文芸ラジオ 夢眠ねむさん公開インタビューのお知らせ(中止になりました)

(注意! 10月11日追記更新)台風の接近により芸工祭1日目(13日)は中止となりました。文芸ラジオのイベントも中止となります。楽しみにしていただいた皆さんには大変申し訳ありません。今後、誌面(6号)に何らかの形で掲載できればと考えております。どうぞ、よろしくお願いします。

 

 毎年、芸工祭で行っている文芸ラジオ公開インタビューですが、今年は夢眠ねむさんをお迎えいたします。これまで読まれてきた本や最近、開店した夢眠書店の話などをお聞きする予定です。お時間ある人はぜひご参加ください。なお本インタビューは来年発行予定の『文芸ラジオ』6号(5号はこちら)に収録予定です。

    • 夢眠ねむさん公開インタビュー
      日時:2019年10月13日(日)14時~(開場13時30分)
      場所:東北芸術工科大学本館201(入り口は3階になります)
      料金:入場無料

 

作品読解(全15週)と作品群(玉井担当のみ)

 『作品読解』は入学した一年生が受講する授業である。このブログでもちらちらと書いてきたし、玉井のtwitterアカウントでも毎回つぶやいていたのだが、前期も終わったのでここでまとめておこう。授業として何をしているかというと作品を読み、情報をきちんと把握し、要約を書くことを15回行っている。基本中の基本であるが、これが意外にできない。ちなみに今年は、授業第15週目が8月初旬にまで食い込んでおり、まさかのオープンキャンパス後にも授業を行ったのである(そして8月第2週は集中講義)。

 ちなみに去年までのものは以下にまとめてある。気分で書いているので、全作品を取り上げていないものもある。今、見ると何だか毎年同じようなことをしているので、少し反省してしまう。

1:青崎有吾「三月四日、午後二時半の密室」(『早朝始発の殺風景』集英社、2019年)

 初回授業は高校生が主人公のものにしよう、という謎の考えから、この作品をセレクトした。一応、受講生はつい数週間前まで高校生であったはずだから、読みやすいのではないかと思っているが、どうなのだろうか。本質的には経験からでしか読めないのは、読む手段が少なすぎると思っている。

2:彩瀬まる「かいぶつの名前」(『朝が来るまでそばにいる』新潮社、2016年)

 二回目は学校を舞台にした作品を取り上げた。とはいえ、初回の舞台が学校ではなかったように、この作品も教室という物理的空間に縛られたものではない。それでもとらわれてしまった存在に対し、何を思うのだろうか。と思ったりもしていた。

3:小嶋陽太郎「友情だねって感動してよ」(『友情だねって感動してよ』新潮社、2018年)

 そして三回目では教室内の出来事を描いたものを取り上げた。教室内という人間関係、そして権力関係を描いていくと、どうしてもそこから逸脱した存在に目を向けていくことになる。そのような呪縛から解き放たれて欲しいと思う(と作品とは最早関係がなくなっている)。

4:町田そのこ「夜空に泳ぐチョコレートグラミー」(『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』新潮社、2017年)

 そうなんですよ。結局必要なのは力強さなんですよ。

5:白尾悠「夜を跳びこえて」(『いまは、空しか見えない』新潮社、2018年)

 そしてもう一つ必要なのは、ほんのわずかな勇気。

6:中田永一「ファイアスターター湯川さん」(『私は存在が空気』祥伝社文庫、2018年)

 ここから教室にとらわれた話ではなく、いろいろなジャンルを読んでいこうという姿勢になっている。中田作品(というか乙一作品)が好きすぎるのか、授業の前の日にkindle版との比較をしていた(けど、授業では特に活用しなかった)。

7:円居挽「DRDR」(『さよならよ、こんにちは』星海社FICTIONS、2019年)

 まさかこの記事を書いている8月初旬のtwitterで、ドラクエ5(具体的には映画)の怨嗟ツイートをここまで目にすることになるとは思いもしなかった。実はこの作品で個人的なツボは、主人公が年上にもてあそばれているところである。

8:米澤穂信「913」(『本と鍵の季節』集英社、2018年)

 この作品の絶妙なキャラクター設定が見事だなと思っている(と玉井がえらそうなことを書いている)。ちなみに個人的にこれ以降、ハトムギ茶を飲むようになった(爽健美茶を飲むかわりに)。

9:武内涼「若冲という男」(『人斬り草 妖草師』徳間文庫、2015年)

 ここから時代小説ゾーンに入る。みんな大好き妖ものである。描写のスピードの話などもついでにした記憶がある。

10:伊吹亜門「監獄舎の殺人」(『刀と傘 明治京洛推理帖』東京創元社、2018年)

 この作品は本当に秀逸。単行本を読んだとき、うなってしまった。読めばわかる。

11:上田早夕里「くさびらの道」(『魚舟・獣舟』光文社文庫、2009年)

 ポストアポカリプスを取り上げようと思った第一弾。とはいえ、この作品は破綻にまで至っていないが、もう破綻エンド以外見えないものである。

12:北山猛邦「千年図書館」(『千年図書館』講談社ノベルス、2019年)

