞&英国推理作家協会賞最優秀賞スリラー賞
・トム・フランクリン『ねじれた文字、ねじれた路』(ハヤカワ文庫)
   ※英国推理作家協会賞ゴールド・ダガー賞&LAタイムズ文学賞
・ローリー・リン・ドラモンド『あなたに不利な証拠として』(ハヤカワ文庫)
  ※「このミステリーがすごい」&「週刊文春ミステリーベスト10」第1位

▼現代の古典および古典的名作(8冊)
・福永武彦『幼年 その他』(講談社文芸文庫)
・開高健『青い月曜日』(集英社文庫)
・『冒険の森へ・傑作小説大全 第3巻/背徳の仔ら』(集英社)
 ※大藪春彦『野獣死すべし(付・復讐篇)』黒岩重吾『裸の背徳者』所収
・ウイリアム・アイリッシュ『幻の女』(ハヤカワ文庫)
・グレアム・グリーン『ヒューマン・ファクター』(ハヤカワ文庫)
・トレヴェニアン『シブミ』(ハヤカワ文庫)
・ジョン・ル・カレ『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』(ハヤカワ文庫)
・スティーグ・ラーセン『ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士』(ハヤカワ文庫)

▼ベテラン作家の傑作(10冊)
・伊集院静『新装版 三年坂』(講談社文庫)
・北方謙三『抱影』(講談社文庫)
・川上弘美『夜の公園』(中公文庫)
・高樹のぶ子『マルセル』(文春文庫)
・辻原登『寂しい丘で狩りをする』(講談社文庫)
・宮本輝『草原の椅子』(新潮文庫)
・森村誠一『地果て海尽きるまで』(ハルキ文庫)
・リー・チャイルド『アウトロー』(講談社文庫)
・ピエール・ルメートル『傷だらけのカミーユ』(文春文庫)
・デニス・ルヘイン『過ぎ去りし世界』(ハヤカワ文庫)

▼人気作家の出世作(8冊)
・有川浩『植物図鑑』(幻冬舎文庫)
・伊坂幸太郎『ラッシュライフ』(新潮文庫)
・石田衣良『池袋ウエストゲートパーク』(文春文庫)
・熊谷達也『山背郷』(集英社文庫)
・高見広春『バトル・ロワイアル』(幻冬舍文庫)
・法月綸太郎『新装版 頼子のために』(講談社文庫)
・宮部みゆき『本所深川ふしぎ草紙』(新潮文庫)
・ユッシ・エーズラ・オールスン『特捜部Q 檻の中の女』(ハヤカワ文庫)

▼隠れた名作(9冊)
・井上荒野『ママがやった』(文春文庫)
・大沢在昌『ライアー』(新潮文庫)
・奥田英朗『沈黙の町で』(朝日文庫)
・北方謙三『擬態』(文春文庫)
・片岡義男『花模様が怖い 謎と銃弾の短篇』(池上冬樹編、ハヤカワ文庫)
・佐々木譲『夜にその名を呼べば』(ハヤカワ文庫)
・佐藤正午『身の上話』(光文社文庫)
・瀬尾まいこ『優しい音楽』(双葉文庫)
・葉室麟『千鳥舞う』(徳間文庫)
                                       
 以上の本の一冊一冊に思い入れがあり、詳しく紹介したい気持ちが強いので、いずれ紹介できればと思う。数えてみると、文庫解説は400冊を超えるので、50冊は8分の1にすぎない。品切れ・絶版になってしまったものにも歴史的な名作がたくさんあるし、いまや新古書店やアマゾンでも簡単に入手できる時代に入ったので、そちらもとりあげていきたいと思っている。お楽しみに。

オープンキャンパスと忘れがたき本たち

 5月25日、東北芸術工科大学で、オープンキャンパスが開催された。
 文芸学科でも学生たちとともに高校生&保護者のお相手をしたけれど(多数のご来場ありがとうございました!)、なかでも仙台の高校生と、伊坂幸太郎や宮部みゆきの話が出来たのが嬉しかった。まあ、僕が伊坂さんの『ラッシュライフ』、宮部さんの『理由』『本所深川ふしぎ草紙』の解説を担当していることを知らなかったようだけれど(前者は読んでいるみたいでしたが)。

