岡本健編『コンテンツツーリズム研究〔増補改訂版〕 アニメ・マンガ・ゲームと観光・文化・社会』に寄稿しました。

 岡本健編『コンテンツツーリズム研究〔増補改訂版〕 アニメ・マンガ・ゲームと観光・文化・社会』(福村出版、2019)に寄稿しました。玉井の文章は「コンテンツツーリズムの歴史」、「史料分析」、「地域の歴史とコンテンツツーリズム」の3つになります。

 本書をお読みいただければわかると思いますが、コンテンツツーリズムという枠組みは非常に多岐にわたっています。作品論という切り口だけではなく、観光学・経済学・経営学・心理学・社会学……の中に歴史学からのアプローチも入れていただきましたが、要は一つのことを見るのにいろいろな考え方が存在するわけです。この4月に大学に入学し、研究したいこと、考えたいこと、書きたいことがたくさんあって、でも、何をどうしていいのかわからないという人も多いかと思います。世の中は複雑で、そんな簡単にわかるわけはないよ、とか斜に構えるのではなく、まずは触れて考えてみましょう。その際、研究の一助として本書を手に取っていただければ幸いです。

https://www.fukumura.co.jp/book/b451080.html

しょっぱなからフル稼働

新年度一発目の授業、新一年生を対象にした「想像力基礎ゼミ」が始まった。1限から4限までのぶっ通し。まだあどけない高校生が、徐々に変化していくさまを見届けるわけですね。 彼らが何に反応するのか、探りながら進めていくつもり。 夕方は「文芸ラジオ」の定例会議。 ゼミ生の原稿に赤字を入れて返したあとは、来週の「日本語表現基礎」の資料のための文献をひたすら入力。 まだ始まったばかりなのに、なんだか怒涛のナルトの渦に巻き込まれてる感じ?

「乾いたメロディは止まらないぜ」

 日本は南北に長い。

 みたいな話はよく聞くのだが、愛媛から東京へ、東京から山形へと移動してきた身としては、それを体感しながら最近は生きている。別に南北である必要はなく、東西でも、県によってでも、山沿いか海側か、川の近くで生活しているか、平屋かマンションかでも基準は何でも良い。

 3月30日に開催された「春のストーリー創作講座」は文芸学科主催で行われ、冬に引き続き、石川先生と玉井が担当している。2月の「冬のストーリー創作講座」では玉井が主に喋ったのに対し、今回は石川先生が話をする回であった。ここ数年は2月3月と連続で、このストーリー創作講座を行っており、恐らく来年も同様に行うのだとは思う。高校生の皆さん、お待ちしております(ちなみに次は5月のオープンキャンパス!)。さて、その「ストーリー創作講座」の頭に「冬」と「春」が付くのだが、どっちも寒い時期だから「冬」一択じゃないかと毎回思っている(とはいえ何が良いのかと言われると、特に代案もないのだが)。

 これは私の「冬」の基準が、愛媛県あたりの経験値ではかられてしまっているせいだとは思うが、当然ながら場所により、土地により、風土により、様々なものは変化していく。そのことは大学生の時に読んだ網野善彦の『東と西の語る日本の歴史』(講談社学術文庫、1998年)を読んで、「なるほどー」とカッコつけて頷きながら理解していたつもりなのだが、やっぱりつもりでしかなく冬の寒さは体感できていなかったといえる。

 そのことは小説を読んでいるときも感じられて、先日、手に取った川澄浩平さんの『探偵は教室にいない』(東京創元社、2018年)では作品内容もさることながら、そこで描かれる風土的な描写で「え、10月なのにもうストーブ?」と思ったり、「あー、もうこの時期ということは、寒いわー、よく歩きながら会話できるな」とか考えたりする。さすが北海道。試されている。作者としては当たり前のことを書いているのかもしれないが、一度、寒いことを経験した身からすると気になって仕方ないのである。数年前までなら読んでいても特に気になることもなくスルーしていただろうから、世の中経験してみるものだ。