 ポストアポカリプス第二弾。現実世界に存在するものを散りばめながら、そこから読者に解き明かされることが前提で作られたものである。

13:門田充宏「風牙」(『風牙』東京創元社、2018年)

 そしてSFに移る。SF的なガジェットや関西弁の少女という明確なキャラクターだけではなく、人間の本質的な悩みにまで迫る作品だと思う。

14:柞刈湯葉「たのしい超監視社会」(『S-Fマガジン 2019年4月号』早川書房)

 ディストピア作品。みんな大好きビッグブラザーである。いや、皆さん、『1984年』はあまり読んでいないようであったが……。

15:小川一水「千歳の坂も」(『フリーランチの時代』ハヤカワ文庫、2008年)

 ラストは長いスパンを描いた作品を取り上げた。この描き方は簡単に思えて難しいし、二人の物語という主軸をずらさずに、でも社会や国家、経済というものが変容していく様も組み込まなければならない。

7月27日(土)・28日(日)は東北芸術工科大学のオープンキャンパスです。

 今週末の7月27日(土)・28日(日)にオープンキャンパスがあります。文芸学科の予定は以下の通りになります。皆さん、ぜひお越しください。

  • 学科説明会「文芸学科で学ぶ、言語表現・漫画・企画編集」
    担当:石川忠司
    文芸棟204教室(図書館2階)
    27日・28日(1)13:00-13:30 (2)14:30-15:00((1)(2)は同内容)

 文芸学科で行われている授業の内容を、実践的な演習を中心にご紹介。4年間のカリキュラムに沿って分かりやすく説明します。

  • 物語・ストーリー創作講座「読者を惹きつけるためのストーリーのつくり方」
    文芸棟205教室(図書館2階)
    担当:トミヤマユキコ
    27日・28日14:30-15:10

 好き勝手にストーリーを描くのは誰でもできます。しかし、プロの小説家になるには、読者を惹きつける必要があります。人気の小説やマンガを例に、書き出し・冒頭からどのようにストーリーを紡いでいくかを解説します。

  • 卒業生作家デビュー対談 猿渡かざみさん(角川スニーカー文庫より)×在学生
    文芸棟203教室(図書館2階)
    12:00-12:40 ※7月27日(土)のみ

 角川スニーカー文庫より作家デビューした卒業生の猿渡かざみ(さわたり・かざみ)さんと、文芸学科の学生が対談を行います。どうすればデビューできるのか、書き続ける秘訣は何かを、じっくりお聞きします。

  • 今村翔吾さん×池上冬樹教授トークショー「プロ作家になるには」
    文芸棟203教室(図書館2階)
    12:00-12:40 ※7月28日(日)のみ

 2018年に『童神』で第10回角川春樹小説賞を受賞した小説家の今村翔吾さんをお招きして、プロの作家になるための方法や、プロ作家としての仕事の様子、作品についてなどをお話しいただきます。ナビゲーターは文芸学科の池上冬樹教授です。

  • AO入試体験「昔話のリライトを体験しよう」
    文芸棟205教室(図書館2階)
    担当:玉井建也
    27日・28日13:40-14:20

 AO入試で行うグループワーク「昔話のリライト」を誰よりも早く体験できます。この課題のねらいやポイントを分かりやすく解説して、実際の入試のスタイルで行います。受験生はもちろん、1・2年生もぜひ参加してみてください。

 大学全体のオープンキャンパスに関してはこちらをご覧ください。

『文芸ラジオ』5号が発売になります。

7月26日(金)に『文芸ラジオ』5号が発売になります。東北芸術大学芸術学部文芸学科の学生・教員が編集にたずさわった雑誌になります。ぜひともお手に取りください。

  • 目次

Guest Talk 板倉俊之

 

  • 特集 異世界のつくり方

乾石智子「『魔道師の月』創作ノートから学ぶ世界創造」

高島雄哉「“架空”インタビュー 世界観がいっぱい」

荻原規子「ファンタジー小説の考え方」

森田季節「異世界物ライトノベルのはじめ方」

今井哲也「ファンタジー世界を描くための土台づくり」

水上悟志「“なんでもあり”のローファンタジー」

ファンタジー小説に登場する料理を食べてみた/ファンタジー小説にリアリティを持たせるために読むべき本

 

  • 特集 強い自分、ポジティブな自分になる

大学生ネガティブ実態調査

大嶋信頼「ネガティブとはただの悩みなのか」

前向きになれる本18選

あたそ「悩んだって、それが何になるっていうんだ」

小鳥遊しほ「小鳥遊しほに学ぶ、セルフプロデュース講座」

 

  • 小説

草野原々「札幌 vs. 那覇」

佐藤青南『二度目はない』

柊サナカ「炊飯器の騎士」

似鳥鶏「受験の神様」

辻堂ゆめ「君をミュート」

坂井希久子「スカートの人」

呉井城「キラー・イン・ザ・レモン」

宮崎晟汰「ジタ、タバコだけは吸わないで」

山川陽太郎「佐藤さん」

 