 高校生たちと話をするのも面白かったけれど、合間をぬって、会場に置かれた学生たちが紹介する本を眺めるのも楽しかった。高校生たちに読んでほしい本がたくさん並んでいて、そこには短い書評もついていて、なかなか書ける学生もいて頼もしかった。

 個人的には、片桐はいりの『グアテマラの弟』(幻冬舎文庫) を“発見”した。女優としての活動は知っていたけれど、文筆家としては知らなかった。いや、どうせ女優の片手間仕事(顔で書いた芸能本)でしょうと甘く見ていた。でも、活字を追っていったら、やめられなくなり、しばし読みふけってしまった。いやあ、うまいね! この人。エッセイスト片桐はいりの文章をもっと読まなければと思った。

 そのほかでは、同僚の先生方の「教員の本棚」が興味深かった。文字通り、先生方が過去に影響をうけ、現在も身近におかれている本たちで、1人15冊という決まりで、それぞれの個性がうかがえて、なるほどなるほどと思った。
 ちなみに、僕の「教員の本棚」は以下。コメントと15冊のリストです。

 小学校四年の時に江戸川乱歩の少年探偵団ものに魅せられて小説に夢中になり、六年のころにはエラリー・クイーンやヴァン・ダインなど本格ミステリを読んでいたが、中学では家の本棚にあった世界文学全集をあさり、特にヘミングウェイの『武器よさらば』に感動。でも高校では福永武彦の『忘却の河』と出会い、一転して日本文学に。辻邦生、森内俊雄、吉行淳之介、野坂昭如、三島由紀夫、石川淳と日本文学にどっぷりとはまり、大学では日本文学科を専攻した。しかし別名義で本格ミステリを書いていた福永武彦の弟子筋(?)から結城昌治のハードボイルドを手にして一変。ハードボイルドにはまり、とりわけ結城昌治が影響をうけたロス・マクドナルドにノックアウトされて、日本文学と並行して、本格的に海外ミステリ(エンターテインメント)の渉猟を開始した。
 あれから40年。小説は読めば読むほど面白い。日本および海外の小説のみならず短詩型の文学や評論などにもたくさん影響をうけた。リストアップした15冊の半分は座右の書であり、残り半分は忘れがたい本である。

・福永武彦『忘却の河』(新潮文庫)
・吉行淳之介『暗室』(講談社文芸文庫)
・小川国夫『生のさ中に』(角川文庫)
・立原正秋『暗い春』(角川文庫)
・結城昌治『あるフィルムの背景』(角川文庫)
・開高健『夏の闇』(新潮文庫)
・森内俊雄『短篇歳時記』(講談社)
・笠原和夫・絓 秀美・荒井晴彦『昭和の劇 映画脚本家・笠原和夫』(太田出版)
・道浦母都子『無援の抒情』(岩波現代文庫)※歌集
・岡井隆『「赤光」の生誕』(書肆山田)
・アーネスト・ヘミングウェイ『武器よさらば』(新潮文庫)
・ロス・マクドナルド『ウィチャリー家の女』(ハヤカワ文庫)
・ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』(文春文庫)
・リチャード・スターク『悪党パーカー/怒りの追跡』(ハヤカワ・ミステリ)
・池上冬樹『ヒーローたちの荒野』(本の雑誌社)

                                        
 以上が掲載された文章とリストだが、実は、結城昌治に関しては、最初『暗い落日』(角川文庫)をリストアップしていた。ところがいざ本棚を見たら、ない。自宅のどこかにあるはずだが、あちこちの山を掘り返さないと見つけられない。時間と労力がもったいないので、仙台の萬葉堂(どでかい古本屋。古本マニアの聖地。ジャンル別アイウエオ順に並んでいるので、さしづめ県立図書館みたい)や、山形の香澄堂書店でも探したのだが(そのほうが簡単)、でも見つけられない。

 『暗い落日』に関しては講談社文庫版と、それを基にした中公文庫版もあるが、僕はどちらも認めない。『ヒーローたちの荒野』にも書いたことだが、結城昌治は亡くなる前に、物語の時代背景(戦後の混乱が残っていた昭和30年代の背景)をそのままにして、古い用語と貨幣価値をあらためたから、いびつな世界になってしまった(数千億円の大富豪の娘が2階建てのアパートに住んでいて、親子電話でよびだされ、高級車ブルーバードに乗っている・・なんてどうみてもおかしい)。何よりも鍵となる老人の憤怒と後悔が、1980年代まで普通に使われていた言葉(現在では差別用語)を通して語られるのに、新しい言葉に直したものだから、なんかよそゆきの感情になり、作り物染みてしまった。

