『妖草師」「監獄舎の殺人」『落ちぬ椿』と六月中旬以降(授業第八週~第十週)

 六月になると、ぽつぽつと新入生が休みはじめる。これまで五月病とよく言われていたが、意外にも五月ぐらいではまだ新鮮な気持ちは失われておらず、連休により一度リフレッシュして少し生き生きとしているぐらいである。この五月、六月の流れは教員も例外ではなく、というより社会性ある人間として生きている以上は、何かの取り決めにより成立した暦に依拠して社会生活を送っているため、そこからの完全なる逸脱は不可能だといえる。そのため五月までは通常通り進めていた授業ではあるが、六月になると教員は普通の顔して授業をし(その心中はさておき)、学生たちは毎週必ず誰かが休んでいくという構図が見えてくることになる。

 もちろん、休んだ学生全員がサボりだと言いたいわけではない。季節の変わり目をむかえた山形は寒暖差がとにかく激しく、体調を崩しやすくなる。そう書いている私自身もあっさりと風邪をひくので、梅雨寒の時期は非常に厳しい。本当に厳しい。冬も厳しい。真夏だけは暑くなるのは昼下がりの一瞬なので、夕方以降は涼しくなり、天然のクーラーだなと思う。私の感慨は置いておこう。このような状況なので学生の皆さんが体調を崩したにも関わらず無理して来ようとしたら、いつも「いのちをだいじに」の気分で接している……つもりである。しかし、そこにカテゴライズされないであろうと推測される休みが目に付いてくるのが、この六月である。

 数年前に東京理科大の調査が発表されたときに、首肯しながら読んでしまったのだが、その内容は「1年生の最後の成績が、概ね四年間の成績を表してしまうこと。その成績に大きく影響を与えるのが1年生の六月の出席」ということである。

大学成績1年で決まる? 卒業時と一致 東京理科大調査

 感覚的に把握していたことが、きちんとした数値で提示されて気持ちよかったことを覚えているが、とにもかくにもミクロな個別事例での差異はあれども、大まかな傾向としては、この六月が重要ということになる。とはいえ、別に「全員来い。絶対来い。今すぐ来い」と言いたいわけではなく、大学は高校までと違い、来るか来ないか、何を学ぶか学ばないか、そのすべての責任は自分自身にかかってくるので、教員はその手助けをするだけというスタンスである。

 その六月の作品読解では、時代小説を二本取り上げた。一つは武内涼さんの「若冲という男」(『妖草師 人斬り草』徳間文庫、2015年)で、もう一つは伊吹亜門さんの「監獄舎の殺人」(『刀と傘 明治京洛推理帖』東京創元社、2018年)である。さらにゼミでは知野みさきさんの『落ちぬ椿 上絵師 律の似面絵帖』(光文社時代小説文庫、2016年)を取り上げた。それなりに歴史が好きな身としては、定期的に時代小説を取り上げようと毎年苦慮している。学生の評判は「難しい」、「漢字が多い」という直接的な拒否反応もあれば、「予想と違い面白い」という前向きなものもある。まあ、その意味ではいつも通りであろう。今回の狙いは武内作品で時代小説というジャンルにしばられない幅の広さを、伊吹作品ではミステリーとしてのレベルの高さを、そして知野作品では女性の生きる力強さを考えて欲しいと思い、取り上げている。皆さん、どうであったであろうか。そう思いながら、このブログの更新が滞っていたのは、やはり六月だからである。

『ひとりぼっちで恋をしてみた』と授業第七週

 先日、積読状態であったあぬさんの『なんで生きてるかわからない人 和泉澄 25歳』(徳間書店、2018年)を読んでいたのだが、ああ、なるほどと頷いていた。別に主人公の生き方に共感したわけではない。そもそも読書の手法が主人公に感情移入したり、共感したりするだけというのは極めて視野が狭くないか。もちろん、それはそれで構わないし、否定しているわけではない。読み方は多様であるというだけだ。では何に対して首肯しているかというと、以前より創作を志望する学生さんが頻繁に作り出してしまうキャラクターとして「主体性に欠けて、協調性がないが、いざとなったら何とかするやつ」があり、この『なんで生きてるか~』は、その皆さんが作り出していきたい(と思われる)キャラクターが主人公なのだ。

 やる気のない人が主人公として小説内の物語世界で活動するのは非常に難しい。要は主人公に物語内での動機がない時点で、行動に移ることはない。つまり何もしない人は、物語が展開することはないし、何かが起きても対応しようともしない。それなのに急に困難を乗り越えられても、物語としての説得力に欠けてしまう。読者としてはつまらないわけで、満足しているのは作者だけになってしまう。

 がしかし。『なんで生きてるか~』では、主人公にやる気はない。おいおい、セニョール。これはどういうことだ、と思うかもしれないが、この作品の場合、主人公の動機が極めて明確になっている。つまり動機は常にプラスに作用する必要はなく、マイナス面に振り切っても良い。その意味で、この作品の主人公にまとわりつく社会規範や倫理観が主人公の動機に立ちはだかる壁として存在しており、必ずしも行動に移すことが物語的な意味でプラスに作用するとは限らない。ただマイナスの感情を描くことで物語の起伏を生み出すのは非常に難しく、おいそれとできることではないのは確かだ。

 同じような問題意識を持ちながら第七週のゼミで取り上げた作品に、田川とまたさんの『ひとりぼっちで恋をしてみた』(講談社、2019)がある。この作品の主人公は奥手で人見知りという主人公として物語を駆動させていくには、かなり難しいキャラクターである。それは作者自身も悩んだようで、1巻のあとがきに「2話以降の展開に悩んだ」と書いている。1話では、その主人公が少しだけ勇気を出して一歩踏み出した内容であり、読み切りであれば確かに完成度の高い作品である(ちなみに作画も素晴らしく、カメラを固定した映像的な見せ方も面白い)。しかし、それは主人公にとっての大きな一歩であり、周囲の人間、そして読者からするとほんのわずかな一歩でしかない。そこには主人公的な行動として恒常的に描いていくことの難しさが存在する。

