玉井建也「せいので飛び出せるのか――岡田麿里作品における共同体」が出ました。

 玉井建也「せいので飛び出せるのか――岡田麿里作品における共同体」(『ユリイカ2018年3月臨時増刊号 総特集=岡田麿里』所収)が出ました。初の監督作品である映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』が公開中の岡田麿里さんの特集号です。私の論考以外にも多くの評論および関係者インタビューが掲載されており、読み応えのある特集号になっています。何より岡田作品が多様なため、取り上げられている作品群を追いかけだけで「ほかの皆さんはこんなところに目をつけるとは!」と感心しています。

 今回の文章は年末年始の一番多忙な時期に書いていたため、自分の能力のなさにほとほと嫌気がさしたことを覚えています。文芸学科の年末年始は休みにはならず、学生の皆さんが取り組んだ卒業制作を一つ一つ読んでいく時間として存在しています。「もう年末だから」という雰囲気とは隔絶した流れの中に身を置くことになります。というより身を置いていたつもりが、いつの間にかに流されるのが世の常。その中で、インプット・アウトプットを行っていくことの難しさを痛感しました。以前もこのブログで書きましたが、基本的に何かものを書くときには大まかなアウトラインどころか、どうやって話の流れの上げ・下げを行うのかを考えたうえで、いつも執筆しているのですが、今回は時間不足で見切り発車のまま書き出しました。出来不出来とは全く別の問題として、自らの管理不足に対する大きな不満です。とはいえ、いつも通りではないか、と言われれば、そうなのですが。

 私が取り上げた作品は『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』、『花咲くいろは HOME SWEET HOME』、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』です。今回の文章の裏テーマとして、なぜ自分はこれらの作品が好きなのであろうかと自問自答することから始めました。見たことのある方なら分かると思いますが、表出してくるテーマは全く違う作品のはずが、その差異が気にならないほどのめり込んでしまうのは、なぜか。そこを出発点としながら、普遍化を行っていきました。もう一つの裏テーマは「幼なじみ」という言葉を使わずに「幼なじみ」について考える、でした。上手くできたでしょうか。

玉井建也「物語・ゲーム・ライトノベル―ウェブ小説と物語論の関係―」が出ました。

 玉井建也「物語・ゲーム・ライトノベル―ウェブ小説と物語論の関係―」(『東北芸術工科大学紀要』25号、2018年3月)が出ました。大学の発行物になりますので、本学の教員および大学院生の皆さんが執筆しています。私の論文を詳説するのは省き、参考文献に挙げたものを淡々と挙げていきますので、推測してください。ただしこのブログで掲載するのは書籍のみで、学術論文は挙げていません。

 ちなみにこの論文を書く契機としては、2年か3年ぐらい前に「誰かネット小説に関して論文を書いてはいないのか」と思ったことが発端です。何となくそれが頭の片隅にはあったのですが、『幼なじみ萌え』に注力していたので放置していました。そして書き終わったタイミングでも、自分が楽しめる論文が出ていない気がしたので(出ていたらごめんなさい!)、自らが書いた次第です。ちなみに締め切りまで時間がなかったので1週間ぐらいで書きました。以上の動機に関して要はハルヒがSOS団を結成するようなものと同じです。SOS団だって活動自体は自己満足の稚拙なものでしたが(メンバーの本質的な部分がすごいだけ)、同じように……それより質を落としているかもしれませんが、内容を見ると個人的には不満な点が非常に多いです。どなたかが続いてください。

(追記)
こちらで公開されておりますので、ぜひご覧ください。

世界は幼なじみではない―幼なじみ萌え補遺4:1月28日の朝日新聞(全国版)にて書評が掲載されました。

少し時間が経過してしまいましたが、2018年1月28日の朝日新聞(全国版)にて『幼なじみ萌え』をお取り上げいただきました。評者は学者芸人のサンキュータツオさんです。まことにありがとうございます。皆さん、東京ポッド許可局を聞きましょう。本文は下記でご覧いただくことが可能です。

