「こごえる季節に鮮やかに咲くよ」

 年が明けてから通常授業、入試、採点、授業の課題評価(講評書き)、卒展イベント(複数)、高校生の課題への講評書きに取り組んでいると、気づいたら2月もかなりの時間が経過している。そして避暑ならぬ避寒のために山形から東京に移動し春休みを過ごしているのもまた、ここ数年の恒例となっている。毎年のことながら、春休みだからといって楽になるわけではなく、4月以降の授業準備に取り組んでいるし、自分自身の研究もしなければならない。残り日数を数えると、とにかく時間が足りない。

 なかなか避寒という概念を他人には理解してもらえず、多くの人に「そんなに寒いわけないじゃん」と言われてしまう。この「そんなに寒いわけない」というのは、北国の人からは「山形市は大して雪は積もらないし、それほど寒くはない」の意味を持っているし、南のほうの人からは「雪国とかに住んだことないけど、数年に1回ぐらい雪の降る感じから想定すると楽勝でしょ」という意味合いになってくる。そうではない。違うんだ。というのは心の叫びとして飲み込んで、「いやー、そうですか」と返答している。

 とはいえ、いろいろ片づけた上で春休みをむかえているので、気分はかなり楽になっている。授業準備のための読書は、何で自分はこれほどまでに本を読んでこなかったのだろうか、この程度の読書スピードしかないのか。という心の戦いではあるが、でも、あっという間に手に取ったことのない小説や論文に知的好奇心を刺激され続けることになる。授業準備としての読書と趣味としての読書と研究としての読書をしていると、一日が短すぎるのである。

 趣味の読書として、いまさらながら丸山くがね『オーバーロード』(エンターブレイン)を読んでいる。概ね一日一冊ずつ読んでおり、先ほど13巻に入ったので最新刊に追いついてしまった。ああ、次は何を読もうか。この作品自体は発売当初に1巻を読んでいたのだが、そのまま放置し忘れていた。しかし昨年の後期、ゼミのゲストとしてお招きした漫画家の今井哲也さんが、学生たちへの推薦作品として漫画版(作画は深山フギン)を挙げられたことが再読の契機である。もちろん、挙げられたのはこの一作品だけではなく複数あったのだが、取り上げた理由として物語の構造を指摘されていたのが印象深い。そこで小説をきちんと読もうと思った次第である。

 既読の人にとっては当然かもしれないが、この『オーバーロード』シリーズは巻によっては主人公さえも入れ替えて物語を進めている。簡単に言ってしまえば、それだけなのだが、物語の大枠を崩さないままに違う主人公を描き続けることは、非常に難しい。メインコンテクストとサブコンテクストという中長編レベルの問題だけではなく、長編から大河小説的な構造の中でも同じ構造をさらにもう一段階、示していることになる。本来の主人公を主人公としつつ、巻によっては傍観者にまで押し込むのだが、それでも数巻にわたる大枠の中からは外れないのは見事であろう。多くのウェブ小説が、構造をこのような入れ子にせずに、連続化していくことに比すれば、描く際の難しさは理解できると思う。

 もちろんそれ以外の様々な点も読みながら、「なるほどー」と感心しているのだが、まあ、それは置いておこう。結局、趣味と言いながら、授業でどう活かすかにたどり着いてしまう。久しぶりのブログ更新なので、リハビリのようになってしまった。

BGM:宮本浩次「冬の花」

玉井建也「歴史コンテンツとメディアとしての小説」が出ます。

 今年度は例年よりなぜだか忙しくて、よくわからないことが多発し、自分自身の脳みその限界を感じながら生きていた。そのわからないことの代表的なものが「この文章を書いたっけ?」である。そう、この論文のことは結構、忘れている。けど、書いたことは書いたし、書いたこと自体は覚えている。