 そこでこの作品は2話以降、より大きな物語の波に主人公は飲み込まれていく。彼女自身の行動力の延長線上でありながら、さらに大きく開かれた物語展開は初発の段階で読者が抱くであろう道筋を大きく裏切っており、快感ともいうべき作品に仕上がっている。つまり主人公が奥手であることを受け入れて、その行動規範のみで展開していくと一つの限界を迎えてしまう可能性は大きい。それはそれで一つの物語としては機能するかもしれないが、狭い空間の中で描きながらもその狭さを壊していくことが求められる(頭の中に「わたモテ」を思い浮かべながら)。その点では、今後、どのように描いていくのかを楽しみに読もうと思っている。

小説の文章を書くうえでの「指針」

先日、旧知の編集者から、以下のメールをいただいた。

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大変お世話になっています。××××の××です。

門井慶喜さんの山形小説講座のご講評が素晴らしすぎて、
この連休中、7度拝読してしましました。
自分の指針にしたいと思います。
本当にありがとうございます。

すみません、素晴らしすぎて、ご連絡してしまいました。
今後ともよろしくお願い申し上げます。

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門井さんの講座というのは、3月に行われた山形小説家・ライター講座のことである。毎月お迎えする講師にはそれぞれ個性や特徴があるが、門井さんの場合は、徹底的に文章にこだわった講評だった。エンターテインメント作家の講師の場合、文章は書いているうちに巧くなるから文章のことはさておいて・・という講評が多い。文章を褒めるときは具体的に熱く褒めても、問題があるときはさらりと触れる程度で、プロットやキャラクターやテーマなどについて詳しく見ていく。

そういう講師がほとんどなので、門井さんが文章について詳しくやりたいのだが、どうだろう? とおっしゃるので、どうぞどうぞお願いしますとお答えした。文章に関して徹底的に論じる講座があってもいいと思ったからである。

ということで、講座2時間のうち3分の2(1時間半程度)が、受講生提出のテキスト(短篇)の文章についての徹底した講評になった。これがもう読ませる。

一言でいうなら、トートロジーを避けようということである。トートロジーとは、同義語・類語・同語を反復させる修辞技法のこと。頭痛が痛いとか馬から落馬するとかが有名だが、そんな“初級篇”ではなく、中級篇や上級篇のことである。小説の中の説明や描写に則して見ていくと、意外と気づかない同義語反復、類語反復、同語反復等がある。その細かな検証を、門井さんが行ってくれている。
https://pixiv-bungei.net/archives/3883

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では(佐藤陽子さんの)『雲の縫い方』1頁目から。
文章で絶対やってはいけないことは、トートロジー、同義反復です。馬から落馬した、というような初級篇で引っかかるような方はこの講座にはいないと思いますが、では中級篇、上級篇ではどうかというと、残念ながらこの三作品にもあてはまるところがあります。『雲の縫い方』に関しては、1行目から3行目を見てください。「雨が降った、次の日だったと思う。町を囲む山の峰から、湧き出るように雲が立った。ましろの、綿のような」という、この3行にふたつトートロジーがあります。作家というのはトートロジーには敏感なものですが、中級篇でいうと、「ましろの、綿のような」というところです。これはどちらか片方でいい。雲の話ですから、「綿のような」と言うだけで、黄色や黒の雲を想像する読者はいませんから。したがって、僕なら「ましろの」を切ります。おそらく、佐藤さんは薄々これに気がついておられたのではないかと。まだ書き始めで、読者とのコミュニケーションがまだできていないから、ついつい二重に書いてしまったということでしょう。だから「ましろの」と古語にされているのだと思いますが、これは二重にいけません。歴史小説でもないのに、ここで古語を出す必然性はないですし、かといって「真っ白」でも「純白」でも、どっちにしてもいりません。

これが中級篇です。では上級篇ではどうかというと、これはたいへん気づくのが難しい。「町を囲む山の峰から、湧き出るように雲が立った」というところです。「町を囲む山の峰から」という文章は、風景の広がりと限定を同時に出している、さりげないけどいい表現です。ところが、言葉を出す順番を見てみましょう。まず「町」を出して、次に「山」を出したら、読者の視点は下から上に行くでしょう。ということは、続く「湧き出るように」は、いりませんよね。わかりますか? 「町を囲む山の峰」に雲があった、という時点で、読者は勝手に視点を上げてくれますよね。ですから、ここは勇気を持って「湧き出るように」は削除しましょう。削除することだけが解決方法ではありませんが、言葉を出す順番によって読者がどう視点を動かすか、というところまで考えていかないと、風景描写におけるトートロジーはなかなか削りづらいです。

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どうだろう。プロの編集者が何度も読み返すのがわかるのではないか。こういう鮮やか講評がえんえんと続く。文章にうるさい人でも、門井さんの講評には感嘆するかもしれない。

ただ、こういう門井さんの講評のように文章をいちいち考えていくと、全然前に進めない人がいるかもしれない。かつて僕もそうだったのだが、文章にこだわりすぎて、ぜんぜん先へと進めなかった。理想とする文章があり、それに近づこう、自分の文体を確立しようとそればかり考えていて、語るべきストーリーやテーマを見失う。

一方で、文章の善し悪しなどまったく考えないで簡単に書き続ける人たちがいる。文章よりも語りたいストーリーがあり、キャラクターがあるからで、文章にこだわりがない。そのために文章が無味乾燥になるきらいがある。