 仕方がないので、『あるフィルムの背景』(角川文庫)にしたけれど、警察小説の名作『夜の終る時』でも、スパイ小説の古典『ゴメスの名はゴメス』でも、渋い連作『死者たちの夜』でも、玄人の人気が高い『幻の殺意』でもいい(ただし全部角川文庫版。学生のときに夢中になって何度も読み返したので)。

 実は、コメントにもあるように、三島由紀夫に惚れ込んでいたので、リアルタイムで読んだ『豊饒の海』四部作(『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』)をリストアップしたのだが、大学までもっていくにはあまりに重く(『昭和の劇』も分厚くて重い)、文庫本に変更するには寂しく(豪華絢爛な単行本の装丁がいいからね)、愛着のある立原正秋の『暗い春』にした(いくらでも二番手三番手四番手がいる)。

 ちなみに、『豊饒の海』四部作、それから福永武彦の『死の島』(上下巻、河出書房新社)、辻邦生『背教者ユリアヌス』(中央公論新社)が、高校時代に読んだ忘れがたき新刊本で、三つとも、あまりの面白にさに「結末などないほうがいい!」と思ったほどである。『死の島』も『背教者ユリアヌス』もとても分厚くて、いつまでも読み終わらない幸福(それは残り頁の厚さを手で確認することでもある)をとことん味わうことができた。いまでは二作とも容易に文庫本で入手できるけれど、文庫本では物語の厚みを体感できないので、ぜひ古本の単行本を求めてほしい。『死の島』の単行本には、物語の時間を整理したカレンダーの栞もついていて、過去と現在の往復がより明確に確認することができる。長い独白、小説内小説、三つの結末など小説の方法に挑戦した、戦後最大の実験作の一つでもある。

 そういえば、いま思い出したのだが、『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』『死の島』『背教者ユリアヌス』はみな、大学に上京したときに山形から持っていった本である。北烏山のアパートでも何度も読み返した。

 さて、いまの大学生たちは何を部屋に持ってきたのだろう。そして来春大学に入る高校生たちは、何をもって山形にくるのだろうか。ちょっと聞いてみたいものだ。

『友情だねって感動してよ』、『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』と授業第三週・第四週、そしてオープンキャンパスへ

 なんというブログの記事タイトルであろうか。二週間分を一気に更新しようだなんて。授業期間中に毎週更新ぐらいはしてみよう、と大して深く考えもせずに取り組み始めてしまったが、この体たらくである。第三週どころか第四週まで食い込みながら、二週間分を一気にお届けするのだ。責任者出てこいの気分である。

 日記をまじめに書いている人にはわからない感覚かもしれないが、1週間以上経過してしまうともう何が起こっていたのか、そしてその出来事を覚えていたとしても、自分自身がどう受け止め、何を考えていたのかは遠い記憶の彼方になっている。過ぎ去っていく日々は、どれも均質化されてしまい、単なる過去として脳内処理されがちなのだ。と言い切ってみたが、学問の端っこに身を置いている立場としては、本来はそう考えてはいけないものなのだろう。その誰かにとっては見るべくものない過去かもしれないしが、誰かにとっては重要かもしれない過去を、忘れそうな記憶を、忘れ去れられそうな記録をも、考えていかなければならない。

 さて記憶を掘り起こしながら書いているが、一年生向けの「作品読解」という授業の第三回目では小嶋陽太郎さんの『友情だねって感動してよ』(新潮社、2018年)、第四回では町田そのこさんの『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』(新潮社、2017年)を取り上げた。毎年、この授業は一年生が受講することが多いので(二年生以上で受講している場合は、前の年に単位を落としていることになる)、入学して間もない皆さんが抱えるいろいろな不安や新鮮な感動を描く作品を取り上げようとセレクトしている。特に今年は様々な短編を読んでいくうちに気になる作家や作品が数多く目に留まってしまったので、この路線を第五回の授業まで引き延ばすことにした。