 一応、この論文は以下の論文の流れの中で書いているつもりではある。

 歴史とフィクションの問題を、あーでもない、こーでもない、と外周を回りながら、近づいたり、遠ざかったりしている気がする。なかなかもどかしい。ここ数本の論文では、ネット小説を取り上げており、この点は今回も同様ではあるが、次はまったく違うアプローチをしよう。そう思いながら、春休みをむかえたはずなのに、ずっと課題を読み、講評書きを行っている現実である。

 最後にこの論文で取り上げた作品を以下に列挙する(学術書・研究論文は今回はカット)。

歴史遺産学科とのコラボ冊子完成

後期に歴史遺産学科の北野先生ゼミと文芸学科野上ゼミがコラボレーションして制作した、楢下宿を紹介・解説する冊子「楢下宿 ノスタルジックな宿場町」が完成しました。

楢下宿は山形県上山市内の、江戸時代の町並みが残る歴史的価値の高い地域です。この地域の調査をしてきた北野先生のゼミの成果を、多くの人に伝えられるような冊子にまとめる、その編集制作のところを野上ゼミの学生が担当しました。

学生たちも何度も楢下宿に通い、取材や撮影をして、モデルまで自分たちでやって、趣のある冊子に仕上げたと思います。

デザインは『文芸ラジオ』でもお世話になっているCOAさんに依頼しました。単なる観光パンフレットではないので雰囲気づくりが難しかったと思いますが、さすがの仕上がりです。「歴史の古さもありつつ今っぽい感じですかね」と、わけのわからないオーダーをしたんです。見事に実現してくれました。

こうした実践的な演習は、学生たちも大変ですが、本当に力がつきます。今後も積極的にこういう制作物に取り組んでいきたいですね。

教員も大変だけど。

「入試、スクーリング、入試、入試、スクーリング」

 個人的な体感速度では、ようやく12月に入ったぐらいなのだが、もう年末である。先ほどまでTBSラジオでやっている「爆笑問題の日曜サンデー」で年末恒例の好プレー・珍プレー大賞が開催されており、それを聞きながら「もうそのような時期か」とハッとしてしまった。内的時間と外的時間のズレを少しずつ修正していかなければならない。文芸学科の行事としても、9月のAO入試、10月のスクーリング、そして数多くのゲスト講師(5名? 6名?)、11月の入試、12月の入試と卒業制作提出、2回目のスクーリングと思いつくものだけでも多いのに、見えない部分での作業量が膨大化している。と愚痴を書いても仕方ない。

 以前ここにあげたブログ記事はオープンキャンパス終了後、そして入試前という時期に、文芸学科を受験する心構えのようなつもりで書いたのだが、気づいたら時間がかなり経過してしまった。そのためスクーリングを経験した皆さんに何か書こうと思い、久しぶりにブログの管理画面を開いている(ちなみに年明けの一般入試を考えている人は、その以前書いた記事を読んで欲しい)。なぜなら昨年まで私は10月のスクーリングを担当していたのだが、今年からすべて長岡先生に統一されることになったので、どのような状況にあるのかを詳細には把握していない。とはいえ長岡先生の非常に精緻で厳しい授業内容は、私にはできないので、それはそれでよかったと思っている。

 スクーリングに参加した皆さんは、これからの新生活に期待と不安を抱いているであろう。それは誰だって当然のことであり、私だって上京し、大学に入学する際には緊張しかなかったものである。もう20年前の話だ。入学するといろいろなことを経験しなければならないし、そのすべてが楽しいことではない。様々な人が話しかけてくるし、同級生だけではなく先輩や他学科・他学部の人との交流も増えてくる。嫌な人だって、受け入れられないことだってあるだろう。ちなみに学生時代の私は「ラジオを聴くので今日は帰ります」と先輩の誘いを断ったりしていた。そのころからラジオ三昧だったのである。

