『文芸ラジオ』4号が発売になります。

文芸学科の学生・教員が編集を担当している『文芸ラジオ』4号が発売になります。書店やネットなどでお買い求めください。

 

目次

特集 作家デビューガイド

『響~小説家になる方法~』研究
『響』人物相関図/柳本光晴先生 一問一答/初代編集者 一問一答/現担当編集者 インタビュー
対談 乾石智子×柚月裕子 「山形で書くということ」
インタビュー 岩渕円花 『イマドキ古事記』で在学デビュー
評論 池田雄一 「新人賞は何のためにあるのか」
ネット発作家のなり方
PART1 自分に合う投稿サイトを見極める/PART2 猿渡かざみ 「小説家になろう」から在学デビュー
この副賞がすごい!
新人賞タイプ別チャート診断
新人賞一覧

特集 変身 揺れ動く「私」のエクスプロージョン

インタビュー 平田広明(声優)/佐藤陽介(アクション俳優)/松浦だるま(漫画『累 -かさね-』作者)
「あなたは変身したい?」世間の変身願望
評論 玉井建也 「変身ゼミーブックガイドとエッセーー」
小説 大久保開「変身同盟」/武田真子「兄の葬式」/ふるさとりはつと「ストレンジ・ラバーズ」
漫画 エリザベス「シンデレラ・モメント」

小説

宮木あや子「セレブレーショングラデュエーション」
王城夕紀「グッドナイト、キャピタリズム」
渡辺 優「ヒューマニズム」
吉川 敦「受賞後第一作」
丸山千耀「モルダウの歌」
星 歩花「空谷の跫音」
オキシタケヒコ「Aは天使のA」

恐怖対談 呪みちる×黒木あるじ「ホラーに魅入られた男たち」
第3回文芸ラジオ新人賞発表

玉井建也「歴史と空間をめぐるコンテンツ」が出ました。

辻大和編『調査研究報告64号 東アジアの歴史イメージとコンテンツ』(学習院大学東洋文化研究所、2018年)が出まして、私も一本書いております。目次は以下の通りです。

目次
海老根量介「序文にかえて:「コンテンツプロジェクト」発足の経緯と研究のあゆみについて」
堀内淳一「日本における「日本史」と「中国史」のイメージ形成~『信長の野望』と『三国志』」
玉井建也「歴史と空間をめぐるコンテンツ」
辻大和「韓国の人文系デジタル事業政策―「文化原型デジタルコンテンツ」を中心に―」
戸田千速「大学におけるマンガ教育に関する考察―京都精華大学マンガ学部・大学院マンガ研究科を事例として―」

私の論文タイトルだけが大雑把だ! ということで、簡単に説明しますと、エンターテイメントで「歴史」とされる事象がいかに形成され、伝えられ、そして消費されているのかを、ライトノベルや漫画で考えてみたわけです。紹介文を書いても大雑把ですが、とりあえず文中で主として取り上げている作品を挙げておきます(細かく言及しているものを入れると多いので)。

「アレがアレだからアレしときます」

 サカナクションのベストアルバムを買ったが、聞いていない。この1週間は新しく始まったアニメを見ていないし、毎日何かしら読んでいる漫画も小説もすべて手に取っていない。31日に吉田正高さんが亡くなったという電話を死後数時間で奥さんからもらってから、告別式の次の日となった今日に至るまで、時間の感覚をすべてを追いやってしまった気がする。連絡をもらってから茫然とし、事実として受け入れられないが、厳然たる事実として存在するという浮遊した気分になっていた。「あー、このままでは人として機能できない」と思うも、ただ思うだけで特に何もできなかった。

 しかし状況がそれを許してくれなかった。情報が伝達されるにつれ、多くの人から電話をもらい、メールをもらい、各種のメッセージをもらったので、一つずつ返事をしていったのである。これほどの数のメールに返事をしたことはないし、これほどの電話がかかってきたこともない。何せ、オタクだ。普段、電話する友達がいるわけないじゃないか。なので自分自身のキャパをフル回転させることにした。「した」というか、結果的に「なってしまった」ぐらいが正確であるが、多忙であることが、頭が思考する余裕と時間を奪い去ってくれて、次第に立ち直っていった。その後は告別式で「お別れの言葉」をお話していただく皆さんに連絡を取ったり、本業のほうのガイダンスや入学式をこなしたりして、あっという間に告別式当日である。