 個人的には物事を考えることへの矛盾や理不尽さは確実に存在していて、そのことを時間をかけて、ある部分では受け入れ、ある部分では反発しながら生きてきたように思う。そのことを今から振り返って考えてみると、学生のときに吸収した作品を自らの血肉として考え、文章でも論文でも何かしらアウトプットしていくことができるようになって、ようやく考えることができるようになったのではないだろうか。ただ、簡単に書いたけれども、インプットとアウトプットは連動しつつも、両方ともに一朝一夕にできるようになったわけではない。その最初の一歩として(人によっては二歩目、三歩目かもしれないが)、この授業を受け入れ、10年後ぐらいに振り返って欲しいなあ、というよくわからない気持ちで授業を行っている。要はおっさんになったということでもある。

 その文脈で小嶋陽太郎さんの『友情だねって感動してよ』も町田そのこさんの『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』も、両作品ともに既存の認識の枠組み内に居続けることの息苦しさを描いた作品として取り上げた。もちろん既存の枠組みに入り込むことが悪いわけではなく、それは社会としてそして人としてある一面では非常に正しいし、何より楽である。とはいえ、人間、譲れないものはどこかにあるもので、その線引きがどこに行われるか、そしてその線引きが枠をはるかに超えてしまう場合だって往々にしてあるのだ。そのときに周囲の目を気にして息苦しくなるよりは、別の場所で生きること、別の考えを身につけることは自分自身の大きな自信になるし、大きな武器になると思う。

 そのことを忘れないで欲しい。そう書きつつ、今週末はオープンキャンパスが開催される。高校生の皆さんが、大学に来て、うちの文芸学科に来て、学びたい、考えたい、叫びたい(別に声に出して叫ぶ必要はないけど)という願望があれば、ぜひ足を運んで欲しい。我々は常に皆さんをお待ちしています。

 オープンキャンパス情報は以下の通りです(大学全体のページはこちら)。教員の面談・作品講評は随時行っています。

  • 5月25日(土)スケジュール
  • 13:00-13:30 学科説明(担当:石川) 文芸棟(図書館2階)204教室
  • 13:40-14:20 物語・ストーリー創作講座「ノベルクサ」(担当:玉井) 文芸棟(図書館2階)205演習室
  • 14:30-15:10 物語・ストーリー創作講座「3キャラでストーリーを作ってみよう」(担当:トミヤマ)文芸棟(図書館2階)205演習室
  • 14:30-15:00 (担当:石川) 文芸棟(図書館2階)204教室

『スキップとローファー』とゴールデンウィーク

 これが年を重ねたということか、と思うことが多くなっているのだが、その一つとして学校を舞台とした作品に対する興味関心が薄れていることが挙げられる。現在地からの時間的距離感が生まれてしまうことによるものだろうとは思う。もちろん嫌いになったわけではないし、学園ものが発売されたところで別にそれを理由に忌避することもないのだが、ただそれだけで魅力的に思えるほどではなくなっている。物語のパターンや空間に既視感が生まれてしまうことは致し方ないとはいえ、そもそも学校という空間に期待なんかしていないからではないかと自問自答をしたりもしている。教育空間に身を置いているというのに。そのため連休になり積読を崩そうとして、ようやく高松美咲さんの『スキップとローファー』(講談社)を手に取ることになった。

 連休とは良いもので、たまっている仕事に取り組むことに注力できるようになるし、自然と睡眠と読書の時間も取れるようになる。10連休だろうと5連休だろうと何でも良いのだが、連休は素晴らしい。連休に長いも短いもない。長くて休めない人は休み方を知らないだけで、ダラダラ過ごしてしまうのではないだろうか。本を読もう。なんでも読もう。そのぐらいのおおらかな気持ちで、連休中に『スキップとローファー』を読み始めた。正直に書こう。読む前は、そして物語の冒頭までは「また、この手の話か」と思っていたが、読後感は最高であった。「SFじゃないのか」と思ってすみません(前作『カナリアたちの舟』は素晴らしきSF作品だった)。

 物語は過疎地域で育った女子学生が、進学した高校で経験したことのない人間関係や社会状況に身を置いていくものである。何が良いのかというと、主人公を筆頭にそれぞれのキャラクターが重層的に描かれている点である。主人公が通っていた中学校では生徒が8名しかおらず、人間関係で悩む・悩まない以前にコミュニケーションが可能であった状況から、大きく環境が転換していく。それに悩むという単純な話ではないのが、非常に良い。一つ一つを新鮮に感じ取り、直球で味わっていく彼女は決して魅力的な人間ではないかもしれないし、クラスメイトであったとしても特に友達にはならないかもしれない。これは経験値の低さが、他者から魅力的に受け取られるかどうか、という問題である。