 先輩の中には「大学の課題をやらなくたって大丈夫」とか「授業なんかサボっていいよ」とか言う人もいるだろう。その無頼っぽい雰囲気に惹かれてしまうときもあるかもしれない。『NARUTO』で言うとシカマルが好きだったり、『銀魂』の銀さんが好きだったりする、あれである。シカマルに惹かれるのは構わないが、現実世界でシカマルに会うのはなかなか難しい。多くの場合、そのようなことを言ってくる先輩(もしかしたら同級生かもしれないが)は、「課題が簡単すぎて、すぐにできるからサボっている」のではなく「課題がこなせないからサボっている」のである。よくよく考えてみよう。シカマルも銀さんも幼いころから鍛えてきたではないか。

 夏の集中講義は毎年、作家の森田季節さんと一緒に行っているのだが、そこで必ず伝えているのは、大学の授業で身につく能力は必要最低限でしかない、ということである。それは社会人として世に出ていく上で汎用的に活用できる力である。それが良い悪いという問題ではなく、教育機関である以上は必要なものだ。で作家になるには(というより何かを主体的にアウトプットしていくには)、その何十倍もの力が必要になっていく。そのことに多くの人は在学中に気づくことが少なく、卒業後に社会で求められるようになってきた段階で認識するのだと思う(なので多くの人が「学生時代にもっと学んでおけばよかった」と言い出す)。その力を身につけるには、大学の授業だけでは到底足りない。

 足りないのだが、その入り口は授業で用意している。大学の授業は週に1回しかないということは、逆に言えばそれ以外の時間は皆さんの自由である。なので、何もしなくてもいいし、寝ているだけでもいい。それでも何かをアウトプットしていきたいのであれば、大学の授業で学んだことをヒントにして常に読み、書き続けるしかない。それができない人間が、「大学の授業はくだらないからサボっていい」とか「課題はやらなくたっていい」とか言い出し、さらには自らのプライドと自意識の保持のために他者を攻撃し始めたりする。

 まあ、皆さんの人生なので、何を選択しようともその結果と責任は自分自身に帰結していく。しかし、どのような人であっても最初は下手くそだし、上手くいかないものである。毎日の繰り返しのなかで、そのようなことを気にせずに取り組んで欲しい。

BGM:『西郷どん』の最終回を見ながら書いたので、今回はナシ。

世界は幼なじみではない―幼なじみ萌え補遺5

 補遺の第5弾です。

https://www.j-cast.com/bookwatch/2018/06/24007521.html

 こちらの日曜J-cast書評に取り上げていただきました。2か月前ですが。

 それから以下のように2回話をしました。

日本風俗史学会関東支部大会・総会

コンテンツ文化史学会2018年第1回例会

 どちらも『幼なじみ萌え』に関しての話をしました。お聞きいただいた皆さん、ありがとうございました。以上、補遺でした。

「ただ覚えていることは」

 作品読解という一年生向けの授業を、毎年前期に担当している。なんとなくこの授業に関していつもブログで取り上げている気分になっていたが、よくみるとそうでもない。二年前は取り上げているが、去年など途中で終わっている。なんという手抜き。というわけで今年はきちんと15回分を書いてみることにする。

 とはいえ、下記に書いたことは私自身の意図や考えであり、他者にとっては他愛もないものでもある。本授業の目的は、「文章を読み、情報を的確に把握し、それをアウトプットする」ということに集約される。つまり要約を書く作業である。簡単と思った人は実際、厳密にやってみると非常に難しいことがわかる。猿蟹合戦の話だというのに、延々と栗の話しか書いてこないというケースも散見される。散見というレベルではない。かなり見られる。それを一つひとつ教員が修正し、コメントを書き、学生の基礎力をあげていくことになる。

 

武田綾乃「白線と一歩」

 初回の授業の場合、学生たちはこのあいだまでは高校生であったわけで、そのときの気分の連続性を感じてもらいつつ、でも新しい一歩を踏み出して欲しい、という気持ちでこの作品をセレクトした。それだけではなく、当時、武田さんの作品が原作である映画『リズと青い鳥』が公開中であったというのもセレクトした理由であった。とはいえ授業中にその点に触れても、特にリアクションがなかったので、オタクの独り言っぽくなったことを覚えている。