 吉田さんと初めて会ったのは、私がまだ学生で、吉田さんはドクターコースから出たぐらいだったと思う。同じ早稲田大学の日本近世史ゼミ出身同士であった。何を話したか覚えていないが、10年後ぐらいに「あのときの玉井くんは、普通の服を着て、草野球やってたりとか、すごい普通なやつがオタクな話もするから、びっくりした」と言われたことは覚えている。当時の吉田さんはいつも同じデニム生地の長袖シャツを着ているオタクで、ドラゴンボールの悟空のように同じ服を何着も買って、それを着まわしていた。それを着まわしというのかに関しては疑問ではあるが、いつも同じ服なので、遠くから見ても識別しやすかったことは確かである。その後、東京大学で一緒に仕事をするようになって、毎回、昼飯を一緒に食べに行き、親密になっていったと思う。基本的に吉田さんとはオタクの趣味がそれほどかぶらず、相手のしゃべることに対して、右から左に聞き流していたから、それはそれで気の置けない仲になったのだろう。でも、皆さん、文京区の定食屋で、周囲には昼休み中のサラリーマンに囲まれているのに、ずっとシリアルキラーの話をしているんですよ。聞いても聞かなくても、飯を食うじゃないですか。人の殺し方の話より、空腹を満たすほうを優先するでしょ。

 2009年に一緒にコンテンツ文化史学会を立ち上げることになるのだが、最初、実は吉田さんは学会を創設するという提案には懐疑的であった。というより、最初は「自分はまだ若いから」と断ろうとしていた。でも「SOS団みたいなもんですよ」という私に対し、数日後にはOKを出してくれたのである。しかし、これは私が説得できたというよりも、会長として神輿の上に乗ることをすべて受け入れてくれたのだと思う。研究者としてというよりは、一人のオタクとして、一人の人間として、会長としての振る舞いを作り上げていったのだろう。なので私は途中から学会で喋ったり、論文を掲載したりするのは控えるように意識的にしていった。これは吉田さんが会長として振る舞うなら、自分は下働きとして振る舞おうと思ったからである。学会もそろそろ10年目になり、会長職を降りることを希望し、「普通の委員となって、発送担当とかになるよ」とか言っていたのだが、次のステップも想定していたに違いない。

 まあ、書きたいことはたくさんあるが、こんなところでいいでしょ。と投げやりに書くと吉田さんから「うわ、ちくしょー」と言われそうだけど、いつもそんな感じだったじゃないですか。これから新しいアニメを見るし、マンガも読むし、何より明日の授業で使う小説を読まなければいけない。そして新作を見たら、あとで吉田さんに自慢してやろうと思っているのだが、あの人なら天国からがんばって「カードキャプターさくら」のクリアカード編を見ようとしている気がしてならない。もしかしたら、先人たちが天国で書いた新作を読んで、逆に将来、自慢されるんじゃないかな。

 最後に吉田さんの画像を貼っておこう。あまりにも身近にいたので、実はほとんど写真をとったことがない。これは私の研究室に何かの用事でやってきたとき(そして、そこらに置いてあったものを読んでいる)。メタデータを見ると2015年6月2日である。

玉井建也「せいので飛び出せるのか――岡田麿里作品における共同体」が出ました。

 玉井建也「せいので飛び出せるのか――岡田麿里作品における共同体」(『ユリイカ2018年3月臨時増刊号 総特集=岡田麿里』所収)が出ました。初の監督作品である映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』が公開中の岡田麿里さんの特集号です。私の論考以外にも多くの評論および関係者インタビューが掲載されており、読み応えのある特集号になっています。何より岡田作品が多様なため、取り上げられている作品群を追いかけだけで「ほかの皆さんはこんなところに目をつけるとは!」と感心しています。

 今回の文章は年末年始の一番多忙な時期に書いていたため、自分の能力のなさにほとほと嫌気がさしたことを覚えています。文芸学科の年末年始は休みにはならず、学生の皆さんが取り組んだ卒業制作を一つ一つ読んでいく時間として存在しています。「もう年末だから」という雰囲気とは隔絶した流れの中に身を置くことになります。というより身を置いていたつもりが、いつの間にかに流されるのが世の常。その中で、インプット・アウトプットを行っていくことの難しさを痛感しました。以前もこのブログで書きましたが、基本的に何かものを書くときには大まかなアウトラインどころか、どうやって話の流れの上げ・下げを行うのかを考えたうえで、いつも執筆しているのですが、今回は時間不足で見切り発車のまま書き出しました。出来不出来とは全く別の問題として、自らの管理不足に対する大きな不満です。とはいえ、いつも通りではないか、と言われれば、そうなのですが。