前者が純文学、後者がエンターテインメント志向という分類は乱暴かもしれないが、どちらも問題があるだろう。いや、問題があるというのは言い過ぎか。どちらも大事ではあるのだ。文章にこだわり、この表現はいいのか悪いのか、それこそ同義反復になっていないのかどうかと考えることは必要であるし、細かいところは後回しにして語りたい欲望に忠実になって勢いを持続させて文章を繰り出していくことも大切である。文章に注意を払いながらも、書きたいことを書き続ける勢いを失わないことである。

編集者のメールにあるように、門井さんの講評は今後の“指針”になるだろう。小説を書く人たちには重要な参考資料になるにちがいない。ただ、細かいことを考えていると文章を書けなくなる恐れがあるので、とりあえずまずは書き続けることを優先して、推敲のときに門井さんの講評を読み返すくらいがいいかもしれない。

どんでん返し

 「ランティエ」7月号の特集は「今野敏の世界」で、ベストセラー作家今野敏と新鋭作家の今村翔吾が対談をしている。

 今野敏は昨年作家生活40周年を迎えたベテランのミステリ作家で、今年5月まで日本推理作家協会理事長をつとめていた。今村翔吾は「羽州ぼろ鳶組」「くらまし屋稼業」シリーズでベストセラーを記録し、今年一月『童の神』(角川春樹小説賞)で直木賞候補になり、惜しくも賞を逃したが、真藤順丈の受賞作『宝島』に次ぐ高い評価を得た。文壇でもっとも注目されている若手作家だろう(※今村さんを7月28日の東北芸術工科大学のオープンキャンパスにお招きします。午後12時からトークショーあり。詳細は後日。午後2時からは今村さんは山形小説家・ライター講座の講師をつとめます)。

 二人の対談はとても面白いのだが、いちばん驚いたのは、このくだりだろう。

今野 俺は決めてないよ、結末。
今村 犯人も決めてないんですか?
今野 決めてない。いや、大まかにこいつにしようかなというのはあるけれど、布石を打っているうちに、どう考えてもこっちを犯人にしたほうが面白いってなると、振り返って齟齬(そご)がないかどうか調べて、拾える布石があれば拾って、そうすると、あたかも最初から考えていたかのように、物語ができる。すごいどんでん返しですねなんて言われるけど、当たり前だ、俺だって知らなかったんだから(笑)。
今村 道理で面白いわけだ(笑)。

「すごいどんでん返しですねなんて言われるけど、当たり前だ、俺だって知らなかったんだから(笑)」がおかしい。というか、結末も決めないで、35シリーズ(!)何百冊も書けるのだからたいしたものである。

 今野敏の発言を聞いて驚いた人もいるかと思うが、ストーリーを何一つ決めずに書いていく作家は少なからずいる。昭和の流行作家(という言い方があった)は月産500枚とか600枚とか、なかには1000枚、2000枚という作家もいたので(一時期月産2000枚だったのが勝目梓で、素晴らしく見事な純文学的自伝『小説家』によれば、多忙で鬱病にもなった)、いちいちプロットを決めて書くなど時間的に無理だろう。ぶっつけ本番で小説を書きはじめ、想のおもむくまま物語を展開させて巧みに着地した。プロ作家となればそんなことはなんでもなくなる。

 ストーリーを決めないで書く作家としては池波正太郎や北方謙三が有名だろう。5月の「せんだい文学塾」と「山形小説家・ライター講座」の講師を務めてくれた『バッテリー』で有名なあさのあつこさんも、実はストーリーを決めないで書く作家の一人だ。いかにストーリーを決めないで小説を書くのかを詳しく語ってくれたが(詳細は6月下旬公開の山形小説家講座のホームページをご覧ください)、これは何年も訓練を重ねたゆえに会得したもので、安易にとびつかないほうがいい。

 といっても、学生や小説家講座の受講生を見ていると、プロットを決めて書くのが苦手な人がいる。人それぞれの書き方があるので、プロットを決めて書くことがベストとはいわないが(そのかわりキャラクターや設定やテーマなど様々なことは押さえておくべきだが)、少しでも決めて書いたほうがあとあと楽である。全部を決める必要はないし、前半だけでもいいから決めたほうが終盤であまり迷うことはない。プロット作りが苦手な人でも、書き方やアプローチを教えれば、問題をクリアできる。理論が頭にあれば、困ったときにどうすれば対処すべきかが見えてくる。そのために大学では理論を教えている。

 先日から、大学のゼミでは、ジェフリー・ディーヴァーの短篇をテキストにしている。現在、世界でナンバーワンのどんでん返し作家といったら、誰もがディーヴァーをあげるだろう(あと数十年たってもディーヴァーはナンバーワンだろう)。四肢麻痺の科学捜査官リンカーン・ライム・シリーズ(『ボーン・コレクター』『ウォッチメイカー』)や、いかなる嘘も見抜く尋問の名手(別名“人間嘘発見器”)キャサリン・ダンス・シリーズ(『スリーピング・ドール』『ロードサイド・クロス』)が有名だが、長篇のみならず短篇の名手でもあり、短い枚数の物語のなかに仕掛けが詰まっていて、どんでん返しの切れ味たるや抜群である。

 学生たちに、これはどんでん返しの名手の短篇であり、最後に大きなどんでん返しがあるから、それを頭に入れてだまされないように推理して読みなさい、と事前にいっておくのだが、誰もがころりとだまされる(プロの評論家ですらだまされるのだから当然だが)。え? そういうオチなの!? と驚いている。一読したあと、伏線そのほかの確認のためにもう一度読み返して、一つ一つの細部にうなり、これはすごい! と感嘆している。エンターテインメント、とりわけミステリ系の作品を書きたいと思っているなら、ツイストやどんでん返しは必須で、どのように仕掛けるのか、その方法とは何かを、細部を通して実感しないといけない。