 

似鳥鶏「この世界に二人だけ」

 似鳥さんといえばミステリーとなるが、そうではない物語を選んだ。能力バトルものである。1週目に続き、10代の物語であることも実はセレクトしたポイントである。

 

中田栄一「ラクガキをめぐる冒険」

 ここまでは10代の物語を読んでいたが、そこから大学生へという移行を考え、この作品を選んだ。著者がウルトラマン・ジードの脚本を担当していたことを授業で述べても、同じくオタクの独り言になってしまったことをここに付記する。

 

宮木あや子「憧憬☆カトマンズ」

 物語をセレクトする理由を、女性が主体であることへ軸を移している。「女性が仕事をすること」を単純化せずにいかに考えていくのか、を授業中に投げたつもりである。

 

成田名璃子「婚活ハンバーグ」

 ハンバーグ美味しいよね、とかは考えていないが、セレクトした理由は前の週からの連続性である。同時代に生きる作家たちが何を考え、何を描いているのか、ということを喋った気がする。

 

八木沢里志「日曜日のバレリーナ」

 閑話休題的に前後との深いつながりはない。というより根本的には、どの作品にもつながりはないのだが、選書しているこちらが意図的につなげているだけである。授業では読者の感情を動かすことをいかに意識するのか、を話した記憶がある。

 

冲方丁「真紅の米」

 ここから時代小説ゾーン。大ヒット作家なので、食いつきが良いかと思いきや、歴史ものに対する忌避観が根本的に存在するのに驚いた。そうなのか。授業自体は描写と焦点、時間の話をした。

 

小松エメル「姿絵」

 新選組を描いた作品である。長い物語の時間を一気に描いた短編を二連続で読んでみた。

 

三雲岳斗「二つの鍵」

 3回ぐらい作品がアニメ化されている作家の時代小説。誰もFGOの話をしなかったのは出てくる人物があまりにも著名すぎるからか、個人的にはオタクのたわ言っぽくなるので色々、話すことをあきらめていた(授業自体は普通に行った)。

 

米澤穂信「心あたりのある者は」

 ミステリーゾーンに突入である。元ネタをだれも読んでいないのは少しがっかりしたが、そのようなところでがっかりするのがオタクなのである。

 

道尾秀介「花と氷」

 作者がタモリ倶楽部に出演していたときの話をしていたことを覚えているが、それ以外も作品に関していろいろ理論的に話した(はずだ)。

 

小川一水「水陸さんのおひつ抜き」

 SFゾーンに入る。かと思いきや、緩衝的な感じでミステリーでありSFでもある作品を選んだ。未来を描くことをどう考えるかについて話をした。

 

宮澤伊織「猫の忍者に襲われる」

 百合SF。シリーズすべてを読んで、なぜこれをセレクトしたかというと猫が出てくるから、と書くと信じる人がいるから困る。

 

松崎有理「ぼくの手のなかでしずかに」

 これも皆さん、元ネタを知らないのね、と悲しくなったが、それはオタク(略

 

高山羽根子「巨きなものの還る場所」

 時間も場所も人物もすべてが複合的に重なり合う群像劇を最後に選んだ。読解力が試される作品であるが、どうであろうか。

BGM:くるり「だいじなこと」

「透明で見えない階段を上ったら」

 集中講義を終え、そのままコミケにサークル参加をしていると体力が持たない。気力で乗り越えると、発熱で寝込んでしまった。寝ているときは、もうこの世の終わりではないかと思いながら、体調が上向きになるのをじっと待つしかない。しかし峠を越えると体は動かないが、何とか読書はできる状況にはなる。そのような感じで一日数冊の本を読む夏休みが、なし崩しに始まってしまった。