 私が取り上げた作品は『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』、『花咲くいろは HOME SWEET HOME』、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』です。今回の文章の裏テーマとして、なぜ自分はこれらの作品が好きなのであろうかと自問自答することから始めました。見たことのある方なら分かると思いますが、表出してくるテーマは全く違う作品のはずが、その差異が気にならないほどのめり込んでしまうのは、なぜか。そこを出発点としながら、普遍化を行っていきました。もう一つの裏テーマは「幼なじみ」という言葉を使わずに「幼なじみ」について考える、でした。上手くできたでしょうか。

玉井建也「物語・ゲーム・ライトノベル―ウェブ小説と物語論の関係―」が出ました。

 玉井建也「物語・ゲーム・ライトノベル―ウェブ小説と物語論の関係―」(『東北芸術工科大学紀要』25号、2018年3月)が出ました。大学の発行物になりますので、本学の教員および大学院生の皆さんが執筆しています。私の論文を詳説するのは省き、参考文献に挙げたものを淡々と挙げていきますので、推測してください。ただしこのブログで掲載するのは書籍のみで、学術論文は挙げていません。

 ちなみにこの論文を書く契機としては、2年か3年ぐらい前に「誰かネット小説に関して論文を書いてはいないのか」と思ったことが発端です。何となくそれが頭の片隅にはあったのですが、『幼なじみ萌え』に注力していたので放置していました。そして書き終わったタイミングでも、自分が楽しめる論文が出ていない気がしたので(出ていたらごめんなさい!)、自らが書いた次第です。ちなみに締め切りまで時間がなかったので1週間ぐらいで書きました。以上の動機に関して要はハルヒがSOS団を結成するようなものと同じです。SOS団だって活動自体は自己満足の稚拙なものでしたが(メンバーの本質的な部分がすごいだけ)、同じように……それより質を落としているかもしれませんが、内容を見ると個人的には不満な点が非常に多いです。どなたかが続いてください。

(追記)
こちらで公開されておりますので、ぜひご覧ください。

世界は幼なじみではない―幼なじみ萌え補遺4:1月28日の朝日新聞(全国版)にて書評が掲載されました。

少し時間が経過してしまいましたが、2018年1月28日の朝日新聞(全国版)にて『幼なじみ萌え』をお取り上げいただきました。評者は学者芸人のサンキュータツオさんです。まことにありがとうございます。皆さん、東京ポッド許可局を聞きましょう。本文は下記でご覧いただくことが可能です。

http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2018012800006.html

https://www.asahi.com/articles/DA3S13334076.html

またコミックナタリーさんでも取り上げていただきました。まことにありがとうございます。

https://natalie.mu/comic/news/258823

以上です。まさしく補遺っぽい更新になりました。

「そんな風に僕ら踊っていられる?」

 なかなかに難しい。と最近、思うことがある。今年の後期に入り、文芸学科ではない別の学科や全学科参加の授業にゲストスピーカーとして参加する機会が数回あった。これは例年にない頻度なので得難い経験ではあるが、その際、終了後に話しかけてくる学生や、twitterでのつぶやきを見る限り、参加した学生の中には私が話をした内容とは正反対の解釈をしている人がいることに気づいたのである(もちろん全員というわけではないので安心していただきたい)。こうなってしまうのは、いくつかの理由があるのであろう。一つには私の話し方がまずい場合である。基本的に早口で説明してしまうために、話題が次の展開、次の展開と進んでしまうと聞き手の脳内では修正処理されないまま授業が終了してしまうことになる。これを直そうと思い、最近はゆっくり話すように心がけているが、生来のスピードはそう簡単にはかえられない。

 これに付随するかもしれないが、内容面においても背景とする考え方などを理解していないと話についていけない場合もある。通常の15回の授業であれば、数回分を使って、説明したりすることはできるのだが、いかんせん1回で終わってしまう特別授業の場合はそうもいかない。すべてを説明していると当然、1回におさめることはできないので、飛ばしてしまう。今回も最後に「皆さん、図書館にある本をたくさん読みましょう」と言ったのは、その点も加味しているのだが、裏返せば1回で過不足なく話をしろということになる。日々、勉強である。