 もちろん今野敏クラスになれば、どんでん返しも書いているうちに思いつくかもしれないが、それもまた長年の経験(とくに読書量)があるからこそ。学生や小説家志望者はたくさんのサンプルを読んで、その方法を学んだほうがいい。どんでん返しにもパターンがある。どんでん返しの作家はディーヴァーばかりではなく、ほかにも多くの作家がいて、読者を愉しませる(騙す)技を磨いているのだ。その技に触れるのがいちばんだろう。

『ソワレ学級』、『私は存在が空気』と授業第六週

 あいみょんの曲に「君はロックを聴かない」がある。一時期、よく聞いていて、「ロック」を「聴かない」という否定形なのが非常に心地よかった。別にロックに対し愛情も信仰もないのだが、それでも一つのジャンルを築き上げている概念に対して見事なタイトルだと思う。しかも、本人がインタビューなどで「青春の曲」と言うように、ロックを否定している曲ではない。むしろ、この歌詞の主人公はロックを聴いている。聴かないのは君なんだ。

 胸の高鳴りを抑えきれず、何もできないけど自らのことを知って欲しい自分、ロックを聴いて欲しい自分。それぞれのロックンロールに自らを重ね合わせてきた、そういうアイデンティティを積極的に伝えることができない。それを「こんな歌」や「あんな歌」に乗せていこうとする姿勢。そのすべてが、ここぞというときにはいじらしいほど受け身であり、積極的に最後まで貫くことのできない勇気のなさを感じ取ってしまう。いや、いい。青春というのはそういうものだ。青春という枠組みの中にありながらも、学校や教室、部活、登下校という既存の中に属していかないものだってあると思う。深夜ラジオで聞いた曲を、そのあと何年経っても聞き続けたりするなんて思うわけないだろう? そのようなときに曲の力、歌詞の力は強大だなと思う。

 「普通」という枠組みは非常に強固で、そこから外れてしまうと生きていくのが大変だと錯覚してしまう。そう思ってしまうは仕方のないことだし、別に非難されることではない。でも、そんな一面的な物事だけで世の中は成り立っていない。第六週のゼミで読んだ靴下ぬぎ子さんの『ソワレ学級』(徳間書店、全2巻)は、進学校でドロップアウトしてしまった主人公が定時制高校に入り直す物語である。自由に登校し、自由に行動をする。年齢もばらばらであれば、授業にきちんと出るかどうかも定まっていない(そりゃ、出るのが前提だが)。その姿勢に慣れていく過程のなか、主人公が電車内で中学校の同級生に会ったときに、双方が感じ取る気まずさが描かれる。ほんのわずかなシーンだし、それが主題であることもない。作品としては、その後、同級生の女子学生2名の関係性が中心に描かれていく。そう教室内の関係性なんか、この物語では無意味なんだ。本当に学校という枠組みの絶対性を、この作品は崩してくれている。

 第六週の作品読解で取り上げたのは中田永一さんの「ファイアスターター湯川さん」(『私は存在が空気』祥伝社文庫、2018、所収)である。毎年、この授業の内容を一新するようにしているのだが、作品をかえても作家はそのままにすることもある。昨年は同じ短編集に収録されている「少年ジャンパー」を授業で取り上げた。この作品は教室内の関係性に疲弊した主人公が、超能力を手に入れることにより、大きな変化を起こしていく物語である。教室内の関係性から逸脱してしまった主人公は、その外で別の関係性に意味や意義を見出していく。どこかに属し、固定観念を抱き続けることは、決して間違っているわけではないが、そこから離れた存在・概念だって、世の中には存在している。「ファイアスターター湯川さん」の主人公も、必ずしも自らが社会的に属する大学生という価値観には縛られてはいない。

 そのうち皆さんもあいみょんの曲を聞きながら、見えなかった部分や感じ取れなかった概念を理解できるときがくるかもしれない。願わくば大学生活の4年間で、そうなって欲しいけれども、そう上手くいかないことも知っている。自分がそうではなかったから。

『かわるがわる変わる』と授業第五週目

 第五週目はオープンキャンパスですべてが語りつくされる……ような気がするが、そのようなことはなく通常の授業も行っている。そのため疲労感は倍増する。普段は接することのない高校生の皆さんとオープンキャンパスという場で語ることは、新しい経験でもあるし、自分の半分ぐらいの年齢の人々が今は何を読み、何を見ているのかは興味深いところでもある。何より大勢の高校生の皆さんが文芸学科に足を運んでいただき、大変うれしい。そしてオープンキャンパスで意図せずしてよく聞かれるのは、「授業で漫画を取り上げているが、どのようなものか」というものと、さらにはその質問に地続きな感じで「最近のおすすめの漫画(もしくはアニメ)は何ですか」となる。

 おすすめ問題はきわめて根深く、高校生が特別、数多く質問するわけではなく誰でも聞くことであるし、僕だって聞く。他者が何を考えているのかの入口として、作品やクリエーターの具体名を聞き出していく作業は別に非難されうるものではない。しかし、ひねくれてしまっている自分は「それを聞いてどうする。右から左に作品をすべて読んでいけばいいではないか」などと思ってしまうのである。これは主に「最近読んで面白かったのありますか?」とか質問してしまった自分自身に対しての疑問である。他者との会話の中で、自分に聞かれると何も考えずに答えていくので面倒くさい(なので嫌なわけではないので、今後も気にせず聞いて!)。

 とはいえ、このおすすめ本に関して本質的にはどうでもいい。一番面倒なのは、玉井の存在でもなく(いや、面倒なんだけど)、授業の話と連続性をもって質問が登場するときである。「教員はおすすめ本を授業で使っているに違いない」という考えのことだ。この点がいかに違うのか、ということを以前のブログに書いたような気がするが、大事なことなので二回も三回も書こう。書いておこう。書くのだ。