 ただし彼女は物事に天真爛漫に取り組んでいくわけではない。きちんと悩み、考え、行動している。それは既存の教室内の関係性で構築されうる行動原理にからめとられていないことを意味している。その点において魅力的であるし、極めて危ういともいえる。教室の関係性というのは、高校生までの(もしかしたら一部の大学生の)視野や認識範囲では非常に強固に思えるのかもしれない。しかし、その範囲の狭さを認識するには外部からの指摘が非常に有用だし、さらにはその狭さの中で出来得ることがまだまだ存在することも理解できる。決して、その狭さはくだらないものでも唾棄するだけのものでもない。

 ということを、つらつらと考えているうちに連休はあっという間に過ぎ去ってしまった。具体的には東京の自宅にいたのに溜めてしまっていた作業をこなして、体調を整えているうちに過ぎ去ってしまった。あまり本が読めなかったので、もっと読書スピードを上げていきたいものである。

山形で学ぶこと

 

 

「こういう小説家講座、東京にありますか?」
「残念ながらないと思います。山形に来るしかないでしょう」

長年世話役をつとめている「山形小説家・ライター講座」や「せんだい文学塾」の終了後に、以上のような会話をよくする。聞くのはほとんど東京在住の作家志望者や文学ファンである。講師(有名作家)の名前にひかれて(講師の話を聞きたくて)、東京からわざわざ山形や仙台に訪れる人たちだ。

そういう人たちの顔を見ると、なぜ作家の生の話を聞くためにわざわざ東北に来なくてはいけないのか? という疑問がのぞいている。その気持ち、よくわかります。日本の中心ともいうべき東京に作家たちはたくさん住んでいるのに、なぜ東京に小説家講座はないのか? と思うでしょう。一人の評論家や作家が講師をつとめるカルチャーセンターの講座はあるけれど、山形や仙台講座のように、毎月異なる作家(それも有名作家)が講師をつとめる講座が、どうして東京にないのかと思うのは当然です。そして、どうして往復2万3000円近い新幹線代(夜行バスだとその半分以下)も払って、東京から山形や仙台に来なくては行けないのか、とも。

なぜ東京に小説家講座がないのかはわかりませんが(理由はある程度想像できますが、ここには書きません)、東京に存在しない以上、山形と仙台に通うしかないでしょう。
東京から来る人の話ばかり書いていますが、実際は、山形講座には全国からつめかけています。遠くは福岡や徳島、北海道や京都からも通っている人がいます。山形講座出身作家の深町秋生は作家デビュー前は勤務先の大宮や福岡から通っていましたし、福岡在住の受講生だった佐伯琴子さんは昨年『狂歌』で第10回日経小説大賞を受賞したばかり。そう小説家講座からぞくぞく作家が生まれています。

あなたがもしも文芸や創作に関心があり、将来作家や編集者になりたい高校生なら、山形の大学を選ぶといいでしょう。授業も充実していますし、何よりも、東京から通う必要もなく、毎月名だたる作家や日本を代表する編集者に会えるのですから。

(以下、2019年度の山形小説家・ライター講座とせんだい文学塾の概要をのせておきます。)

■2019年度「山形小説家・ライター講座」概要(敬称略)

4月28日(日)太田愛(『相棒』脚本家&小説家)
5月26日(日)あさのあつこ(野間児童文芸賞&島清恋愛文学賞作家)
6月23日(日)穂村弘(歌人・評論家・エッセイスト。伊藤整文学賞&若山牧水賞)
7月28日(日)今村翔吾(角川春樹小説賞作家)
8月25日(日)三浦しをん(本屋大賞&直木賞作家)
9月22日(日)佐藤多佳子(本屋大賞&山本賞作家)司会・紺野仲右ヱ門
10月27日(日)朱川湊人(直木賞作家)司会・黒木あるじ
11月24日(日)角田光代、井上荒野、江國香織(直木賞作家たち)
12月8日(日)阿部智里(松本清張賞作家)司会・紺野仲右ヱ門
1月26日(日)川本三郎(文芸評論家。読売文学賞&毎日出版文化賞)
2月23日(日)酒井順子(講談社エッセイ賞作家)
3月22日(日)有栖川有栖(本格ミステリ大賞作家)司会・三沢陽一