 さて、このように色々考えることができたのも、今現在所属している東北芸術工科大学芸術学部文芸学科に来たからである。そうでなければ寒い土地に来ることはないであろう。今でもある程度当てはまるかもしれないが、地理関係が全然把握できておらず、来る前までは秋田県と山形県の位置関係はぼんやりとしか把握できていなかった。そのぐらい遠い土地であり、漠然とした寒さに包まれているイメージであった。その文芸学科に、私が来るより前から所属していた山川健一先生、川西蘭先生、そして副手の飛塚さんが前年度をもって退任された(私が来たとき、飛塚さんは学生として所属していた)。お三方には大変お世話になり、感謝は尽きないのだが、ここでブログとしても残しておこうと思う。

 よく「喧嘩別れですか?」とか「辞めさせたんですか?」とかいろいろなことを聞かれるのだが、なぜみんなマイナスなことしか言わないんだ。そんなわけないだろう。定年やら任期満了やらでの退任である。

 それはさておき現在の大学に来るまで複数の大学で仕事してきたので、人が去るのが当たり前の世界だとは思っていたが、やはりお世話になった人が離職していくのは、どこか感傷的になってしまう。3月31日はお世話になっていた吉田正高さんの命日であり、4月1日から新年度がはじまる。思っていたより寒い年度末(雪も少し降っていた!)を経験すると、この感傷は否めないのかもしれない。

BGM:あいみょん「君はロックを聴かない」

「絵文字は苦手だった」

 ついに手に取ってしまった。以前より周囲のオタクな感じの人たちは、ほぼ全員読んでいるのではないだろうか、と錯覚してしまうかのごとくヒットしている作品がある。谷川ニコさんの『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』が更新されるたびにtwiterが動き出し、つぶやきが加速し、ファンアートが描かれ、二次創作の漫画が描かれていく。ここまでで数時間は最低でも経過している。更新後の数時間は祭りである。その通称ワタモテの単行本をこの3月は読みふけっていた。読み終わったときに虚脱感に襲われてしまい、流れるままにweb更新も読んでしまうようになった。普段は連載を読まないというのに。

 先週の更新は3月21日の午前0時である。読む。当然だ。読むに決まってるだろう。twitterも見るだろ。イラストも、他人の解釈も読みまくりである。しかし、こう見えて、仕事をしている大人なので、ここらへんではたと気づくのである。数時間後には卒業式があるではないか。

 もちろん卒業式には寝不足で参加することになる。頭の中にはワタモテしかないので、卒業生と保護者の皆さんにはワタモテの話をすることになってしまった。

 ワタモテは主人公の女子高生が、オタクであり他人とのコミュニケーションをとることが非常に困難と思い込んでいる。連載当初は、その痛々しさが強調される物語が描かれ、「一日に一回、他人と会話ができるかどうか」というように、彼女自身が目指しているもの、取り組んでいること、しかし実際にできることの乖離が非常に激しく、そこを楽しむ物語だと思う。いや、そこに感情移入し、「お前は俺か」になってしまうのだが、まあ、その楽しみ方は置いておこう。

 これに対して、物語が進むにつれて、主人公の評価が大きくかわっていく。当初はいわゆるスクールカーストの最底辺に位置づけられ、そのことをおそらく主人公も読者もそして教室内の人々も共通認識として抱いていたと思う。彼女自身は常にオタクであり続け、周囲とのコミュニケーションも積極的には行っていかない。これはスクールカーストの底辺ととらえることは当然可能ではあるが、教室内の権力関係から完全に逸脱していると考えることもできる。要は他者に合わせて自分を変容させていくわけではなく、彼女自身は彼女自身としてぶれない存在としてあり続けるのである。そして何が起きるかというと、その生き方に少しずつ惹かれる同級生の女性が増えてきて、主人公は人に囲まれながら生きていくことになる(1巻と14巻の表紙を比較するとわかりやすい)。10巻をこえたあたりになると、世の中の百合クラスタが騒ぐようになり、更新とともに祭り状態になっているのである。