 大学の授業しかしたことがないので、それ以外はわからないのだが、基本的に学科内でも大きなカリキュラム構想の中で個々の授業内容が構築されている。より巨視的な見方をすると大学のディプロマポリシーの中で授業は作られていくのだが、それを個々の学科に落とし込み、さらに詳細を作りこんでいくのである。そして個々の授業に課せられた目標に合わせるかたちで、15回のうちの1回分の授業内容を考え、作っていく。その過程の中で、それぞれの意図(例えばキャラクター造形や物語構造、文体や書き出しなどなど)に合致する作品を取り上げているだけである。したがって、そこに教員の好みが反映されることは、皆さんが思っている以上にない。もちろん、ある程度は好きな作品・作家を取り上げるのだが、現実はそれだけではうまくいかないので、好きかどうかという基準で判断していない作品について考え、語ることになる。

 私としてはこれまで触れてこなかった作家・作品について考えるのは、非常に面白く、授業を行っている自分自身の可能性を広げ続けることにつながっているのではないか、と思っている。だいたい一番好きな作品は、もう何度も読んだし、いろいろと考えているではないか。そこから広げるためには未知のものに手を伸ばすしかない。でも、ああ、ここで問題が起きてしまう。こう書いてしまうと、以降、授業で取り上げた作品に対して、この教員は好意的ではないかもしれないという疑惑を与えてしまうような気がしてならない。それは「好きな作品を取り上げている」という間違った解釈の対称でしかない。「授業では好きな作品を取り上げている」と「授業では嫌いな作品を取り上げている」は同位相的に間違っていることになる。

 さて通常の授業でも漫画作品を取り上げることはあるのだが、毎週取り扱っているのはゼミである。第五週のゼミでは藤緒あいさんの「ビーフカツレツ」(『かわるがわる変わる』祥伝社、2017年、所収)を取り上げた。この作品が優れているのは、男性が女性に対してプロポーズをするという極めて単純なストーリーを重層的に描くことで、エンターテイメントとしての濃度を上げている点だと思う。レストランでプロポーズする男性と女性という存在があり、それを主軸に物語の展開自体は行われるのだが、その外枠として観察者である女性と男性(両方ともレストランのバイト)が存在する。この観察者が作品の主人公であり、そのことはコマ割りやビジュアルで明確に把握できるように設計されている。シンプルなストーリーラインを重層的に形作ることで、そして漫画的な設計を施すことで(だってプロポーズのシーンよりウェイターのほうがカメラが寄ってるんだよ)、読者が受け取る物語的な情報量が増幅していく。みたいなことを、もっと理論的に語ったりしている。

 まじめに考えてはいるのだが、別に学会発表ではないので、かなりフランクにゼミ自体は進めている。それがいいのか悪いのかはわからないが、提示された作品に対する考え方の一つを提示しているだけであって、別にそれが絶対ではないし、学生側から別の読み方が提示されることもある。あとは参加する学生さん自身が、家に持って帰り、沈思黙考しているとき、そして自らの制作をする際に、どういかされていくのか、でしかない。

池上冬樹の50冊(解説を担当した文庫本から)

 5月25日、東北芸術工科大学でオープンキャンパスが開催された。
 文芸学科の会場では、各教員の「教員の本棚」が設けられたが(「オープンキャンパスと忘れがたき本たち」参照)、そのほかに各教員が選んだ「お薦め50冊」の棚も作られた。「教員の本棚」は品切れ・絶版本でもOKだったが、こちらは新刊本が条件だった。
 何を選ぼうか迷ったけれど、読んでほしい文庫本がたくさんあるので、宣伝をかねて、自分が解説を担当した文庫本を50冊選んでみた。会場の都合で、ほかの先生方の本と紛れてしまったので、ここで僕がリストアップした50冊をあげてみることにする。

■池上冬樹の50冊(解説を担当した文庫から50冊)

▼文学賞およびミステリ・ベストテン第1位に輝いた名作(15冊)
・阿部和重『シンセミア』(講談社文庫)※伊藤整文学賞&毎日出版文化賞
・荻原浩『オロロ畑でつかまえて』(集英社文庫)※小説すばる新人賞
・恩田陸『夜のピクニック』(新潮文庫)※本屋大賞
・小池真理子『欲望』(新潮文庫)※島清恋愛文学賞
・佐藤賢一『王妃の離婚』(集英社文庫)※直木賞
・中島京子『かたづの!』(集英社文庫)※柴田錬三郎賞ほか2賞
・宮部みゆき『理由』(新潮文庫)※直木賞
・横山秀夫『第三の時効』(集英社文庫)※「この警察小説がすごい」オールタイム1位
・連城三紀彦『隠れ菊』(集英社文庫)※柴田錬三郎賞
・渡辺優『ラメルノエリキサ』(集英社文庫)※小説すばる新人賞
・ベン・H・ウィンタース『地上最後の刑事』(ハヤカワ文庫)
 ※アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀ペイパーバック賞
・ボストン・テラン『神は銃弾』(文春文庫)※「このミステリーがすごい」第1位
・ジョン・ハート『ラスト・チャイルド』(ハヤカワ文庫)
 ※アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀長篇賞&英国推理作家協会賞最優秀賞スリラー賞
・トム・フランクリン『ねじれた文字、ねじれた路』(ハヤカワ文庫)
   ※英国推理作家協会賞ゴールド・ダガー賞&LAタイムズ文学賞
・ローリー・リン・ドラモンド『あなたに不利な証拠として』(ハヤカワ文庫)
  ※「このミステリーがすごい」&「週刊文春ミステリーベスト10」第1位

▼現代の古典および古典的名作(8冊)
・福永武彦『幼年 その他』(講談社文芸文庫)
・開高健『青い月曜日』(集英社文庫)
・『冒険の森へ・傑作小説大全 第3巻/背徳の仔ら』(集英社)
 ※大藪春彦『野獣死すべし(付・復讐篇)』黒岩重吾『裸の背徳者』所収
・ウイリアム・アイリッシュ『幻の女』(ハヤカワ文庫)
・グレアム・グリーン『ヒューマン・ファクター』(ハヤカワ文庫)
・トレヴェニアン『シブミ』(ハヤカワ文庫)
・ジョン・ル・カレ『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』(ハヤカワ文庫)
・スティーグ・ラーセン『ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士』(ハヤカワ文庫)