怪奇鼎談 押切蓮介×黒史郎×黒木あるじ「怪しくて怖いものだからこそ、惹かれる」

スペシャルインタビュー 保坂和志「自分の反応する興味全部を総動員して、それを小説にできるだけ入れる」

山本周五郎『五瓣の椿』とコーネル・ウールリッチ『黒衣の花嫁』の関係

山本周五郎(1903年~1967年)が亡くなって50年たつので、著作権がなくなり、遺族に印税を払わないで自由に出版できるようになった。山本周五郎といったら新潮文庫であったが、昨年から新潮文庫以外の講談社文庫や角川文庫でも、次々に山本周五郎が文庫化されているのは、そういう事情である。

今年に入っても、山本周五郎の代表作といっていい、『五瓣の椿』が3月に角川文庫、5月に新潮文庫に収録された(新潮文庫の場合は解説が一新された改訂版)。とても気に入っている作品なので多くの人に読んでほしいと思うけれど、困ったことに、角川文庫も新潮文庫も、解説の中で大事なことに一言も触れていない。年季の入った海外ミステリファンにはおなじみのことであるが、山本周五郎は何もないところから『五瓣の椿』を生み出したのではない。元ネタがある。それはコーネル・ウールリッチの『黒衣の花嫁』(ハヤカワ文庫)である。実際、ハヤカワ文庫版のあとがきでは軽くその事実に触れている。

これは海外ミステリファンの間では常識なのだが、いま検索をかけたら、この両者についての結びつきを詳しく論じているものが見つからないので、拙著『ヒーローたちの荒野』(本の雑誌社、2002年6月)から引用しておこう。「本の雑誌」に連載したものを一冊にまとめたもので、雑誌に書いたのは1990年代半ばかと思う。雑誌掲載時のまま、二回にわけてある。

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「二十年目の再読に評価が逆転した『五瓣の椿』と『黒衣の花嫁』」

約二十年ぶりに山本周五郎の時代小説『五瓣の椿』(新潮文庫)を読み返したら、これが意外と面白かった。それで、あわててコーネル・ウールリッチの『黒衣の花嫁』(ハヤカワ文庫)を再読したのだけれど、昔の昂奮はよみがえらなかった。どうしてだろう。
かつてはもちろん『黒衣の花嫁』を読んでから『五瓣の椿』を手にしたので、後者のひねりのなさが物足りず、少しストレートすぎるのではないかと思ったのだが、今回は逆の感想をもった。ウールリッチのひねりが気になり、山本周五郎の直截な筆致に心をうたれた。いやむしろ、こんに素晴らしかったのかと感動したほど。
『黒衣の花嫁』のあとがきで一言ふれられているが(新潮文庫の解説には一言もないが)、『五瓣の椿』は『黒衣の花嫁』から着想をえて書かれたものである。暴走運転で花婿を殺された花嫁ジュリーが、同情していた五人の男たちに復讐する・・というのが『黒衣の花嫁』だが、『五瓣の椿』は、若い娘おしの(、、、※ルビです)が、労咳の父親を見殺しにした淫蕩な母親と五人の愛人たちを次々に殺す物語である。名前を変え、男たちに言い寄り、男がその気になったところで動機を告白して殺す。このウールリッチのパターンをそのまま山本は踏襲している。連続殺人に刑事が注目し、結果的にヒロインの犯罪をあばくのも同じ(『五瓣の椿』では与力であるが)。
ただ違うのは(※以下、結末を明らかにします)、『黒衣の花嫁』の花婿の死亡が実は車で轢かれたからではなく、殺し屋が放った銃弾によるものであること、つまりジュリーの復讐はまったく根拠がなく、無垢の者たちを殺したことがわかる。このどんでん返し! ジュリーは、運命のいたずらに翻弄されて、犯した罪の重さを噛みしめるのだ。
いっぽう『五瓣の椿』は、おしのの行為を正当化する。“この世には御定法(ごじょうほう)で罰することのできない罪がある”“人が生きてゆくためには、お互いに守らなければならない掟がある。その掟が守られなければ世の中は成り立ってゆかないだろうし、人間の人間らしさも失われてしまうであろう”と。
現代の読者感覚からすれば、不義が殺人の動機になることへの違和感や、殺される者への同情を覚える人もいるかもしれないが、小説を読んでいると、そんな違和感や同情が差し挟まれる余裕はない。おしのの苛烈な精神性、熱くたぎる殺意にうちのめされてしまうからだ。生娘なのに、男をたぶらかすような真似をして誘い込み、一線を超えずに、最後は男たちの胸に銀の釵(かんざし)を打ち込む。その情念の峻烈さ。山本周五郎はウールリッチ以上に、より強く情念を打ち出しているのだが、もちろんそればかりではない。物語を借りて、もっと挑戦していることがある。(この項目続く)