 さてここからは聞き手側の姿勢であるが、話されている内容をいかにしてメモを取るのかというのは、一つのスキルでもある。言っている内容をそのままテープ起こしのように書いていくことは、人間のスキルとしてほぼできない(速記術ぐらいしかない)。したがって語り手のしゃべっている内容を的確に変換し、それをノートに書いていくということになるが、例えば私が「朝食というのは白いご飯を炊いたものに、みそ汁と、ああ、みそ汁の具はですね……」みたいに話し始めた場合、ノートには「朝食は和食派」と端的に書けば良い。しかし、「白飯」に「みそ汁」にと単語だけ列挙していった際、あとから見返して「言いたいこと」を未来の自分が理解できるかどうかは難しいかもしれない。つまりここで「言いたいこと」が単に「和食」であった場合、その中身の詳細な情報は重要でなくなる。そして、私がよくやるのは、話し終わった最後に刹那的に「ま、そうはいっても、そんな食事をしたことがなく、クッキーとかが一番なんですけどね」とひっくり返す手法である。詳細な情報をメモっていた場合、「白飯、みそ汁、クッキー」とだけ列挙されてしまい、後から見返すと意味が分からないことになりうるのだ。

 もっと普通に話せよということなので、やはり私が反省すべき点ではあるが、ノートの取り方というのは千差万別であり、それなりにスキルが必要なものである。壇上から見ていると全くメモらない人もいるので、テストの時どうするのだろうかと心配してしまうが、まあ自分で管理しているのであろう。何より他学科の学生さんだと「その解釈は違う」と指摘する機会はないのである。どれだけ違う内容のことをtwitterでつぶやかれようとも、基本的には干渉しないので、真逆の理解のまま時間が経過していくのである。そしてTwitterでつぶやいてもみられることもないだろうという精神状況と、それに対しわざわざブログで書く意地汚さがここに同時に存在している。というより私の性格の悪さが際立っている。その点も含めて、今年最後の反省点である。皆さん、よいお年を。

BGM:ねごと「DANCER IN THE HANABIRA」

世界は幼なじみではない―幼なじみ萌え補遺3:広く浅くどこまでも

 どこをどう切っても研究書であってはいけない。ということは編集から言われた大前提として存在していた。この点は書き手としては、なかなか難しい問題で、学術論文のような内容を書くことはできない。しかしながら「一般向け」というターゲットもまた簡単なようで、「一般」という概念は結局、何でも当てはまることになる。つまり「広く、浅く」という内容で良いのだろうか。

 生前に文芸学科に来られていた松智洋さんが「自分の作品に対して浅いや薄っぺらいと評されることが多いが、それは逆に深いマニア的な読み手に対して届けようとは思っていないからだ。なので、そのような評価は逆に自分の作品がぶれていないことになる」のようなことを述べていて、感心したことがある。今回の『幼なじみ萌え』は別に松智洋さんに従っていったわけではないが、この本を入口として学問や物事を考えることに繋げるようにと心掛けて書いていった。したがって「薄い」と思った人は、それは正解と言えるし、その感想を抱いたあなたは優秀な人物といえる。

 さて、それでも「一般」って何? という疑念が解消されたわけではない。「一般」というのは誰でも当てはまるといえば当てはまるわけで、逆に当てはまらない人はそれこそ研究者や評論家、もしくは幼なじみマニアの方々ではないだろうか。マニア向けではない、としたときに、編集さんと話していたのは「大学を卒業して数年後に何となく手に取って、忘れていた向学心に火をつける感じで」というものであった。そのために文章中に参考文献をカッコ書きで入れるということもしている(上手くいっているかはわからないが)。したがって本書を読み、足りない点を学術論文として世に出していきたいと思った方は、ぜひ各雑誌に投稿していただきたい。

 テレビではちょうどM-1グランプリが放送しているが、特にこのオチのない文章をつらつらと書き始めてしまった自分自身を反省している。まあ、要は自分自身が一番薄っぺらいということである。

世界は幼なじみではない―幼なじみ萌え補遺2:乙一と物語論

 「もっと作者を前面に押し出してほしい」と編集に言われてしまったのは、だいたい第1章から第5章を書き上げたあたりであった(『幼なじみ萌え』の目次はこちら)。書き始める前に言われていたことは「学術論文のようには書かない」、「一般向けに書くこと」の2点ぐらいであったので、淡々と「幼なじみ」に関するフィクションを歴史的にざっと追っていったことになる。そこまでは否応もなく、事実を並べていくので、平易に書こうが何をしようがある程度は単調になる。しかし、そこを通過したら、その手法は通用しないということを、やんわりと伝えられたのである。