▼ベテラン作家の傑作(10冊)
・伊集院静『新装版 三年坂』(講談社文庫)
・北方謙三『抱影』(講談社文庫)
・川上弘美『夜の公園』(中公文庫)
・高樹のぶ子『マルセル』(文春文庫)
・辻原登『寂しい丘で狩りをする』(講談社文庫)
・宮本輝『草原の椅子』(新潮文庫)
・森村誠一『地果て海尽きるまで』(ハルキ文庫)
・リー・チャイルド『アウトロー』(講談社文庫)
・ピエール・ルメートル『傷だらけのカミーユ』(文春文庫)
・デニス・ルヘイン『過ぎ去りし世界』(ハヤカワ文庫)

▼人気作家の出世作(8冊)
・有川浩『植物図鑑』(幻冬舎文庫)
・伊坂幸太郎『ラッシュライフ』(新潮文庫)
・石田衣良『池袋ウエストゲートパーク』(文春文庫)
・熊谷達也『山背郷』(集英社文庫)
・高見広春『バトル・ロワイアル』(幻冬舍文庫)
・法月綸太郎『新装版 頼子のために』(講談社文庫)
・宮部みゆき『本所深川ふしぎ草紙』(新潮文庫)
・ユッシ・エーズラ・オールスン『特捜部Q 檻の中の女』(ハヤカワ文庫)

▼隠れた名作(9冊)
・井上荒野『ママがやった』(文春文庫)
・大沢在昌『ライアー』(新潮文庫)
・奥田英朗『沈黙の町で』(朝日文庫)
・北方謙三『擬態』(文春文庫)
・片岡義男『花模様が怖い 謎と銃弾の短篇』(池上冬樹編、ハヤカワ文庫)
・佐々木譲『夜にその名を呼べば』(ハヤカワ文庫)
・佐藤正午『身の上話』(光文社文庫)
・瀬尾まいこ『優しい音楽』(双葉文庫)
・葉室麟『千鳥舞う』(徳間文庫)
                                       
 以上の本の一冊一冊に思い入れがあり、詳しく紹介したい気持ちが強いので、いずれ紹介できればと思う。数えてみると、文庫解説は400冊を超えるので、50冊は8分の1にすぎない。品切れ・絶版になってしまったものにも歴史的な名作がたくさんあるし、いまや新古書店やアマゾンでも簡単に入手できる時代に入ったので、そちらもとりあげていきたいと思っている。お楽しみに。

オープンキャンパスと忘れがたき本たち

 5月25日、東北芸術工科大学で、オープンキャンパスが開催された。
 文芸学科でも学生たちとともに高校生&保護者のお相手をしたけれど(多数のご来場ありがとうございました!)、なかでも仙台の高校生と、伊坂幸太郎や宮部みゆきの話が出来たのが嬉しかった。まあ、僕が伊坂さんの『ラッシュライフ』、宮部さんの『理由』『本所深川ふしぎ草紙』の解説を担当していることを知らなかったようだけれど(前者は読んでいるみたいでしたが)。

 高校生たちと話をするのも面白かったけれど、合間をぬって、会場に置かれた学生たちが紹介する本を眺めるのも楽しかった。高校生たちに読んでほしい本がたくさん並んでいて、そこには短い書評もついていて、なかなか書ける学生もいて頼もしかった。

 個人的には、片桐はいりの『グアテマラの弟』(幻冬舎文庫) を“発見”した。女優としての活動は知っていたけれど、文筆家としては知らなかった。いや、どうせ女優の片手間仕事(顔で書いた芸能本)でしょうと甘く見ていた。でも、活字を追っていったら、やめられなくなり、しばし読みふけってしまった。いやあ、うまいね! この人。エッセイスト片桐はいりの文章をもっと読まなければと思った。

 そのほかでは、同僚の先生方の「教員の本棚」が興味深かった。文字通り、先生方が過去に影響をうけ、現在も身近におかれている本たちで、1人15冊という決まりで、それぞれの個性がうかがえて、なるほどなるほどと思った。
 ちなみに、僕の「教員の本棚」は以下。コメントと15冊のリストです。

 小学校四年の時に江戸川乱歩の少年探偵団ものに魅せられて小説に夢中になり、六年のころにはエラリー・クイーンやヴァン・ダインなど本格ミステリを読んでいたが、中学では家の本棚にあった世界文学全集をあさり、特にヘミングウェイの『武器よさらば』に感動。でも高校では福永武彦の『忘却の河』と出会い、一転して日本文学に。辻邦生、森内俊雄、吉行淳之介、野坂昭如、三島由紀夫、石川淳と日本文学にどっぷりとはまり、大学では日本文学科を専攻した。しかし別名義で本格ミステリを書いていた福永武彦の弟子筋(?)から結城昌治のハードボイルドを手にして一変。ハードボイルドにはまり、とりわけ結城昌治が影響をうけたロス・マクドナルドにノックアウトされて、日本文学と並行して、本格的に海外ミステリ(エンターテインメント)の渉猟を開始した。
 あれから40年。小説は読めば読むほど面白い。日本および海外の小説のみならず短詩型の文学や評論などにもたくさん影響をうけた。リストアップした15冊の半分は座右の書であり、残り半分は忘れがたい本である。