「『五瓣の椿』はなぜ面白いのか」

コーネル・ウールリッチの『黒衣の花嫁』と山本周五郎の『五瓣の椿』。前回詳しく書いたように、後者は前者にインスパイアされて書かれた作品で、物語の構造はほとんど同じである。違うのはウールリッチがどんでん返しを採用しているのに、山本周五郎のほうはストレートに物語を運んだことだ。
当時の時代背景を探るなら、『黒衣の花嫁』が書かれたのが一九四〇年(余談だが、ハヤカワ・ポケット・ミステリから翻訳が出たのが五三年)、『五瓣の椿』は一九五九年。かたや第二次世界大戦に突入した時期の暗いムード、かたや翌年の安全保障条約改正阻止のために国情が騒然としはじめた頃を背景としている。だから、『黒衣の花嫁』のどんでん返し、つまり暴走運転で殺された夫の復讐のために連続殺人を犯したのに、実は死因が轢死ではなく殺し屋による銃殺というラストの衝撃は、ひとりよがりの正義のために無垢の者たちを殺してしまう“戦争”を批判したともとれるだろう。『五瓣の椿』がどんでん返しを採用せずに、ストレートに一人の女性の内面をぶつけたのは、己が信条のために行動を起こすことを是とする空気を反映したものとみることもできる。
もちろん作家論として、ウールリッチが絶望と哀愁を謳い、山本周五郎が世の中の底辺に生きる人々の真摯な思いをすくい上げたことをみれば、それぞれの結末は当然の帰結ともいえる。二人の作家とも“時代”を反映させ(いや反映させる意図はなかったにしろ)、それぞれの文学観で物語の結末をつけた。だからいま問題にすべきは、現代において、何故『黒衣の花嫁』が弱くて、『五瓣の椿』のほうが読者に面白く迫るのかということである。
簡単にいってしまうなら、『五瓣の椿』はまさに“現代のハードボイルド”ということにつきる。“この世には御定法で罰することのできない罪がある”という考えによって、おしのが殺人という私的正義を下すあたり、まさしく近年の(海外ミステリにおける)重要なテーマである自警団的正義の是非と絡んでくるし、何よりも文体そのものが、珍しいくらいに装飾を排して乾いている。非情な行動と台詞を冷徹に記述しながらも、こぼれおちる清冽な抒情。それは山本の代表作『樅の木は残った』にもいえることで(あの雪のなかでの鮮烈な鹿撃ちの場面を思い出せ!)、生島治郎や青木雨彦たちが国産ハードボイルドの先駆的な作品としてあげているほどだ。
しかも注目すべきは、外側から描かれていた『五瓣の椿』が終盤では一転しておしのの内面に入り込み、殺人を犯した女の悲しみや絶望が前面に打ち出され、心の闇がより鮮明になり、暗黒小説の片鱗をのぞかせることである。このハードボイルドからノワールへの移行。『五瓣の椿』が面白いのは、山本がはからずもその小説史を先取りした点にある。
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角川文庫の解説は、私小説家の西村賢太。角川の文芸サイト「カドブン」に解説がまるごと掲載されている。それによると、30年前の「初読時の本作の印象は決して心地良いものではなく、むしろ全篇に対し、軽ろき不興をさえ覚えた」という。「サスペンス仕立ての小説としては、現代の視点では至極ありきたりな筋の運びに感じたし、またそれだけにおしのの復讐心理にも不自然な――一口で云ってしまえば共感を重ねることがなかなかに難しかった」と。そしてこう続けている。

“さほどでもない作”との感想のまま、二度読み返すこともなかったのである。
そして三十年余の星霜を経たわけだが、先の、『山本周五郎長篇小説全集』配本の際に本作を再読してみて、私は過去の自身の大いなる不明を恥じぬわけにはいかなかった。
当然、細部については完全に忘れきっているから、それは殆ど初読に等しい復読である。
今度は若年時に感じた、おしのの心理に対する不自然さは露ほども感じなかった。
結句(けっく)、小説を読む際は単純に、どこまでもその物語の中に没入した方が得なのである。昔に読んだときには解らなかった語り口のうまさと緊密な構成力とが、今度はハッキリと本作にもあらわれていることを知った。
三十年と云う歳月が、こうも同じ作の読後感を変えるものかと驚いた次第である。
(KADOKAWA発の文芸情報サイト・カドブン「復讐は、虚しいか。父のために人を殺めた少女を待ち受ける、哀しくも優しい運命『五瓣の椿』」。角川文庫解説より

このあとに、僕が引用したところと同じ、“御定法”との絡みについての魅力が書いてある(関心のある方は読まれるといいだろう)。

おそらく山本の冷徹で直截な筆致は、いまの読者の胸に響くかと思う。ただし、大切なのは(大学の授業でも触れたことだが)、山本がハードボイルド・スタイルを貫き、最後に主人公の内面に入り込む方法をとったからでもある。最初から内面を描いていったら単調になるし、読者の胸には響かないでしょう。ぜひ『五瓣の椿』→『黒衣の花嫁』の順で読んでほしいし、できたら、フラソワ・トリュフォーが映画化した『黒衣の花嫁』(1968年)も見てほしいと思う。

 

『妖草師」「監獄舎の殺人」『落ちぬ椿』と六月中旬以降(授業第八週~第十週)

 六月になると、ぽつぽつと新入生が休みはじめる。これまで五月病とよく言われていたが、意外にも五月ぐらいではまだ新鮮な気持ちは失われておらず、連休により一度リフレッシュして少し生き生きとしているぐらいである。この五月、六月の流れは教員も例外ではなく、というより社会性ある人間として生きている以上は、何かの取り決めにより成立した暦に依拠して社会生活を送っているため、そこからの完全なる逸脱は不可能だといえる。そのため五月までは通常通り進めていた授業ではあるが、六月になると教員は普通の顔して授業をし(その心中はさておき)、学生たちは毎週必ず誰かが休んでいくという構図が見えてくることになる。