http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2018012800006.html

https://www.asahi.com/articles/DA3S13334076.html

またコミックナタリーさんでも取り上げていただきました。まことにありがとうございます。

https://natalie.mu/comic/news/258823

以上です。まさしく補遺っぽい更新になりました。

「そんな風に僕ら踊っていられる?」

 なかなかに難しい。と最近、思うことがある。今年の後期に入り、文芸学科ではない別の学科や全学科参加の授業にゲストスピーカーとして参加する機会が数回あった。これは例年にない頻度なので得難い経験ではあるが、その際、終了後に話しかけてくる学生や、twitterでのつぶやきを見る限り、参加した学生の中には私が話をした内容とは正反対の解釈をしている人がいることに気づいたのである(もちろん全員というわけではないので安心していただきたい)。こうなってしまうのは、いくつかの理由があるのであろう。一つには私の話し方がまずい場合である。基本的に早口で説明してしまうために、話題が次の展開、次の展開と進んでしまうと聞き手の脳内では修正処理されないまま授業が終了してしまうことになる。これを直そうと思い、最近はゆっくり話すように心がけているが、生来のスピードはそう簡単にはかえられない。

 これに付随するかもしれないが、内容面においても背景とする考え方などを理解していないと話についていけない場合もある。通常の15回の授業であれば、数回分を使って、説明したりすることはできるのだが、いかんせん1回で終わってしまう特別授業の場合はそうもいかない。すべてを説明していると当然、1回におさめることはできないので、飛ばしてしまう。今回も最後に「皆さん、図書館にある本をたくさん読みましょう」と言ったのは、その点も加味しているのだが、裏返せば1回で過不足なく話をしろということになる。日々、勉強である。

 さてここからは聞き手側の姿勢であるが、話されている内容をいかにしてメモを取るのかというのは、一つのスキルでもある。言っている内容をそのままテープ起こしのように書いていくことは、人間のスキルとしてほぼできない(速記術ぐらいしかない)。したがって語り手のしゃべっている内容を的確に変換し、それをノートに書いていくということになるが、例えば私が「朝食というのは白いご飯を炊いたものに、みそ汁と、ああ、みそ汁の具はですね……」みたいに話し始めた場合、ノートには「朝食は和食派」と端的に書けば良い。しかし、「白飯」に「みそ汁」にと単語だけ列挙していった際、あとから見返して「言いたいこと」を未来の自分が理解できるかどうかは難しいかもしれない。つまりここで「言いたいこと」が単に「和食」であった場合、その中身の詳細な情報は重要でなくなる。そして、私がよくやるのは、話し終わった最後に刹那的に「ま、そうはいっても、そんな食事をしたことがなく、クッキーとかが一番なんですけどね」とひっくり返す手法である。詳細な情報をメモっていた場合、「白飯、みそ汁、クッキー」とだけ列挙されてしまい、後から見返すと意味が分からないことになりうるのだ。

 もっと普通に話せよということなので、やはり私が反省すべき点ではあるが、ノートの取り方というのは千差万別であり、それなりにスキルが必要なものである。壇上から見ていると全くメモらない人もいるので、テストの時どうするのだろうかと心配してしまうが、まあ自分で管理しているのであろう。何より他学科の学生さんだと「その解釈は違う」と指摘する機会はないのである。どれだけ違う内容のことをtwitterでつぶやかれようとも、基本的には干渉しないので、真逆の理解のまま時間が経過していくのである。そしてTwitterでつぶやいてもみられることもないだろうという精神状況と、それに対しわざわざブログで書く意地汚さがここに同時に存在している。というより私の性格の悪さが際立っている。その点も含めて、今年最後の反省点である。皆さん、よいお年を。

BGM:ねごと「DANCER IN THE HANABIRA」

世界は幼なじみではない―幼なじみ萌え補遺3:広く浅くどこまでも

 どこをどう切っても研究書であってはいけない。ということは編集から言われた大前提として存在していた。この点は書き手としては、なかなか難しい問題で、学術論文のような内容を書くことはできない。しかしながら「一般向け」というターゲットもまた簡単なようで、「一般」という概念は結局、何でも当てはまることになる。つまり「広く、浅く」という内容で良いのだろうか。