・福永武彦『忘却の河』(新潮文庫)
・吉行淳之介『暗室』(講談社文芸文庫)
・小川国夫『生のさ中に』(角川文庫)
・立原正秋『暗い春』(角川文庫)
・結城昌治『あるフィルムの背景』(角川文庫)
・開高健『夏の闇』(新潮文庫)
・森内俊雄『短篇歳時記』(講談社)
・笠原和夫・絓 秀美・荒井晴彦『昭和の劇 映画脚本家・笠原和夫』(太田出版)
・道浦母都子『無援の抒情』(岩波現代文庫)※歌集
・岡井隆『「赤光」の生誕』(書肆山田)
・アーネスト・ヘミングウェイ『武器よさらば』(新潮文庫)
・ロス・マクドナルド『ウィチャリー家の女』(ハヤカワ文庫)
・ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』(文春文庫)
・リチャード・スターク『悪党パーカー/怒りの追跡』(ハヤカワ・ミステリ)
・池上冬樹『ヒーローたちの荒野』(本の雑誌社)

                                        
 以上が掲載された文章とリストだが、実は、結城昌治に関しては、最初『暗い落日』(角川文庫)をリストアップしていた。ところがいざ本棚を見たら、ない。自宅のどこかにあるはずだが、あちこちの山を掘り返さないと見つけられない。時間と労力がもったいないので、仙台の萬葉堂(どでかい古本屋。古本マニアの聖地。ジャンル別アイウエオ順に並んでいるので、さしづめ県立図書館みたい)や、山形の香澄堂書店でも探したのだが(そのほうが簡単)、でも見つけられない。

 『暗い落日』に関しては講談社文庫版と、それを基にした中公文庫版もあるが、僕はどちらも認めない。『ヒーローたちの荒野』にも書いたことだが、結城昌治は亡くなる前に、物語の時代背景(戦後の混乱が残っていた昭和30年代の背景)をそのままにして、古い用語と貨幣価値をあらためたから、いびつな世界になってしまった(数千億円の大富豪の娘が2階建てのアパートに住んでいて、親子電話でよびだされ、高級車ブルーバードに乗っている・・なんてどうみてもおかしい)。何よりも鍵となる老人の憤怒と後悔が、1980年代まで普通に使われていた言葉(現在では差別用語)を通して語られるのに、新しい言葉に直したものだから、なんかよそゆきの感情になり、作り物染みてしまった。

 仕方がないので、『あるフィルムの背景』(角川文庫)にしたけれど、警察小説の名作『夜の終る時』でも、スパイ小説の古典『ゴメスの名はゴメス』でも、渋い連作『死者たちの夜』でも、玄人の人気が高い『幻の殺意』でもいい(ただし全部角川文庫版。学生のときに夢中になって何度も読み返したので)。

 実は、コメントにもあるように、三島由紀夫に惚れ込んでいたので、リアルタイムで読んだ『豊饒の海』四部作(『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』)をリストアップしたのだが、大学までもっていくにはあまりに重く(『昭和の劇』も分厚くて重い)、文庫本に変更するには寂しく(豪華絢爛な単行本の装丁がいいからね)、愛着のある立原正秋の『暗い春』にした(いくらでも二番手三番手四番手がいる)。

 ちなみに、『豊饒の海』四部作、それから福永武彦の『死の島』(上下巻、河出書房新社)、辻邦生『背教者ユリアヌス』(中央公論新社)が、高校時代に読んだ忘れがたき新刊本で、三つとも、あまりの面白にさに「結末などないほうがいい!」と思ったほどである。『死の島』も『背教者ユリアヌス』もとても分厚くて、いつまでも読み終わらない幸福(それは残り頁の厚さを手で確認することでもある)をとことん味わうことができた。いまでは二作とも容易に文庫本で入手できるけれど、文庫本では物語の厚みを体感できないので、ぜひ古本の単行本を求めてほしい。『死の島』の単行本には、物語の時間を整理したカレンダーの栞もついていて、過去と現在の往復がより明確に確認することができる。長い独白、小説内小説、三つの結末など小説の方法に挑戦した、戦後最大の実験作の一つでもある。

 そういえば、いま思い出したのだが、『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』『死の島』『背教者ユリアヌス』はみな、大学に上京したときに山形から持っていった本である。北烏山のアパートでも何度も読み返した。

 さて、いまの大学生たちは何を部屋に持ってきたのだろう。そして来春大学に入る高校生たちは、何をもって山形にくるのだろうか。ちょっと聞いてみたいものだ。

『友情だねって感動してよ』、『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』と授業第三週・第四週、そしてオープンキャンパスへ

 なんというブログの記事タイトルであろうか。二週間分を一気に更新しようだなんて。授業期間中に毎週更新ぐらいはしてみよう、と大して深く考えもせずに取り組み始めてしまったが、この体たらくである。第三週どころか第四週まで食い込みながら、二週間分を一気にお届けするのだ。責任者出てこいの気分である。

 日記をまじめに書いている人にはわからない感覚かもしれないが、1週間以上経過してしまうともう何が起こっていたのか、そしてその出来事を覚えていたとしても、自分自身がどう受け止め、何を考えていたのかは遠い記憶の彼方になっている。過ぎ去っていく日々は、どれも均質化されてしまい、単なる過去として脳内処理されがちなのだ。と言い切ってみたが、学問の端っこに身を置いている立場としては、本来はそう考えてはいけないものなのだろう。その誰かにとっては見るべくものない過去かもしれないしが、誰かにとっては重要かもしれない過去を、忘れそうな記憶を、忘れ去れられそうな記録をも、考えていかなければならない。

 さて記憶を掘り起こしながら書いているが、一年生向けの「作品読解」という授業の第三回目では小嶋陽太郎さんの『友情だねって感動してよ』(新潮社、2018年)、第四回では町田そのこさんの『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』(新潮社、2017年)を取り上げた。毎年、この授業は一年生が受講することが多いので(二年生以上で受講している場合は、前の年に単位を落としていることになる)、入学して間もない皆さんが抱えるいろいろな不安や新鮮な感動を描く作品を取り上げようとセレクトしている。特に今年は様々な短編を読んでいくうちに気になる作家や作品が数多く目に留まってしまったので、この路線を第五回の授業まで引き延ばすことにした。