 読書には、いくつかの技術が必要なのだが、本を読む行為はどれも一緒だろうと思っている人が多くいる。というのは、大学教員になって気づいたことの一つである。プロ野球を見て、ピッチャーの投げ方は一つしかないという人はいないであろう。大相撲を見て、力士が見せる技は一つしかないとは言わないであろう。もちろん遠くから目を細め、焦点を合わないようにして見れば、ピッチャーの投げる球がフォークなのか、スライダーなのかはわからないので、その意味においては同じといえるかもしれない。しかし、まあ、やっていることは全然違うので、巨視的な見方のみをしても意味がないのである。

 個人的に行っているのは1:情報のみを抽出する方法、2:パターン認識をしていく方法、3:速読、4:精読(もちろん精読にもグラデーションはある)、ぐらいだと思う。とはいえこれらをいきなりやれ、というわけではない。もちろん私自身と他者とが同じ手法である必然性だって、どこにもない。何より、いきなり最初から、この方法を取っていたわけでもない。主に10代のころに多読をし、それにより多くの情報と経験を得たこと。そして学生のときに精読(主に史料読解のために)をさせられたことにより、多読などほかの読書の精度も相対的にレベルアップしていったこと、などが複合的に重なり合っている。

 大学生のときに行っていたのは、小説などのフィクションを読み、集中力が落ちたら、新書や論文などを読むのに切り替え、また集中力が落ちたら、小説に戻るという読書である。これだと一日二冊は読めたりするので、おすすめである。特に大量の時間が存在する大学生にはおすすめ。仕事をはじめたら、これを行うだけの時間を確保することができなくなってしまった。どちらにせよ一つのことに集中し続けることなど、人間にはほぼ無理なので、気が向いたとき気の向くものをやり、それが飽きたら、また別のものを進めればよい。それを休むことなく、やり続ければ、とりあえずの目標にたどり着くか、何かの成果を挙げられることになる。ここでのポイントは無駄なことを合間に挟まないことである。ちなみに最近、この点に関しては森博嗣も書いていて、大いにうなづいたものである(森博嗣『集中力はいらない』SBクリエイティブ、2018)。

 最後に付け加えると読書と読解は別なので、ただ読めばいいというわけではない。しかし数多く読まないとはじまらない。ともあれ8月中旬をむかえ、ようやく夏休みとなり、東京の自宅で読書と原稿に取り組んでいる。あと残りのリソースで後期授業の準備もしている。はたから見ると机に延々と向かって仕事ばかりしているように見えるかもしれないが、大変有意義である。

BGM:Perfume「宝石の雨」

「背中おされ、まちへでかけよう」

 文芸学科なので当然のことながら、授業では数多くの小説を取り上げている。時には映像資料も活用したり、漫画を講読したりもしている。要はメディアの差異を加味しながら、物語を検討していくことが多い、ということである。そこには作品に対する私自身の好悪などは全く授業の文脈に存在していないのだが、勘違いしてしまう人が非常に多い。

 なぜこのようなことを考えているのかというと、先日、twitterをぼんやりと眺めていたら、「講義で作品を取り上げると教員がその作品のことを好きだと学生に思われるが、そのような主観的な判断をしていない」という某大の教員のつぶやきがタイムラインに流れてきたからである。思わず、「わかる」と頷いたのだが、どうにも授業で何かの作品を取り上げると「好きだから授業で話している」と思ってしまう人が多い。したがって昨年度から一年生向けの授業で取り上げる映像作品は、私自身が好きではない作品を取り上げるようにしている。と書いてしまうと、もう作品名を出して語ることが難しくなってくるのだが、私自身の好みとは別の基準においては評価しているわけだ。