 もちろん、休んだ学生全員がサボりだと言いたいわけではない。季節の変わり目をむかえた山形は寒暖差がとにかく激しく、体調を崩しやすくなる。そう書いている私自身もあっさりと風邪をひくので、梅雨寒の時期は非常に厳しい。本当に厳しい。冬も厳しい。真夏だけは暑くなるのは昼下がりの一瞬なので、夕方以降は涼しくなり、天然のクーラーだなと思う。私の感慨は置いておこう。このような状況なので学生の皆さんが体調を崩したにも関わらず無理して来ようとしたら、いつも「いのちをだいじに」の気分で接している……つもりである。しかし、そこにカテゴライズされないであろうと推測される休みが目に付いてくるのが、この六月である。

 数年前に東京理科大の調査が発表されたときに、首肯しながら読んでしまったのだが、その内容は「1年生の最後の成績が、概ね四年間の成績を表してしまうこと。その成績に大きく影響を与えるのが1年生の六月の出席」ということである。

大学成績1年で決まる? 卒業時と一致 東京理科大調査

 感覚的に把握していたことが、きちんとした数値で提示されて気持ちよかったことを覚えているが、とにもかくにもミクロな個別事例での差異はあれども、大まかな傾向としては、この六月が重要ということになる。とはいえ、別に「全員来い。絶対来い。今すぐ来い」と言いたいわけではなく、大学は高校までと違い、来るか来ないか、何を学ぶか学ばないか、そのすべての責任は自分自身にかかってくるので、教員はその手助けをするだけというスタンスである。

 その六月の作品読解では、時代小説を二本取り上げた。一つは武内涼さんの「若冲という男」(『妖草師 人斬り草』徳間文庫、2015年)で、もう一つは伊吹亜門さんの「監獄舎の殺人」(『刀と傘 明治京洛推理帖』東京創元社、2018年)である。さらにゼミでは知野みさきさんの『落ちぬ椿 上絵師 律の似面絵帖』(光文社時代小説文庫、2016年)を取り上げた。それなりに歴史が好きな身としては、定期的に時代小説を取り上げようと毎年苦慮している。学生の評判は「難しい」、「漢字が多い」という直接的な拒否反応もあれば、「予想と違い面白い」という前向きなものもある。まあ、その意味ではいつも通りであろう。今回の狙いは武内作品で時代小説というジャンルにしばられない幅の広さを、伊吹作品ではミステリーとしてのレベルの高さを、そして知野作品では女性の生きる力強さを考えて欲しいと思い、取り上げている。皆さん、どうであったであろうか。そう思いながら、このブログの更新が滞っていたのは、やはり六月だからである。

『ひとりぼっちで恋をしてみた』と授業第七週

 先日、積読状態であったあぬさんの『なんで生きてるかわからない人 和泉澄 25歳』(徳間書店、2018年)を読んでいたのだが、ああ、なるほどと頷いていた。別に主人公の生き方に共感したわけではない。そもそも読書の手法が主人公に感情移入したり、共感したりするだけというのは極めて視野が狭くないか。もちろん、それはそれで構わないし、否定しているわけではない。読み方は多様であるというだけだ。では何に対して首肯しているかというと、以前より創作を志望する学生さんが頻繁に作り出してしまうキャラクターとして「主体性に欠けて、協調性がないが、いざとなったら何とかするやつ」があり、この『なんで生きてるか~』は、その皆さんが作り出していきたい(と思われる)キャラクターが主人公なのだ。

 やる気のない人が主人公として小説内の物語世界で活動するのは非常に難しい。要は主人公に物語内での動機がない時点で、行動に移ることはない。つまり何もしない人は、物語が展開することはないし、何かが起きても対応しようともしない。それなのに急に困難を乗り越えられても、物語としての説得力に欠けてしまう。読者としてはつまらないわけで、満足しているのは作者だけになってしまう。

 がしかし。『なんで生きてるか~』では、主人公にやる気はない。おいおい、セニョール。これはどういうことだ、と思うかもしれないが、この作品の場合、主人公の動機が極めて明確になっている。つまり動機は常にプラスに作用する必要はなく、マイナス面に振り切っても良い。その意味で、この作品の主人公にまとわりつく社会規範や倫理観が主人公の動機に立ちはだかる壁として存在しており、必ずしも行動に移すことが物語的な意味でプラスに作用するとは限らない。ただマイナスの感情を描くことで物語の起伏を生み出すのは非常に難しく、おいそれとできることではないのは確かだ。

 同じような問題意識を持ちながら第七週のゼミで取り上げた作品に、田川とまたさんの『ひとりぼっちで恋をしてみた』(講談社、2019)がある。この作品の主人公は奥手で人見知りという主人公として物語を駆動させていくには、かなり難しいキャラクターである。それは作者自身も悩んだようで、1巻のあとがきに「2話以降の展開に悩んだ」と書いている。1話では、その主人公が少しだけ勇気を出して一歩踏み出した内容であり、読み切りであれば確かに完成度の高い作品である(ちなみに作画も素晴らしく、カメラを固定した映像的な見せ方も面白い)。しかし、それは主人公にとっての大きな一歩であり、周囲の人間、そして読者からするとほんのわずかな一歩でしかない。そこには主人公的な行動として恒常的に描いていくことの難しさが存在する。