 さて困った。皆さんが頷くかどうかは置いておいて、論文は慣れているので特に書くことでは困らない。論文の内容や文体を崩していくことも一連の流れの中でできる作業であろう。しかし書き手自身が、その文章におけるテーマよりも前面に出てくることは、実は未経験である。より具体的に言えばblogを書いていた学生時代には、それが出来ていたのかもしれないが、現状、自分の名前で発表している文章はそのようなことを想定していないものばかりである。困った。

 そこで思い出したのは、作家の乙一が自分自身の創作理論を書いた文章である。日本推理作家協会編『ミステリーの書き方』(幻冬舎)に掲載されているものなのだが、そこでは極めてシンプルであるがゆえに高度な話が書かれている。シド・フィールドを中心としたハリウッドの脚本術がベースになっているため、まずはそちらを理解したほうがいいのかもしれない(ちなみにシド・フィールドの『映画を書く~』は2のほうがまとまっている気がする)。ハリウッドのほうは俗に三幕構成と呼ばれている理論であり、乙一はそれを発展させて真ん中の第二幕を二つに割っている。脚本術では第二幕が間延びしないように真ん中にミッドポイントを設定し、作者がそれを意識して、そこに至るまでとそこから第二のプロットポイントまでを書いていくのだが、ミッドポイントは単なる指標として考えられている。乙一の場合、物語を4つに分ける。となると間に3つの物語の転換する場所(乙一は変曲点としている)が存在することになる。したがって、物語のスタートとゴールを決めたら、変曲点でぐるぐると曲げていくとよい。ということになる。ミッドポイントも曲げてしまうのだ。

 いや、できないよ。これができたら苦労しないよ。変曲点で物語を動かしていくことを簡単にできるように書いているが、実際取り組んでみると難しい。物語の一本の紐に例えると最初は真っすぐだったものを変曲点と決めたところで、ぐにゃっと曲げるわけだ。結果として三回も曲がったジェットコースターが出来上がる……。のだが、多くは曲げすぎて紐が切れたりする。もしくは曲げの角度が小さくて、ジェットコースターに乗っているお客さんが物足りない感じになってしまう。2017年度後期のゼミでも乙一の小説を読んで検討したのだが(読んだのは別ペンネーム中田永一の作品)、「シンプルでわかりやすいが、やはり難しい」という結論になってしまった。

 この話と『幼なじみ萌え』と何が関係するのかというと、乙一は文章の中でこの理論はエッセイなど小説以外でも使えると書いていたのだ。なるほど、使えるかもしれない。そこで恐る恐る第6章以降、諸々考えながら書いていったのだ。もちろん右から左に乙一に従ったのではなく、文章量や内容を考えて変曲点(自分の頭の中では転換点と呼称していた)の数を変えたりしていたし、あとは経験値からくる勘(というか癖)もそのまま出した。もう一つのポイントとしては論文の場合、最初に取り組むであろうテーマ設定はそのままなのだが、書き出しを大幅に変更した。通常の論文の書き出しは、研究の学術的・社会的意義や先行研究の検討になるのだが、それは辞めにしたのである。「学術論文ではない」と言われていたので、そのフォーマットに従う必然性が元々なかったというのもある。あと転換点を生み出すには、別にスタートが当初の想定通りである必要性はない。曲げられないなら、曲がるようにスタートの位置を変えればいいのではないか。というわけで、この『幼なじみ萌え』の第6章以降は、そのような感じで書いていった。上手くいっているかどうかは実際に読んで欲しい。

 さて賢明なる人なら気付いたであろう。作者自身を文章の中で感じられるようになるかどうかは、これとはまた別の話なのである。

世界は幼なじみではない―幼なじみ萌え補遺1:対極に位置する『アシガール』―

 一時期から時代劇はもうオワコン(終わったコンテンツのこと)であると耳にするようになった。確かに水戸黄門や暴れん坊将軍、大岡越前は地上波から姿を消し、今の学生が時代劇に接する機会は大河ドラマに集約されてしまったような気がする。しかし、それほど簡単に消え去っているようには思えない。BSまで含めれば、時代劇は今もまだ現役で存在するし、映画や漫画、小説では多くの作品が世に送り出されている。まあ、こう見えて歴史好きではあるので、時代劇となったら右から左に見てしまうのだが、一つ一つを精査していくと時代劇という範疇でありながらもそのターゲット層は大きく違っているように思える。最近だと『赤ひげ』は叙情的であろうとしているのか、届けようと考えている年齢層は少しだけ高く、それに対し幅広いレンジで考えていたのが『みをつくし料理帖』ではないだろうか。さらに若い人でも視聴可能であったのが『鼠、江戸を疾る』なのかもしれない。二期で小袖ちゃんのキャストが変わったのは悲しかったが、少女が小太刀で可憐な立ち回りをすることが非常にツボだったので、心の中でガッツポーズをしていた。