 個人的には物事を考えることへの矛盾や理不尽さは確実に存在していて、そのことを時間をかけて、ある部分では受け入れ、ある部分では反発しながら生きてきたように思う。そのことを今から振り返って考えてみると、学生のときに吸収した作品を自らの血肉として考え、文章でも論文でも何かしらアウトプットしていくことができるようになって、ようやく考えることができるようになったのではないだろうか。ただ、簡単に書いたけれども、インプットとアウトプットは連動しつつも、両方ともに一朝一夕にできるようになったわけではない。その最初の一歩として(人によっては二歩目、三歩目かもしれないが)、この授業を受け入れ、10年後ぐらいに振り返って欲しいなあ、というよくわからない気持ちで授業を行っている。要はおっさんになったということでもある。

 その文脈で小嶋陽太郎さんの『友情だねって感動してよ』も町田そのこさんの『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』も、両作品ともに既存の認識の枠組み内に居続けることの息苦しさを描いた作品として取り上げた。もちろん既存の枠組みに入り込むことが悪いわけではなく、それは社会としてそして人としてある一面では非常に正しいし、何より楽である。とはいえ、人間、譲れないものはどこかにあるもので、その線引きがどこに行われるか、そしてその線引きが枠をはるかに超えてしまう場合だって往々にしてあるのだ。そのときに周囲の目を気にして息苦しくなるよりは、別の場所で生きること、別の考えを身につけることは自分自身の大きな自信になるし、大きな武器になると思う。

 そのことを忘れないで欲しい。そう書きつつ、今週末はオープンキャンパスが開催される。高校生の皆さんが、大学に来て、うちの文芸学科に来て、学びたい、考えたい、叫びたい(別に声に出して叫ぶ必要はないけど)という願望があれば、ぜひ足を運んで欲しい。我々は常に皆さんをお待ちしています。

 オープンキャンパス情報は以下の通りです(大学全体のページはこちら)。教員の面談・作品講評は随時行っています。

  • 5月25日(土)スケジュール
  • 13:00-13:30 学科説明(担当:石川) 文芸棟(図書館2階)204教室
  • 13:40-14:20 物語・ストーリー創作講座「ノベルクサ」(担当:玉井) 文芸棟(図書館2階)205演習室
  • 14:30-15:10 物語・ストーリー創作講座「3キャラでストーリーを作ってみよう」(担当:トミヤマ)文芸棟(図書館2階)205演習室
  • 14:30-15:00 (担当:石川) 文芸棟(図書館2階)204教室

『スキップとローファー』とゴールデンウィーク

 これが年を重ねたということか、と思うことが多くなっているのだが、その一つとして学校を舞台とした作品に対する興味関心が薄れていることが挙げられる。現在地からの時間的距離感が生まれてしまうことによるものだろうとは思う。もちろん嫌いになったわけではないし、学園ものが発売されたところで別にそれを理由に忌避することもないのだが、ただそれだけで魅力的に思えるほどではなくなっている。物語のパターンや空間に既視感が生まれてしまうことは致し方ないとはいえ、そもそも学校という空間に期待なんかしていないからではないかと自問自答をしたりもしている。教育空間に身を置いているというのに。そのため連休になり積読を崩そうとして、ようやく高松美咲さんの『スキップとローファー』(講談社)を手に取ることになった。

 連休とは良いもので、たまっている仕事に取り組むことに注力できるようになるし、自然と睡眠と読書の時間も取れるようになる。10連休だろうと5連休だろうと何でも良いのだが、連休は素晴らしい。連休に長いも短いもない。長くて休めない人は休み方を知らないだけで、ダラダラ過ごしてしまうのではないだろうか。本を読もう。なんでも読もう。そのぐらいのおおらかな気持ちで、連休中に『スキップとローファー』を読み始めた。正直に書こう。読む前は、そして物語の冒頭までは「また、この手の話か」と思っていたが、読後感は最高であった。「SFじゃないのか」と思ってすみません(前作『カナリアたちの舟』は素晴らしきSF作品だった)。

 物語は過疎地域で育った女子学生が、進学した高校で経験したことのない人間関係や社会状況に身を置いていくものである。何が良いのかというと、主人公を筆頭にそれぞれのキャラクターが重層的に描かれている点である。主人公が通っていた中学校では生徒が8名しかおらず、人間関係で悩む・悩まない以前にコミュニケーションが可能であった状況から、大きく環境が転換していく。それに悩むという単純な話ではないのが、非常に良い。一つ一つを新鮮に感じ取り、直球で味わっていく彼女は決して魅力的な人間ではないかもしれないし、クラスメイトであったとしても特に友達にはならないかもしれない。これは経験値の低さが、他者から魅力的に受け取られるかどうか、という問題である。

 ただし彼女は物事に天真爛漫に取り組んでいくわけではない。きちんと悩み、考え、行動している。それは既存の教室内の関係性で構築されうる行動原理にからめとられていないことを意味している。その点において魅力的であるし、極めて危ういともいえる。教室の関係性というのは、高校生までの(もしかしたら一部の大学生の)視野や認識範囲では非常に強固に思えるのかもしれない。しかし、その範囲の狭さを認識するには外部からの指摘が非常に有用だし、さらにはその狭さの中で出来得ることがまだまだ存在することも理解できる。決して、その狭さはくだらないものでも唾棄するだけのものでもない。

 ということを、つらつらと考えているうちに連休はあっという間に過ぎ去ってしまった。具体的には東京の自宅にいたのに溜めてしまっていた作業をこなして、体調を整えているうちに過ぎ去ってしまった。あまり本が読めなかったので、もっと読書スピードを上げていきたいものである。