 そこでこの作品は2話以降、より大きな物語の波に主人公は飲み込まれていく。彼女自身の行動力の延長線上でありながら、さらに大きく開かれた物語展開は初発の段階で読者が抱くであろう道筋を大きく裏切っており、快感ともいうべき作品に仕上がっている。つまり主人公が奥手であることを受け入れて、その行動規範のみで展開していくと一つの限界を迎えてしまう可能性は大きい。それはそれで一つの物語としては機能するかもしれないが、狭い空間の中で描きながらもその狭さを壊していくことが求められる(頭の中に「わたモテ」を思い浮かべながら)。その点では、今後、どのように描いていくのかを楽しみに読もうと思っている。

小説の文章を書くうえでの「指針」

先日、旧知の編集者から、以下のメールをいただいた。

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大変お世話になっています。××××の××です。

門井慶喜さんの山形小説講座のご講評が素晴らしすぎて、
この連休中、7度拝読してしましました。
自分の指針にしたいと思います。
本当にありがとうございます。

すみません、素晴らしすぎて、ご連絡してしまいました。
今後ともよろしくお願い申し上げます。

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門井さんの講座というのは、3月に行われた山形小説家・ライター講座のことである。毎月お迎えする講師にはそれぞれ個性や特徴があるが、門井さんの場合は、徹底的に文章にこだわった講評だった。エンターテインメント作家の講師の場合、文章は書いているうちに巧くなるから文章のことはさておいて・・という講評が多い。文章を褒めるときは具体的に熱く褒めても、問題があるときはさらりと触れる程度で、プロットやキャラクターやテーマなどについて詳しく見ていく。

そういう講師がほとんどなので、門井さんが文章について詳しくやりたいのだが、どうだろう? とおっしゃるので、どうぞどうぞお願いしますとお答えした。文章に関して徹底的に論じる講座があってもいいと思ったからである。

ということで、講座2時間のうち3分の2(1時間半程度)が、受講生提出のテキスト(短篇)の文章についての徹底した講評になった。これがもう読ませる。

一言でいうなら、トートロジーを避けようということである。トートロジーとは、同義語・類語・同語を反復させる修辞技法のこと。頭痛が痛いとか馬から落馬するとかが有名だが、そんな“初級篇”ではなく、中級篇や上級篇のことである。小説の中の説明や描写に則して見ていくと、意外と気づかない同義語反復、類語反復、同語反復等がある。その細かな検証を、門井さんが行ってくれている。
https://pixiv-bungei.net/archives/3883

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では(佐藤陽子さんの)『雲の縫い方』1頁目から。
文章で絶対やってはいけないことは、トートロジー、同義反復です。馬から落馬した、というような初級篇で引っかかるような方はこの講座にはいないと思いますが、では中級篇、上級篇ではどうかというと、残念ながらこの三作品にもあてはまるところがあります。『雲の縫い方』に関しては、1行目から3行目を見てください。「雨が降った、次の日だったと思う。町を囲む山の峰から、湧き出るように雲が立った。ましろの、綿のような」という、この3行にふたつトートロジーがあります。作家というのはトートロジーには敏感なものですが、中級篇でいうと、「ましろの、綿のような」というところです。これはどちらか片方でいい。雲の話ですから、「綿のような」と言うだけで、黄色や黒の雲を想像する読者はいませんから。したがって、僕なら「ましろの」を切ります。おそらく、佐藤さんは薄々これに気がついておられたのではないかと。まだ書き始めで、読者とのコミュニケーションがまだできていないから、ついつい二重に書いてしまったということでしょう。だから「ましろの」と古語にされているのだと思いますが、これは二重にいけません。歴史小説でもないのに、ここで古語を出す必然性はないですし、かといって「真っ白」でも「純白」でも、どっちにしてもいりません。

これが中級篇です。では上級篇ではどうかというと、これはたいへん気づくのが難しい。「町を囲む山の峰から、湧き出るように雲が立った」というところです。「町を囲む山の峰から」という文章は、風景の広がりと限定を同時に出している、さりげないけどいい表現です。ところが、言葉を出す順番を見てみましょう。まず「町」を出して、次に「山」を出したら、読者の視点は下から上に行くでしょう。ということは、続く「湧き出るように」は、いりませんよね。わかりますか? 「町を囲む山の峰」に雲があった、という時点で、読者は勝手に視点を上げてくれますよね。ですから、ここは勇気を持って「湧き出るように」は削除しましょう。削除することだけが解決方法ではありませんが、言葉を出す順番によって読者がどう視点を動かすか、というところまで考えていかないと、風景描写におけるトートロジーはなかなか削りづらいです。

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どうだろう。プロの編集者が何度も読み返すのがわかるのではないか。こういう鮮やか講評がえんえんと続く。文章にうるさい人でも、門井さんの講評には感嘆するかもしれない。