 生前に文芸学科に来られていた松智洋さんが「自分の作品に対して浅いや薄っぺらいと評されることが多いが、それは逆に深いマニア的な読み手に対して届けようとは思っていないからだ。なので、そのような評価は逆に自分の作品がぶれていないことになる」のようなことを述べていて、感心したことがある。今回の『幼なじみ萌え』は別に松智洋さんに従っていったわけではないが、この本を入口として学問や物事を考えることに繋げるようにと心掛けて書いていった。したがって「薄い」と思った人は、それは正解と言えるし、その感想を抱いたあなたは優秀な人物といえる。

 さて、それでも「一般」って何? という疑念が解消されたわけではない。「一般」というのは誰でも当てはまるといえば当てはまるわけで、逆に当てはまらない人はそれこそ研究者や評論家、もしくは幼なじみマニアの方々ではないだろうか。マニア向けではない、としたときに、編集さんと話していたのは「大学を卒業して数年後に何となく手に取って、忘れていた向学心に火をつける感じで」というものであった。そのために文章中に参考文献をカッコ書きで入れるということもしている(上手くいっているかはわからないが)。したがって本書を読み、足りない点を学術論文として世に出していきたいと思った方は、ぜひ各雑誌に投稿していただきたい。

 テレビではちょうどM-1グランプリが放送しているが、特にこのオチのない文章をつらつらと書き始めてしまった自分自身を反省している。まあ、要は自分自身が一番薄っぺらいということである。

世界は幼なじみではない―幼なじみ萌え補遺2:乙一と物語論

 「もっと作者を前面に押し出してほしい」と編集に言われてしまったのは、だいたい第1章から第5章を書き上げたあたりであった(『幼なじみ萌え』の目次はこちら)。書き始める前に言われていたことは「学術論文のようには書かない」、「一般向けに書くこと」の2点ぐらいであったので、淡々と「幼なじみ」に関するフィクションを歴史的にざっと追っていったことになる。そこまでは否応もなく、事実を並べていくので、平易に書こうが何をしようがある程度は単調になる。しかし、そこを通過したら、その手法は通用しないということを、やんわりと伝えられたのである。

 さて困った。皆さんが頷くかどうかは置いておいて、論文は慣れているので特に書くことでは困らない。論文の内容や文体を崩していくことも一連の流れの中でできる作業であろう。しかし書き手自身が、その文章におけるテーマよりも前面に出てくることは、実は未経験である。より具体的に言えばblogを書いていた学生時代には、それが出来ていたのかもしれないが、現状、自分の名前で発表している文章はそのようなことを想定していないものばかりである。困った。

 そこで思い出したのは、作家の乙一が自分自身の創作理論を書いた文章である。日本推理作家協会編『ミステリーの書き方』(幻冬舎)に掲載されているものなのだが、そこでは極めてシンプルであるがゆえに高度な話が書かれている。シド・フィールドを中心としたハリウッドの脚本術がベースになっているため、まずはそちらを理解したほうがいいのかもしれない(ちなみにシド・フィールドの『映画を書く~』は2のほうがまとまっている気がする)。ハリウッドのほうは俗に三幕構成と呼ばれている理論であり、乙一はそれを発展させて真ん中の第二幕を二つに割っている。脚本術では第二幕が間延びしないように真ん中にミッドポイントを設定し、作者がそれを意識して、そこに至るまでとそこから第二のプロットポイントまでを書いていくのだが、ミッドポイントは単なる指標として考えられている。乙一の場合、物語を4つに分ける。となると間に3つの物語の転換する場所(乙一は変曲点としている)が存在することになる。したがって、物語のスタートとゴールを決めたら、変曲点でぐるぐると曲げていくとよい。ということになる。ミッドポイントも曲げてしまうのだ。