 何が言いたいのかというと最近、『アシガール』が楽しみで仕方ないのだ。ドラマを見た瞬間に「これは面白い」となり原作を買いそろえるまでに至ったのはいいが(原作は森本梢子による漫画作品)、「ここで原作マンガを読んでしまうと話の続きがわかってしまう!」と思い、まだ積読状態である。そしてなぜか全8話だと勝手に勘違いしており、先週の放送が終わったら一気読みするつもりだった。しかし、まさかの次回予告の放送が行われてしまった。全12話だそう。いや、まさかでも何でもなく自分が悪いだけなのだが。そして毎週、ドラマを見ながら何を考えているのかというと、物語の次の展開を考えている。提示されたキャラクターと物語展開から、次はどう動いていくのかを考えていくだけで非常に楽しい。

 この楽しさは極めて限定的なものともいえよう。この物語の普遍的な楽しさはどこにあるのか。『アシガール』という作品は、やる気のない女子高生である主人公が、ある時、天才でありながらも引きこもりの弟が発明したタイムマシンにより戦国時代にタイムスリップしてしまったところから物語が始まる。そこで出会った領主の息子(超絶イケメンの若殿)に一目ぼれして、彼女は足軽となり、若の側で仕えようと画策していく。タイムマシン(小太刀型)を使うことで、制限は生じるのだが現代と戦国時代を主人公は行き来することはできる。そうか、往年のNHKで描かれてきたジュブナイル作品っぽいから受け入れられているのだ。個人的に青春アドベンチャーで味わってきた、ここではないどこかにふわっと浮遊できる感触がこの作品にもある。タイムトラベルは面白いなあ。と納得していた。

 しかし数話を視聴していると、それは違うのではないかという疑念が頭をもたげてきた。もちろん要素としては存在しているであろうが、タイムトラベルはガジェット的なものでしかない。小太刀を抜いて、次第に体が消えていき、気付いたら現代の倉庫の部屋(というのか?)にいた、となっても別にときめかない。この作品の一番の良さは、そのような目につくものではなく主人公のキャラクターではないだろうかと最近、考えを改めている。なぜなら物語の構図はそれほど奇抜なものではない(少なくとも今のところは)。主人公が目的に向けて、一直線に体当たりしていくことに対し、何かしらの障害が設定され、それを苦難とともに乗り越えていく。って普通だ。書いてしまうと普通だ。でも面白い。この主人公の真っすぐさが、まさにジュブナイルなのだ。まぶしいぐらい、てらいなく一目ぼれした若に向かっていくという姿勢は、10代の特権なのかもしれない。そして時に男性に扮し(というより唯之助のシーンのほうが多いかもしれない)、「あーもうなんで」と言いながら、取り組んでいく主人公を好演している黒島結菜の力かもしれない。どこか既視感のある女優さんだったが、時かけの人であることに最近気づいた。

 主人公の唯の一目ぼれに対する姿勢は、清々しい。生まれてから得てきた地縁的関係、学校制度に組み込まれて作り上げていった人間関係どころか血縁関係すらも、逡巡することなく捨て去ろうとしている。何が言いたいのか、お分かりだろうか。彼女の一目ぼれは「幼なじみ」を瞬殺してしまうのである。「幼なじみ」は本人の意思とは関係なく、生まれたときや少なくとも社会的な生活を送る前段階に形成された地縁関係に依拠することが多い。『アシガール』の主人公の唯はそれを一刀両断して、戦国時代に躊躇なくタイムトラベルしているのだ。彼女は本人の意図することなく「生まれてきて住んでいるから」という理由で築き上げられてきた関係性を、自分自身の意志で捨て去ろうとしている。彼女の強固な意志の前には、「幼なじみ」など霧散してしまう。って全く『幼なじみ萌え』の販促になっていない文章を書いてしまったが、タイムトラベルをするだけのエネルギーがなくなってしまい、戦国時代に戻れない状況をいかにして打開していくのか。今週末の9話が楽しみである。

『幼なじみ萌え』の目次はこちら