ただ、こういう門井さんの講評のように文章をいちいち考えていくと、全然前に進めない人がいるかもしれない。かつて僕もそうだったのだが、文章にこだわりすぎて、ぜんぜん先へと進めなかった。理想とする文章があり、それに近づこう、自分の文体を確立しようとそればかり考えていて、語るべきストーリーやテーマを見失う。

一方で、文章の善し悪しなどまったく考えないで簡単に書き続ける人たちがいる。文章よりも語りたいストーリーがあり、キャラクターがあるからで、文章にこだわりがない。そのために文章が無味乾燥になるきらいがある。

前者が純文学、後者がエンターテインメント志向という分類は乱暴かもしれないが、どちらも問題があるだろう。いや、問題があるというのは言い過ぎか。どちらも大事ではあるのだ。文章にこだわり、この表現はいいのか悪いのか、それこそ同義反復になっていないのかどうかと考えることは必要であるし、細かいところは後回しにして語りたい欲望に忠実になって勢いを持続させて文章を繰り出していくことも大切である。文章に注意を払いながらも、書きたいことを書き続ける勢いを失わないことである。

編集者のメールにあるように、門井さんの講評は今後の“指針”になるだろう。小説を書く人たちには重要な参考資料になるにちがいない。ただ、細かいことを考えていると文章を書けなくなる恐れがあるので、とりあえずまずは書き続けることを優先して、推敲のときに門井さんの講評を読み返すくらいがいいかもしれない。

どんでん返し

 「ランティエ」7月号の特集は「今野敏の世界」で、ベストセラー作家今野敏と新鋭作家の今村翔吾が対談をしている。

 今野敏は昨年作家生活40周年を迎えたベテランのミステリ作家で、今年5月まで日本推理作家協会理事長をつとめていた。今村翔吾は「羽州ぼろ鳶組」「くらまし屋稼業」シリーズでベストセラーを記録し、今年一月『童の神』(角川春樹小説賞)で直木賞候補になり、惜しくも賞を逃したが、真藤順丈の受賞作『宝島』に次ぐ高い評価を得た。文壇でもっとも注目されている若手作家だろう(※今村さんを7月28日の東北芸術工科大学のオープンキャンパスにお招きします。午後12時からトークショーあり。詳細は後日。午後2時からは今村さんは山形小説家・ライター講座の講師をつとめます)。

 二人の対談はとても面白いのだが、いちばん驚いたのは、このくだりだろう。

今野 俺は決めてないよ、結末。
今村 犯人も決めてないんですか?
今野 決めてない。いや、大まかにこいつにしようかなというのはあるけれど、布石を打っているうちに、どう考えてもこっちを犯人にしたほうが面白いってなると、振り返って齟齬(そご)がないかどうか調べて、拾える布石があれば拾って、そうすると、あたかも最初から考えていたかのように、物語ができる。すごいどんでん返しですねなんて言われるけど、当たり前だ、俺だって知らなかったんだから(笑)。
今村 道理で面白いわけだ(笑)。

「すごいどんでん返しですねなんて言われるけど、当たり前だ、俺だって知らなかったんだから(笑)」がおかしい。というか、結末も決めないで、35シリーズ(!)何百冊も書けるのだからたいしたものである。

 今野敏の発言を聞いて驚いた人もいるかと思うが、ストーリーを何一つ決めずに書いていく作家は少なからずいる。昭和の流行作家(という言い方があった)は月産500枚とか600枚とか、なかには1000枚、2000枚という作家もいたので(一時期月産2000枚だったのが勝目梓で、素晴らしく見事な純文学的自伝『小説家』によれば、多忙で鬱病にもなった)、いちいちプロットを決めて書くなど時間的に無理だろう。ぶっつけ本番で小説を書きはじめ、想のおもむくまま物語を展開させて巧みに着地した。プロ作家となればそんなことはなんでもなくなる。

 ストーリーを決めないで書く作家としては池波正太郎や北方謙三が有名だろう。5月の「せんだい文学塾」と「山形小説家・ライター講座」の講師を務めてくれた『バッテリー』で有名なあさのあつこさんも、実はストーリーを決めないで書く作家の一人だ。いかにストーリーを決めないで小説を書くのかを詳しく語ってくれたが(詳細は6月下旬公開の山形小説家講座のホームページをご覧ください)、これは何年も訓練を重ねたゆえに会得したもので、安易にとびつかないほうがいい。

 といっても、学生や小説家講座の受講生を見ていると、プロットを決めて書くのが苦手な人がいる。人それぞれの書き方があるので、プロットを決めて書くことがベストとはいわないが(そのかわりキャラクターや設定やテーマなど様々なことは押さえておくべきだが)、少しでも決めて書いたほうがあとあと楽である。全部を決める必要はないし、前半だけでもいいから決めたほうが終盤であまり迷うことはない。プロット作りが苦手な人でも、書き方やアプローチを教えれば、問題をクリアできる。理論が頭にあれば、困ったときにどうすれば対処すべきかが見えてくる。そのために大学では理論を教えている。