 いや、できないよ。これができたら苦労しないよ。変曲点で物語を動かしていくことを簡単にできるように書いているが、実際取り組んでみると難しい。物語の一本の紐に例えると最初は真っすぐだったものを変曲点と決めたところで、ぐにゃっと曲げるわけだ。結果として三回も曲がったジェットコースターが出来上がる……。のだが、多くは曲げすぎて紐が切れたりする。もしくは曲げの角度が小さくて、ジェットコースターに乗っているお客さんが物足りない感じになってしまう。2017年度後期のゼミでも乙一の小説を読んで検討したのだが(読んだのは別ペンネーム中田永一の作品)、「シンプルでわかりやすいが、やはり難しい」という結論になってしまった。

 この話と『幼なじみ萌え』と何が関係するのかというと、乙一は文章の中でこの理論はエッセイなど小説以外でも使えると書いていたのだ。なるほど、使えるかもしれない。そこで恐る恐る第6章以降、諸々考えながら書いていったのだ。もちろん右から左に乙一に従ったのではなく、文章量や内容を考えて変曲点(自分の頭の中では転換点と呼称していた)の数を変えたりしていたし、あとは経験値からくる勘(というか癖)もそのまま出した。もう一つのポイントとしては論文の場合、最初に取り組むであろうテーマ設定はそのままなのだが、書き出しを大幅に変更した。通常の論文の書き出しは、研究の学術的・社会的意義や先行研究の検討になるのだが、それは辞めにしたのである。「学術論文ではない」と言われていたので、そのフォーマットに従う必然性が元々なかったというのもある。あと転換点を生み出すには、別にスタートが当初の想定通りである必要性はない。曲げられないなら、曲がるようにスタートの位置を変えればいいのではないか。というわけで、この『幼なじみ萌え』の第6章以降は、そのような感じで書いていった。上手くいっているかどうかは実際に読んで欲しい。

 さて賢明なる人なら気付いたであろう。作者自身を文章の中で感じられるようになるかどうかは、これとはまた別の話なのである。

世界は幼なじみではない―幼なじみ萌え補遺1:対極に位置する『アシガール』―

 一時期から時代劇はもうオワコン(終わったコンテンツのこと)であると耳にするようになった。確かに水戸黄門や暴れん坊将軍、大岡越前は地上波から姿を消し、今の学生が時代劇に接する機会は大河ドラマに集約されてしまったような気がする。しかし、それほど簡単に消え去っているようには思えない。BSまで含めれば、時代劇は今もまだ現役で存在するし、映画や漫画、小説では多くの作品が世に送り出されている。まあ、こう見えて歴史好きではあるので、時代劇となったら右から左に見てしまうのだが、一つ一つを精査していくと時代劇という範疇でありながらもそのターゲット層は大きく違っているように思える。最近だと『赤ひげ』は叙情的であろうとしているのか、届けようと考えている年齢層は少しだけ高く、それに対し幅広いレンジで考えていたのが『みをつくし料理帖』ではないだろうか。さらに若い人でも視聴可能であったのが『鼠、江戸を疾る』なのかもしれない。二期で小袖ちゃんのキャストが変わったのは悲しかったが、少女が小太刀で可憐な立ち回りをすることが非常にツボだったので、心の中でガッツポーズをしていた。

 何が言いたいのかというと最近、『アシガール』が楽しみで仕方ないのだ。ドラマを見た瞬間に「これは面白い」となり原作を買いそろえるまでに至ったのはいいが(原作は森本梢子による漫画作品)、「ここで原作マンガを読んでしまうと話の続きがわかってしまう!」と思い、まだ積読状態である。そしてなぜか全8話だと勝手に勘違いしており、先週の放送が終わったら一気読みするつもりだった。しかし、まさかの次回予告の放送が行われてしまった。全12話だそう。いや、まさかでも何でもなく自分が悪いだけなのだが。そして毎週、ドラマを見ながら何を考えているのかというと、物語の次の展開を考えている。提示されたキャラクターと物語展開から、次はどう動いていくのかを考えていくだけで非常に楽しい。