 このような生き方は、今の時代では非常に難しい。教室という狭い人間関係に身を置きながら、他者の視線を認識しつつも、そこからの関係性にはからめとられない。その生き方を選ぶことは、客観的な視線を他者だけではなく自分自身にも向ける必要性が生じる。非常に大変だ。卒業していく学生さんたちは、これまで教室の権力関係の中に居続けたと思う。もしかしたら大学でもそうだったかもしれない。そして4月からはどのようなかたちであれ、大学という場からは出なければならない。もしかしたら仕事に大きな希望を持っているかもしれないし、大きな不安を抱えているかもしれない。でも日本社会の特性というか、地域性や業種・職種に左右されるかもしれないが、職場という空間もまた大小あれどもこれまで経験してきた共同体と連続性を持っている。

 職場で趣味の話はできないかもしれないし、他人に合わせて美味しいスイーツの話をしなければならないかもしれない。上司の飲みの誘いは断ってはいけないかもしれないし、先輩にはビールを注がなければならないかもしれない。サラダは取り分けるし、週末に好きな声優のイベントがあっても休日出勤をしなければならないかもしれない。もちろん、これをすべて気にせず、自分の心が赴くままに行動をしても良い。しかし、そうしたら当然、すべて自らの責任として圧し掛かってくることになる。なので丹羽庭さんの『トクサツガガガ』の主人公のように自らのオタク的側面を職場では見せないまま、会社員として生きていくことも選択肢として存在している。

 何をどう選ぼうとも皆さん自身の責任として返ってくる。一つだけ言っていくと、ワタモテの主人公みたいには、なかなか上手くいかないぞ。というようなことを文芸学科の学位授与式で卒業生と保護者の皆さんに話をした。寝不足のまま即興で喋ったわりには、きちんとまとめられたと思う。

BGM:YUI「CHE.R.RY」

「こごえる季節に鮮やかに咲くよ」

 年が明けてから通常授業、入試、採点、授業の課題評価(講評書き)、卒展イベント(複数)、高校生の課題への講評書きに取り組んでいると、気づいたら2月もかなりの時間が経過している。そして避暑ならぬ避寒のために山形から東京に移動し春休みを過ごしているのもまた、ここ数年の恒例となっている。毎年のことながら、春休みだからといって楽になるわけではなく、4月以降の授業準備に取り組んでいるし、自分自身の研究もしなければならない。残り日数を数えると、とにかく時間が足りない。

 なかなか避寒という概念を他人には理解してもらえず、多くの人に「そんなに寒いわけないじゃん」と言われてしまう。この「そんなに寒いわけない」というのは、北国の人からは「山形市は大して雪は積もらないし、それほど寒くはない」の意味を持っているし、南のほうの人からは「雪国とかに住んだことないけど、数年に1回ぐらい雪の降る感じから想定すると楽勝でしょ」という意味合いになってくる。そうではない。違うんだ。というのは心の叫びとして飲み込んで、「いやー、そうですか」と返答している。

 とはいえ、いろいろ片づけた上で春休みをむかえているので、気分はかなり楽になっている。授業準備のための読書は、何で自分はこれほどまでに本を読んでこなかったのだろうか、この程度の読書スピードしかないのか。という心の戦いではあるが、でも、あっという間に手に取ったことのない小説や論文に知的好奇心を刺激され続けることになる。授業準備としての読書と趣味としての読書と研究としての読書をしていると、一日が短すぎるのである。

 趣味の読書として、いまさらながら丸山くがね『オーバーロード』(エンターブレイン)を読んでいる。概ね一日一冊ずつ読んでおり、先ほど13巻に入ったので最新刊に追いついてしまった。ああ、次は何を読もうか。この作品自体は発売当初に1巻を読んでいたのだが、そのまま放置し忘れていた。しかし昨年の後期、ゼミのゲストとしてお招きした漫画家の今井哲也さんが、学生たちへの推薦作品として漫画版(作画は深山フギン)を挙げられたことが再読の契機である。もちろん、挙げられたのはこの一作品だけではなく複数あったのだが、取り上げた理由として物語の構造を指摘されていたのが印象深い。そこで小説をきちんと読もうと思った次第である。