 先日から、大学のゼミでは、ジェフリー・ディーヴァーの短篇をテキストにしている。現在、世界でナンバーワンのどんでん返し作家といったら、誰もがディーヴァーをあげるだろう(あと数十年たってもディーヴァーはナンバーワンだろう)。四肢麻痺の科学捜査官リンカーン・ライム・シリーズ(『ボーン・コレクター』『ウォッチメイカー』)や、いかなる嘘も見抜く尋問の名手(別名“人間嘘発見器”)キャサリン・ダンス・シリーズ(『スリーピング・ドール』『ロードサイド・クロス』)が有名だが、長篇のみならず短篇の名手でもあり、短い枚数の物語のなかに仕掛けが詰まっていて、どんでん返しの切れ味たるや抜群である。

 学生たちに、これはどんでん返しの名手の短篇であり、最後に大きなどんでん返しがあるから、それを頭に入れてだまされないように推理して読みなさい、と事前にいっておくのだが、誰もがころりとだまされる(プロの評論家ですらだまされるのだから当然だが)。え? そういうオチなの!? と驚いている。一読したあと、伏線そのほかの確認のためにもう一度読み返して、一つ一つの細部にうなり、これはすごい! と感嘆している。エンターテインメント、とりわけミステリ系の作品を書きたいと思っているなら、ツイストやどんでん返しは必須で、どのように仕掛けるのか、その方法とは何かを、細部を通して実感しないといけない。

 もちろん今野敏クラスになれば、どんでん返しも書いているうちに思いつくかもしれないが、それもまた長年の経験(とくに読書量)があるからこそ。学生や小説家志望者はたくさんのサンプルを読んで、その方法を学んだほうがいい。どんでん返しにもパターンがある。どんでん返しの作家はディーヴァーばかりではなく、ほかにも多くの作家がいて、読者を愉しませる(騙す)技を磨いているのだ。その技に触れるのがいちばんだろう。

『ソワレ学級』、『私は存在が空気』と授業第六週

 あいみょんの曲に「君はロックを聴かない」がある。一時期、よく聞いていて、「ロック」を「聴かない」という否定形なのが非常に心地よかった。別にロックに対し愛情も信仰もないのだが、それでも一つのジャンルを築き上げている概念に対して見事なタイトルだと思う。しかも、本人がインタビューなどで「青春の曲」と言うように、ロックを否定している曲ではない。むしろ、この歌詞の主人公はロックを聴いている。聴かないのは君なんだ。

 胸の高鳴りを抑えきれず、何もできないけど自らのことを知って欲しい自分、ロックを聴いて欲しい自分。それぞれのロックンロールに自らを重ね合わせてきた、そういうアイデンティティを積極的に伝えることができない。それを「こんな歌」や「あんな歌」に乗せていこうとする姿勢。そのすべてが、ここぞというときにはいじらしいほど受け身であり、積極的に最後まで貫くことのできない勇気のなさを感じ取ってしまう。いや、いい。青春というのはそういうものだ。青春という枠組みの中にありながらも、学校や教室、部活、登下校という既存の中に属していかないものだってあると思う。深夜ラジオで聞いた曲を、そのあと何年経っても聞き続けたりするなんて思うわけないだろう? そのようなときに曲の力、歌詞の力は強大だなと思う。

 「普通」という枠組みは非常に強固で、そこから外れてしまうと生きていくのが大変だと錯覚してしまう。そう思ってしまうは仕方のないことだし、別に非難されることではない。でも、そんな一面的な物事だけで世の中は成り立っていない。第六週のゼミで読んだ靴下ぬぎ子さんの『ソワレ学級』(徳間書店、全2巻)は、進学校でドロップアウトしてしまった主人公が定時制高校に入り直す物語である。自由に登校し、自由に行動をする。年齢もばらばらであれば、授業にきちんと出るかどうかも定まっていない(そりゃ、出るのが前提だが)。その姿勢に慣れていく過程のなか、主人公が電車内で中学校の同級生に会ったときに、双方が感じ取る気まずさが描かれる。ほんのわずかなシーンだし、それが主題であることもない。作品としては、その後、同級生の女子学生2名の関係性が中心に描かれていく。そう教室内の関係性なんか、この物語では無意味なんだ。本当に学校という枠組みの絶対性を、この作品は崩してくれている。

 第六週の作品読解で取り上げたのは中田永一さんの「ファイアスターター湯川さん」(『私は存在が空気』祥伝社文庫、2018、所収)である。毎年、この授業の内容を一新するようにしているのだが、作品をかえても作家はそのままにすることもある。昨年は同じ短編集に収録されている「少年ジャンパー」を授業で取り上げた。この作品は教室内の関係性に疲弊した主人公が、超能力を手に入れることにより、大きな変化を起こしていく物語である。教室内の関係性から逸脱してしまった主人公は、その外で別の関係性に意味や意義を見出していく。どこかに属し、固定観念を抱き続けることは、決して間違っているわけではないが、そこから離れた存在・概念だって、世の中には存在している。「ファイアスターター湯川さん」の主人公も、必ずしも自らが社会的に属する大学生という価値観には縛られてはいない。

 そのうち皆さんもあいみょんの曲を聞きながら、見えなかった部分や感じ取れなかった概念を理解できるときがくるかもしれない。願わくば大学生活の4年間で、そうなって欲しいけれども、そう上手くいかないことも知っている。自分がそうではなかったから。