 それは物語の構成であったり、キャラクター造形であったり、作品のテーマであったりと様々な評価軸があるのだが、その点をいきなり理解してもらうことは難しいのかもしれない。なぜ「授業で取り上げた」=「好きだ」になるのかが、当初わからなかったのだが、推測するに学生にとって作品を他者に語る機会が、「おすすめの本を紹介する」などに限られるからではないか、と思っている。自分自身が好きか嫌いかのみで物事を判断し、他者へ伝えているのであれば、他の人も同様に行っているのだろうと短絡的に考えてしまうことは起こりうる。しかし、今度は、作品を考える機会がそれしかないという狭い世界が存在しているのか、と考えたりもするが、個々人の知識や教養の濃度とは関係なくコミュニケーションとして取り組みやすい点はあるのかもしれない。私自身としては他者がどの商品を好きなのかは、個人レベルではほとんど興味がないし、知ったところで大きな変化が起こらないので、かなりどうでもいい情報とは考えている。もちろん知らない作品であれば、それはそれで情報を得られたことはありがたいが、そこからどう評価するのかは、まずは自分で触れてみないとわからない。

 というわけで、今年度も昨年と同様に「特に好きでも嫌いでもない作品」を取り上げ、考えることを多数行って前期は終了した(数時間前に集中講義も終わった!)。一年生向けの必修授業で映像作品を取り上げると「教員が好きな作品を授業で取り上げている」と勘違いした人のレポートが、いくつか散見されたが、毎年、定例のように書かれる内容なので書いた人は他者との差別化ができていないことを反省したほうがいい。私自身は「今年も書かれた!」と静かにほくそ笑んでいるのだが、それはまた別の文脈である。

BGM:クラムボン「サラウンド」

「だから1・2・3で歩き出せ」

 オープンキャンパスを終えると、一気に夏の気分になる。実際にはまだ集中講義が残っているし、そもそも採点をし、評価する作業がある。体が楽になったわけではないが、それでもほっと一息つくことができるのは、大きな一歩だ。なんでもできる気になる。夏の山形は昼の一瞬だけが暑くて、夕方からは一気に気温が下がっていく。まさしく天然のクーラーだと毎年感激してしまうのだが、冬になると今度は冷気が私の体をいじめてくるので足して二で割ればトントンである。トントン。そう思いながら、夜に帰宅する足取りも軽くなる。そういう8月である。

 オープンキャンパスでは、毎年意欲的な高校生の皆さんに会うことができる。こちらとしてはもちろん私が所属する東北芸術工科大学芸術学部文芸学科(長いですね……)を受験して欲しいが、皆さんそれぞれのやりたいことを考えるのが一番大事だと思っている。特に芸大に所属する文芸学科である以上、文章を書くこと、編集物を制作することは必然的に求められる。つまり主体的にアウトプットを行っていくことが、当たり前の世界なのだ。ところがそうではない人が入学してしまうと大変である。

 常に受動的であり続けるのが当然で、教員がすべて手取り足取り教えてくれると思っているのではないだろうか。座学で右から左に聞いていれば、それなりに知識が増えていく……ことは確かなのだが、それを求めるのであれば、芸術学部文芸学科ではなく、文学部に進学したほうがいいかもしれない。もちろん文学部出身の私としては(より正確には今はなき第一文学部出身)、そんな姿勢では文学部でも通用しないことも知っている。しかし、そのようなメンタルで入学すると「あー、文学部に入って、古典とか勉強していればよかった」とか言い出す。そして年月を経ていくと主体的にアウトプットはしないのに、自己評価だけが高くなっていくことになる。もちろんアウトプットは日々の筋トレのようなものなので、行っていない場合は、成長はゼロである。そして肥大した自己評価との連動が取れなくなってしまう。ゼミでも何でも「書いたもの持ってきてよ」と私が言うのは、それが出発点だからである。つまり逆に言うとアウトプットをしない人にとっては、何も起こらないし、教員は特に助言をすることもない。ただつまらない日々が続くだけである。ゼミや授業で出される課題は、必要最低限である。何のための「必要最低限」かというと単位のためであり、ひいては大学生としてでしかない。しかし目指しているものがある場合は、そこからどれだけ日々、取り組めるかが問われている。

