19歳の学生作家デビューと大沢在昌の名作たち

 集英社の読書情報誌「青春と読書」3月号の見出しを見たときに、あれ? と思った。「第31回小説すばる新人賞受賞対談 増島拓哉『闇夜の底で踊れ』 大沢在昌×増島拓哉」とあるからである。受賞記念の対談といったら、受賞者と選考委員が対談するのが決まり。小説すばる新人賞選考委員は五木寛之、阿刀田高、北方謙三、宮部みゆき、村山由佳であって、大沢在昌は選考委員ではない。なぜ大沢さんなのだろう? と思って、ひもといたら、すぐにわかった。受賞者の増島さんが熱烈な大沢ファンなのである。

 「・・第31回小説すばる新人賞受賞作『闇夜の底で踊れ』は、抜群のリーダビリティとテンポの良さをもった長編小説。そのハードな内容とクオリティの高さと同時に、作者の増島拓哉さんが十九歳の大学生だったことも選考委員を驚愕させた。その増島さんがあこがれの作家として真っ先にその名を挙げたのが大沢在昌さん。緊張気味の新人作家の問いに応え、ベテラン作家が語った「作家という生き方」とは」というのが、リード文。

 このあと本文で、ベテラン作家と新人作家の対談が始まるのだが、これがなかなかおもしろい。そもそも受賞作品が、小すば新人賞にしては珍しいノワールで、パチンコ依存症の無職の男が、風俗嬢に入れ込んで借金を作り、暴力団の抗争に巻き込まれていく話である。

  というと、やや通俗的な題名もあってありきたりの物語と思うかもしれないが、そうではない。前半はやや新鮮味に欠けるものの、抗争の構図があらわになってから会話もキャラクターも弾けるし、意外な事実が次々と明らかになっていく終盤は緊迫感に包まれてわくわくする。黒川博行に迫る笑いにみちた会話、作者が多大な影響を受けたという大沢在昌の優れた語りと人物像の創出が、陰惨な暴力劇を調子のいいピカレスクに仕立てあげている。才能にみちた出色の新人のデビュー作だ。何よりも十九歳というのがすごい。

 これは僕だけの感想ではなく、大沢在昌もそう。「十九でこれだけ書けるの。すごいね。キャラクターの描き分けも上手いし、この風貌から思いつかないぐらいヤクザ業界のことをちゃんと書けている。この子は一体どういう育ち方をしたんだろうと思ったけど(笑)」といったあと、もういちど具体的にキャラクターの良さに触れ、自分のデビュー時を思い返す。 「選考委員が評価したのは、やっぱりキャラだと思うんだよね。主人公の伊達雅樹も面白い男だけど、伊達がパチンコ屋で知り合う平田っていうおっさんとか、伊達にからんでくるいいろいろなタイプの極道とか、登場人物一人一人の個性が立っている。「役」じゃなく「キャラ」になっているんだ。とても十九歳の筆とは思えないね。俺も十九のときに小説を書いてたけど、とてもじゃないけどこんなものは書いてなかったし、デビューしたのが二十三で、あなたより四歳年上だったけど、それでも今のあなたにかなうレベルじゃなかったなってつくづく思った」

 ほめすぎではないかと思うかもしれない。でも、大沢在昌の言葉に嘘はないだろう。一九七九年、二十三歳の時のデビュー作は、小説推理新人賞を受賞した「感傷の街角」で、失踪人調査のプロである佐久間公の登場作。受賞作をタイトルにした第一作品集が上梓されたのが、三年後の一九八二年で、現在角川文庫に収録されている。ちなみに解説は、僕である。解説者の僕からみても、文体の瑞々しさという点では大沢在昌に魅力があるけれど、キャラクター描写に関してはやはり増島拓哉のほうが勝っている。本当に驚くほど増島は巧い。