※午後2時より。場所は山形市遊学館(10月、11月、12月は文翔館)
※高校生以下無料。学生1000円。一般2000円。
※ホームページは三つ。順に講座紹介、前半の講義録、後半のトークショー。
http://bungei.pixiv.net/yamagatakouza
https://pixiv-bungei.net/archives/category/serial/ymgt-kouzadayori
https://pixiv-bungei.net/archives/category/serial/ymgt-sugao

■2019年度「せんだい文学塾」概要(敬称略)
※タイトルは後半のトークショーのテーマです。
http://sites.google.com/site/sendaibungakujuku/

4月20日(土)青崎有吾(鮎川哲也賞作家)「書き手と読み手の二重人格」
5月25日(土)あさのあつこ(野間児童文芸賞&島清恋愛文学賞作家)
「表現 プロとアマは違うのか」
6月29日(土)熊谷達也(直木賞作家)「視点の決め方と使い方」
7月(※休み)
8月24日(土)三浦しをん(直木賞作家)「描写と説明」
9月21日(土)平松洋子(ドゥマゴ文学賞&講談社エッセイ賞作家)「食をめぐる文章について」
10月26日(土)朱川湊人(直木賞作家)「演劇の書き方から学ぶ」司会・黒木あるじ
11月23日(土)角田光代、井上荒野、江國香織(直木賞作家たち)
「3人の読み方はこんなに違う パート4」
12月(※休み)
1月25日(土)中条省平(文芸評論家)「小説を読むというテクニック」
2月22日(土)佐伯一麦(野間賞作家)「小説を書き続けるために」
3月21日(土)有栖川有栖(本格ミステリ大賞作家)司会・三沢陽一
「小説を書く、ミステリを書く」

※午後4時半より(11月は午後2時より。1・2・3月は午後4時より)。
※高校生以下無料。学生1000円、一般2000円。
※場所は仙台文学館(8月は仙台市市民活動サポートセンター、11月は宮城学院女子大学)

『朝が来るまでそばにいる』と授業第二週

 学生さんから定期的に聞かれることは、「暗い話を書きたいのですが、大丈夫なのでしょうか」という内容である。この質問はいくつかのポイントを内包していて、一つ目は別に何を書こうと問題はないという表面的な点である。もちろん商業出版であれば、手に取るお客さんのことを考える必要がある。どこを主戦場として発表していくかで変化していくので、一概には言えない。しかし商業流通でないならば、何をどうしようと別に問題ないではないか。

 二つ目のポイントとしては、そもそも自身の行動に他者の許可を得る必要はないという点である。推測でしかないが、既存の教育環境において規律正しくすることが指標とされてきたのではないだろうか。そのため規律を確認し、認識する必要が常に存在したのかもしれない。もちろん自分自身の能力に自信が持てず、常に他者の承認を必要としているのかもしれない。どちらにせよ、何をどうするかは皆さん自身の判断だし、何かに取り組んだ場合、その責任も自分自身で負っていくことになる。

 三つ目としてはそもそも教条的な内容への高い評価が背景に存在している可能性はある。話が暗かろうが何だろうが、物語は物語としての評価になっていくはずだ。とはいえ私もそうであったのだが、教師などから高い評価を得ていくためには、心地良い作文をパターン化して書くことを身体化する必要が存在する。要はお行儀のよい文章を書けば、良い点がもらえるということ。ただそれだけのことと簡単に考えることはできるのだが、その身体化された状態から変容するのは、なかなか大変であることも理解している。

 これらの点はもちろん個々人により違うだろうし、地域性や教育環境にも大きく依拠していくことでもある。要は何でもいいんだ。滔々と書いてきたが、そもそも「暗い」とは何だろうかという根本を考えたほうが良いのではないか。そう思って、「作品読解」の二回目では彩瀬まるさんの『朝が来るまでそばにいる』から「かいぶつの名前」を取り上げた。

 誰もが心の中に何かしらの苦悩を抱えていると思う。その苦しさをただそのまま登場人物のセリフとして垂れ流したとしても、見知らぬ読み手には届きにくい。その苦しさは自身のものであることは間違いないのだが、それをどう見せるのかを考える必要がある。何よりその苦悩を精緻に把握できているかどうかは、客観的な認識能力が必要になってくるため一段階難しい作業になっていく。