 既読の人にとっては当然かもしれないが、この『オーバーロード』シリーズは巻によっては主人公さえも入れ替えて物語を進めている。簡単に言ってしまえば、それだけなのだが、物語の大枠を崩さないままに違う主人公を描き続けることは、非常に難しい。メインコンテクストとサブコンテクストという中長編レベルの問題だけではなく、長編から大河小説的な構造の中でも同じ構造をさらにもう一段階、示していることになる。本来の主人公を主人公としつつ、巻によっては傍観者にまで押し込むのだが、それでも数巻にわたる大枠の中からは外れないのは見事であろう。多くのウェブ小説が、構造をこのような入れ子にせずに、連続化していくことに比すれば、描く際の難しさは理解できると思う。

 もちろんそれ以外の様々な点も読みながら、「なるほどー」と感心しているのだが、まあ、それは置いておこう。結局、趣味と言いながら、授業でどう活かすかにたどり着いてしまう。久しぶりのブログ更新なので、リハビリのようになってしまった。

BGM:宮本浩次「冬の花」

玉井建也「歴史コンテンツとメディアとしての小説」が出ます。

 今年度は例年よりなぜだか忙しくて、よくわからないことが多発し、自分自身の脳みその限界を感じながら生きていた。そのわからないことの代表的なものが「この文章を書いたっけ?」である。そう、この論文のことは結構、忘れている。けど、書いたことは書いたし、書いたこと自体は覚えている。

 一応、この論文は以下の論文の流れの中で書いているつもりではある。

 歴史とフィクションの問題を、あーでもない、こーでもない、と外周を回りながら、近づいたり、遠ざかったりしている気がする。なかなかもどかしい。ここ数本の論文では、ネット小説を取り上げており、この点は今回も同様ではあるが、次はまったく違うアプローチをしよう。そう思いながら、春休みをむかえたはずなのに、ずっと課題を読み、講評書きを行っている現実である。

 最後にこの論文で取り上げた作品を以下に列挙する(学術書・研究論文は今回はカット)。

歴史遺産学科とのコラボ冊子完成

後期に歴史遺産学科の北野先生ゼミと文芸学科野上ゼミがコラボレーションして制作した、楢下宿を紹介・解説する冊子「楢下宿 ノスタルジックな宿場町」が完成しました。

楢下宿は山形県上山市内の、江戸時代の町並みが残る歴史的価値の高い地域です。この地域の調査をしてきた北野先生のゼミの成果を、多くの人に伝えられるような冊子にまとめる、その編集制作のところを野上ゼミの学生が担当しました。

学生たちも何度も楢下宿に通い、取材や撮影をして、モデルまで自分たちでやって、趣のある冊子に仕上げたと思います。

デザインは『文芸ラジオ』でもお世話になっているCOAさんに依頼しました。単なる観光パンフレットではないので雰囲気づくりが難しかったと思いますが、さすがの仕上がりです。「歴史の古さもありつつ今っぽい感じですかね」と、わけのわからないオーダーをしたんです。見事に実現してくれました。

こうした実践的な演習は、学生たちも大変ですが、本当に力がつきます。今後も積極的にこういう制作物に取り組んでいきたいですね。

教員も大変だけど。

「入試、スクーリング、入試、入試、スクーリング」

 個人的な体感速度では、ようやく12月に入ったぐらいなのだが、もう年末である。先ほどまでTBSラジオでやっている「爆笑問題の日曜サンデー」で年末恒例の好プレー・珍プレー大賞が開催されており、それを聞きながら「もうそのような時期か」とハッとしてしまった。内的時間と外的時間のズレを少しずつ修正していかなければならない。文芸学科の行事としても、9月のAO入試、10月のスクーリング、そして数多くのゲスト講師(5名? 6名?)、11月の入試、12月の入試と卒業制作提出、2回目のスクーリングと思いつくものだけでも多いのに、見えない部分での作業量が膨大化している。と愚痴を書いても仕方ない。