 このようなことを書くと「ブログのあれは私のことですか」という質問がきたりするが、決してそのようなことはない。前の大学を含めるともう10年弱の期間、大学で教えてきた身としての経験値から語っているだけである。しかし、これが自分自身に当てはまると思うのであれば、ステレオタイプな人間になってしまっているので、何とかしたほうがいいかもしれない。

 うだうだと書いてきたが、自らの資質とか難しいことを考えずに、自分で取り組みたいことがあれば、そこにまっしぐらに突き進もう。もちろん世の中、やりたいことを行うためには、他者から見れば苦労とも努力とも思えることが立ちはだかってくるが、気にしなくていい。だって、文学をやりたいんだろう? その物語が好きという気持ちが続くのであれば、十分だ。

BGM:チト、ユーリ「動く、動く」

「このまま僕は汗をかいて生きよう」

 ようやく音楽を聞くことができるようになってきた。4月以降、いろいろと辛い出来事があり(詳細はこちら。あとこちらもどうぞ)、さらには授業やら何やらと取り組むべきことが続いてしまい、大変であったのは確かである。それでも自分の中ではしっかりとできていると思っていたのに、先日、学生と喋っているとき、自分が4月初旬に行った授業のことをすっかり記憶から抹消してしまっていることに気付いてしまった。そんなにかー。そんなに繊細かー。誰だよー、俺かよーという感じではあるが、指摘されないと思い出せないというのは、もう疲れていたのだと思う。モルダーでなくとも疲れるのだ。

 耳から何かを聞くことは続けていたので、携帯プレイヤーで録音したラジオを聞くことは続けていた。時には録音ではなく、ライブで聞いていたりもする。今年度はアニメと時代劇以外でテレビをつけることがどんどんなくなっていき、このままテレビメディアと決別するかとも思っていたぐらいであるが、散漫な思考のままラジオを聞いているので流れ作業のようになってしまったことは否めない。こんな惨状が続くのかとぼんやり思っていたが、全く聞いていなかったJポップを再生できるようになったときに、「ああ、通常に戻った」と思ったものである。カチリとはまって、聞くことができるという感覚はなかなか得られるものではない。何せ、エレカシの新譜が出たので、聞かざるを得ない。エレカシを歩きながら聞くという行為は、簡単に見えて、こうも難しかったのか。新譜、いいですよね。

 先日、ゼミでJポップに関して言及した論文(増田聡「誰が誰に語るのか―Jポップの言語行為論・試論」『聴衆をつくる―音楽批評の解体文法』青土社、2006年)を読み、実際に音楽を流して考えてみるということをやってみたのだが、やはり音楽を考えることは難しい。通常では歌詞に特化して考えてしまうが、それは音楽を考える上で一面的でしかない。歌手本人の歌唱、歌手という個人、演奏、アレンジャー、プロデューサー、音楽会社、メディア、作詞家、作曲家……と挙げていくときりがないかもしれないが、音楽を考える上で主体をどこに求めるのか。歌詞だけで語ることのできない面が、あまりにも多様に存在している。ということを確認しただけでゼミは終わったような気がするが、それはそれで重要であったとも思う。たとえば今、これを書きながら聞いているのはアニメ『ローリング☆ガールズ』で主役を演じた声優4名がブルーハーツをカヴァーしたアルバム『ロリガ・ロック・ベスト!』なのだが、これも作詞・作曲と歌唱との連続性はない。何よりアニメの主役4名が描かれるジャケットを見る限り、そこで想起させようとしているのは、彼女らがバンドを組み、演奏し、歌うという物語である(さらに面倒なのはアニメはそのような話ではない)。でも、これは歌詞だけでは見えてこないわけだ。

 とりとめもなく書いてきたが、さび付いた何かを無理やり動かそうとして、ようやくブログを書いている。もう7月である。

BGM:THE ROLLING GIRLS「人にやさしく」