 この楽しさは極めて限定的なものともいえよう。この物語の普遍的な楽しさはどこにあるのか。『アシガール』という作品は、やる気のない女子高生である主人公が、ある時、天才でありながらも引きこもりの弟が発明したタイムマシンにより戦国時代にタイムスリップしてしまったところから物語が始まる。そこで出会った領主の息子(超絶イケメンの若殿)に一目ぼれして、彼女は足軽となり、若の側で仕えようと画策していく。タイムマシン(小太刀型)を使うことで、制限は生じるのだが現代と戦国時代を主人公は行き来することはできる。そうか、往年のNHKで描かれてきたジュブナイル作品っぽいから受け入れられているのだ。個人的に青春アドベンチャーで味わってきた、ここではないどこかにふわっと浮遊できる感触がこの作品にもある。タイムトラベルは面白いなあ。と納得していた。

 しかし数話を視聴していると、それは違うのではないかという疑念が頭をもたげてきた。もちろん要素としては存在しているであろうが、タイムトラベルはガジェット的なものでしかない。小太刀を抜いて、次第に体が消えていき、気付いたら現代の倉庫の部屋(というのか?)にいた、となっても別にときめかない。この作品の一番の良さは、そのような目につくものではなく主人公のキャラクターではないだろうかと最近、考えを改めている。なぜなら物語の構図はそれほど奇抜なものではない(少なくとも今のところは)。主人公が目的に向けて、一直線に体当たりしていくことに対し、何かしらの障害が設定され、それを苦難とともに乗り越えていく。って普通だ。書いてしまうと普通だ。でも面白い。この主人公の真っすぐさが、まさにジュブナイルなのだ。まぶしいぐらい、てらいなく一目ぼれした若に向かっていくという姿勢は、10代の特権なのかもしれない。そして時に男性に扮し(というより唯之助のシーンのほうが多いかもしれない)、「あーもうなんで」と言いながら、取り組んでいく主人公を好演している黒島結菜の力かもしれない。どこか既視感のある女優さんだったが、時かけの人であることに最近気づいた。

 主人公の唯の一目ぼれに対する姿勢は、清々しい。生まれてから得てきた地縁的関係、学校制度に組み込まれて作り上げていった人間関係どころか血縁関係すらも、逡巡することなく捨て去ろうとしている。何が言いたいのか、お分かりだろうか。彼女の一目ぼれは「幼なじみ」を瞬殺してしまうのである。「幼なじみ」は本人の意思とは関係なく、生まれたときや少なくとも社会的な生活を送る前段階に形成された地縁関係に依拠することが多い。『アシガール』の主人公の唯はそれを一刀両断して、戦国時代に躊躇なくタイムトラベルしているのだ。彼女は本人の意図することなく「生まれてきて住んでいるから」という理由で築き上げられてきた関係性を、自分自身の意志で捨て去ろうとしている。彼女の強固な意志の前には、「幼なじみ」など霧散してしまう。って全く『幼なじみ萌え』の販促になっていない文章を書いてしまったが、タイムトラベルをするだけのエネルギーがなくなってしまい、戦国時代に戻れない状況をいかにして打開していくのか。今週末の9話が楽しみである。

『幼なじみ萌え』の目次はこちら

玉井建也『幼なじみ萌え』(藝術学舎)が発売になります。

2017年11月29日に『幼なじみ萌え』が発売になります。書店やネットなどでお見掛けした場合、手に取っていただければ幸いです。なお、表紙イラストは『恋は雨上がりのように』でおなじみの眉月じゅんさんです。大変素晴らしい表紙です。

補遺はこちら(補遺1補遺2補遺3補遺4補遺5

玉井建也『幼なじみ萌え ラブコメ恋愛文化史』
四六判、並製本、232頁
発行 京都造形芸術大学 東北芸術工科大学 出版局 藝術学舎
発売 株式会社 幻冬舎
定価 本体1300円+税

可愛いのになぜ勝てない!? 恋愛小説の歴史を追いながらラブコメにおける幼なじみの位置づけを分析、日本の文化史・恋愛史を読み解く。

【あらすじ】
隣家に住む幼なじみの同級生が朝起こしにくるシチュエーションは、果たして理想なのか。またどれほどの確率で主人公と結ばれるのだろうか。本書では幼なじみを切り口として前近代から分析することで、日本の文化史・恋愛史を解き明かしていく