 以前ここにあげたブログ記事はオープンキャンパス終了後、そして入試前という時期に、文芸学科を受験する心構えのようなつもりで書いたのだが、気づいたら時間がかなり経過してしまった。そのためスクーリングを経験した皆さんに何か書こうと思い、久しぶりにブログの管理画面を開いている(ちなみに年明けの一般入試を考えている人は、その以前書いた記事を読んで欲しい)。なぜなら昨年まで私は10月のスクーリングを担当していたのだが、今年からすべて長岡先生に統一されることになったので、どのような状況にあるのかを詳細には把握していない。とはいえ長岡先生の非常に精緻で厳しい授業内容は、私にはできないので、それはそれでよかったと思っている。

 スクーリングに参加した皆さんは、これからの新生活に期待と不安を抱いているであろう。それは誰だって当然のことであり、私だって上京し、大学に入学する際には緊張しかなかったものである。もう20年前の話だ。入学するといろいろなことを経験しなければならないし、そのすべてが楽しいことではない。様々な人が話しかけてくるし、同級生だけではなく先輩や他学科・他学部の人との交流も増えてくる。嫌な人だって、受け入れられないことだってあるだろう。ちなみに学生時代の私は「ラジオを聴くので今日は帰ります」と先輩の誘いを断ったりしていた。そのころからラジオ三昧だったのである。

 先輩の中には「大学の課題をやらなくたって大丈夫」とか「授業なんかサボっていいよ」とか言う人もいるだろう。その無頼っぽい雰囲気に惹かれてしまうときもあるかもしれない。『NARUTO』で言うとシカマルが好きだったり、『銀魂』の銀さんが好きだったりする、あれである。シカマルに惹かれるのは構わないが、現実世界でシカマルに会うのはなかなか難しい。多くの場合、そのようなことを言ってくる先輩(もしかしたら同級生かもしれないが)は、「課題が簡単すぎて、すぐにできるからサボっている」のではなく「課題がこなせないからサボっている」のである。よくよく考えてみよう。シカマルも銀さんも幼いころから鍛えてきたではないか。

 夏の集中講義は毎年、作家の森田季節さんと一緒に行っているのだが、そこで必ず伝えているのは、大学の授業で身につく能力は必要最低限でしかない、ということである。それは社会人として世に出ていく上で汎用的に活用できる力である。それが良い悪いという問題ではなく、教育機関である以上は必要なものだ。で作家になるには(というより何かを主体的にアウトプットしていくには)、その何十倍もの力が必要になっていく。そのことに多くの人は在学中に気づくことが少なく、卒業後に社会で求められるようになってきた段階で認識するのだと思う(なので多くの人が「学生時代にもっと学んでおけばよかった」と言い出す)。その力を身につけるには、大学の授業だけでは到底足りない。

 足りないのだが、その入り口は授業で用意している。大学の授業は週に1回しかないということは、逆に言えばそれ以外の時間は皆さんの自由である。なので、何もしなくてもいいし、寝ているだけでもいい。それでも何かをアウトプットしていきたいのであれば、大学の授業で学んだことをヒントにして常に読み、書き続けるしかない。それができない人間が、「大学の授業はくだらないからサボっていい」とか「課題はやらなくたっていい」とか言い出し、さらには自らのプライドと自意識の保持のために他者を攻撃し始めたりする。

 まあ、皆さんの人生なので、何を選択しようともその結果と責任は自分自身に帰結していく。しかし、どのような人であっても最初は下手くそだし、上手くいかないものである。毎日の繰り返しのなかで、そのようなことを気にせずに取り組んで欲しい。

BGM:『西郷どん』の最終回を見ながら書いたので、今回はナシ。

世界は幼なじみではない―幼なじみ萌え補遺5

 補遺の第5弾です。

https://www.j-cast.com/bookwatch/2018/06/24007521.html

 こちらの日曜J-cast書評に取り上げていただきました。2か月前ですが。

 それから以下のように2回話をしました。

日本風俗史学会関東支部大会・総会

コンテンツ文化史学会2018年第1回例会

 どちらも『幼なじみ萌え』に関しての話をしました。お聞きいただいた皆さん、ありがとうございました。以上、補遺でした。