 その意味で彩瀬まるさんの『朝が来るまでそばにいる』は苦しみをただ苦しいと描かずに、死とからめながら再生への道筋に目を向けている。死を一面的には描かないがゆえに、死生の境界すら曖昧になってしまうかのような危うさと未経験の心地よさを読者に運んでくれる。その中で「かいぶつの名前」を取り上げたのは、「かいぶつ」を具体的にはどのように認識することができるのか。その認識の度合いを新入生の皆さんに理解して欲しいと思ったからである。

 とはいえそんな私自身の気持ちとは関係なく、授業第二週にして上手くペースがつかめず睡眠時間を削って仕事をしてしまった。なかなか教員生活も大変なもので、何年経っても生活リズムと順応させることの難しさを感じている。実績のあるプロ野球選手でも開幕からローテーションを守れずに負け続けるケースをたまに見るが、「これまでやってきたからできるだろ」などと軽々しく思ってはいけないと痛感した。たかだか寝不足でありながらも、心の中にいろいろと黒々としたものが沸き上がりそうになり、「これが『なまえのないかいぶつ』なのか」みたいな雰囲気でもあったが、幸いにもそのまま連休に突入したのである。

『早朝始発の殺風景』と授業第一週

 今年度、うちの大学は4月初頭をガイダンスおよび初年次教育の演習に時間を割いている。そのため授業は4月の第3週目からスタートすることになる。第3週なのに第1週なのだ。で、これは毎年のことながら玉井担当の授業はすべて初回から普通に授業をしている。講義なら喋るし、ゼミであれば具体的に作品を講読している。もちろん授業のスケジュールや目的などシラバスに書いてあることを説明してはいるので、いろいろと投げ捨てているわけではない。なぜこのようなことをしているのかというと、大学生のころの自分は一つでも授業を楽しみたかったので初回の授業がガイダンスという名でお茶を濁されてしまうと、それなりにがっかりしていたからである。

 そして、これが面倒さに拍車をかけてしまうのだが、昨年度と基本的には同じ内容を行わないという自分ルールを設定してしまっている。これは教員として授業を行う側になったとき、毎年同じ内容を話していると飽きてしまうのと、成長する機会を自ら放棄している気分になってしまうからである。そんなわけで4月に入っても雪が降るという驚異の風土を提示してくれた山形という土地で、寒さでふるえて軽く風邪をひいている自分は、過去の自分に対して愚痴を吐きながら授業準備をいそしんでいたのだ。

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 それでも授業が始まるとともに、緩やかに暖かくなり、桜も咲き誇り、新年度の空気を感じとれるようになってきた。そんな新年度の初回の授業(玉井が担当する全授業の最初)は「作品読解」という新入生向けの授業である。そこでは青崎有吾さんの「三月四日、午後二時半の密室」(『早朝始発の殺風景』所収)を取り上げた。

 新入生は、ほんの数週間前までは高校生であり、新しい環境に身を置いていることで、無意識的にも気を張っている状態にあると思う。それがいいか悪いかではなく、世の中そのようなものである。玉井だってそうだった。新しい場所で学び、新しい人と机を並べ、人によっては新しく一人暮らしも始まる。その中で悩んでいくことも多いだろう。特に高校までのような教室内の関係性では成立しない大学のシステムに戸惑うかもしれない。大学は何をやってもいいんだよ、と言うことは簡単だけど、それは拠り所を失った気分になったときの不安や空虚感を自力で回復していかなければならないことも意味する。どうすればいいのかわからなくて、ぐるぐると悩んでしまうかもしれない。

 そのような学生が青崎さんの「三月四日、午後二時半の密室」を読んで、教室外で他者と出会うこと、そして既存の教室内の関係性に依拠しながら発揮されるキャラクター性を脱ぎ捨てることの意義を考えて欲しい。そんなお節介な気分も込めて、この作品をセレクトして初回に持ってきた。もちろんこのようなことを受講生は考えてもいいし、まったく考えなくてもいい。おっさんは本当に面倒なことを言う存在である。ただし、そのような玉井の考えは別にして青崎さんの『早朝始発の殺風景』は名作であることは確かだ。