【目次】
序章 幼なじみのことなんかぜんぜん好きじゃないんだからねっ!!
   ―またはこれは言ってみりゃ「単なる序章」
第一章 起源論オーバーラン!
    ―またはこれは言ってみりゃ「前近代から近代までの幼なじみの話」
第二章 ラブコメの弾丸は撃ちぬけない
    ―またはこれは言ってみりゃ「近代以降に描かれた幼なじみの話」
第三章 物語にラブコメを求めるのは間違っているだろうか
    ―またはこれは言ってみりゃ「漫画に描かれる幼なじみの話」
第四章 ククク、私の幼なじみを見抜くとは、アナタも「瞳」の持ち主のようね(訳:この章では幼なじみがゲームにおいて選択肢化されていく過程を考えます)。
第五章 幼なじみのいうことを聞きなさい!
    ―またはこれは言ってみりゃ「ライトノベルとゲームと松智洋の話」
第六章 幼なじみとは違う一日
    ―またはこれは言ってみりゃ「上京をめぐる物語」
第七章 幼なじみ一〇〇人できるかな その一
    ―またはこれは言ってみりゃ「教室内における空気の話」
第八章 幼なじみ一〇〇人できるかな その二
    ―または言ってみりゃ「教室社会と幼なじみの話」
第九章 この素晴らしい幼なじみに祝福を!
    ―またはこれは言ってみりゃ「地元と幼なじみの話」
第十章 スクールが虹でいっぱい その一
    ―またはこれは言ってみりゃ「教室内の共同体とライトノベルの話」
第十一章 スクールが虹でいっぱい その二
    ―またはこれは言ってみりゃ「教室内の呪縛と物語の話」
第十二章 幼なじみの名は。
    ―またはこれは言ってみりゃ「聖地巡礼の話」
第十三章 転生したら幼なじみだった件
    ―またはこれは言ってみりゃ「異世界ものと他者理解について」
第十四章 ストップ!! 幼なじみくん!
    ―またはこれは言ってみりゃ「男装・女装・性転換の物語」
第十五章 我が家の幼なじみさま。
    ―またはこれは言ってみりゃ「擬人化・境界・団地」
第十六章 「ただの幼なじみには興味ありません」
     ―またはこれは言ってみりゃ「空間の超越と幼なじみ」

 

再び文芸部大会で講義をしました

本日、福島県高等学校文化連盟文芸専門部大会に専任講師の野上が参加し、特別講義を行いました。

講義では「文芸誌を「編集」する」というテーマで、本の編集とはどういうことか、原稿をどのようにブラッシュアップするかなどについて、編集者の視点から語りました。

校正・校閲のワークショップも行い、高校生の皆さんには刺激になったことと思います。

写真を撮る余裕がなかったため、帰り道で食べた喜多方ラーメンをアップします。

文芸学科では高校でのイベントなどに講師を派遣いたします。

ご希望の高校教員・関係者の皆さまは「お問い合わせ」よりご連絡ください。

 

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文芸部大会で講師をしました

去る10月19日(木)〜20日(金)、山形市の山形テルサにて、第19回高等学校文化連盟全国文芸専門部北海道・東北文芸大会山形大会が行われました。
高校の文芸部が一同に集まるこの大会に、文芸学科から山川健一教授・石川忠司教授・野上勇人専任講師の3人が参加し、講義を行いました。

散文分科会で小説プロットの講評をした山川健一教授・石川忠司教授
散文分科会で小説プロットの講評をした山川健一教授・石川忠司教授
高校生の俳句を読む石川忠司教授
高校生の俳句を読む石川忠司教授と野上勇人講師
文芸部誌分科会で「文芸誌のつくり方」を講義する野上勇人講師
文芸部誌分科会で「文芸誌のつくり方」を講義する野上勇人講師

北海道・東北の多くの高校生に向けて、文芸学科での授業同様の講評・講義を行いました。高校生の皆さんの真剣な眼差しが印象的でした。

文芸学科では、こうした文芸部会や高校での出張講義を積極的に行なっています。

ご興味のある高校の先生方はぜひお問い合わせください。