 一方、増島は、大沢在昌の小説の魅力を、一気読みさせる力だという。「小説を一気読みすることってあまりしないんですけど、大沢さんの本はほとんどすべて一気読みしています。どれもぶっちぎりで面白いんです」といい、「俺の作品のなかで何が一番好きなの?」と聞かれて、「シリーズものを除けば『ライアー』ですね」と応えている。 この返答を読んで、おお、増島君(と急に親しみを覚えた)、君は小説のことをよくわかっているね! といいたくなった。「どれもぶっちぎりで面白い」が、その中でも『ライアー』(新潮文庫)は抜群なのである。これはもう必読の名作といっていい。

 物語の主人公は、大学教授の夫と小学生の息子との三人暮らしをする神村奈々。「消費情報研究所」に勤務しているが、実はこれは政府の非合法組織で、国家に不都合な人物を「処理」するのが任務。そのことを夫には秘密にしていたけれど、夫の事故死のあと、身辺が慌ただしくなり、謀略に巻き込まれて死の危険にさらされていくという内容だ。

 設定だけ紹介すると、やや安手の印象を与えかねないが、最後まで読めば、おそろしく深く、実に遠いところまで読者を運んでいることに気づくだろう。組織内部の凄まじい暗闘、ヒロインの切々たる女性性の葛藤、深く響きわたる家族の愛などが、激しく胸をうつのである。ここ十年の、海外と日本のエンターテインメントの変質の中で、いかに『ライアー』が際立つ傑作であるかを、僕は解説に書いた(そう、言い忘れたが、解説担当は僕である。大物作家の輝かしい第一作品集の解説も名誉だが、個人的には『ライアー』という歴史的傑作-詳しくは解説参照-を担当できたことが本当に嬉しい)。ぜひ読んでほしい傑作中の傑作だ。

 ところで、この対談のはじめのほうで、大沢在昌が「小説家という仕事はずっと続くから、これから十年、二十年、三十年先、その時々にどんなものを書いていくが重要だと思うんだよね。いま、人生設計で、ある程度決まってることってある?」と聞くと、「いま大学二年生なんですが、卒業したら就職はしようかなと思っています」と増島拓哉はこたえている。これは大沢在昌が授賞式の二次会で、「企業と組織を知ることが作家として強みになる」と助言したからだという。大沢在昌も新人賞を受賞したとき、新聞社から内定をもらっていたが、作家の道を選び、就職しないできたことを後悔したという。

 数あるエンターテインメントの新人賞のなかで、小説すばる新人賞は打率の高さ(受賞作家のその後の活躍の度合い。大きな文学賞の獲得やベトスセラー作家への足掛かり)ではナンバーワンであり、増島拓哉は作家として十二分に活動していけると思うが、あえて就職の道を選ぶあたりが、ますます頼もしい。学生のみなさん、就職活動をしましょうね。

 さて、申し遅れたが、すでに玉井先生の文章にもあるように、四月から東北芸術工科大学の文芸学科で教えることになった。本欄でも、さまざまなことを書いていきたいと思う。どうかよろしくお願いいたします。

『異世界からの企業進出』と4月の始め

 いつも何かの本は買ったり読んだりしているのだが、昨年からハヤカワ文庫でリリースされている七士七海さんの『異世界からの企業進出』シリーズを本屋で見かけるたびに購入している。概ね買ったものは、そのまま積ん読状態にするのが常なのだが、この作品は購入後、少し時間が経過すると積まれている順番を押しのけ手に取っているので、好きなシリーズなのだとは思う。何とも歯切れが悪いのは、購入していきなりは読んでいないということが根底にあるのだろう。何はともあれ一度は積むのである。積むと徳も一緒に積んでいる気がする。そういう気分は重要である。重要。

 さておき最初、読み始めた際にはテリー・ブルックスのランドオーヴァーシリーズを思い出していた。異世界の王国が売りに出されている広告を目にした主人公が、半信半疑でそして自分自身に降りかかった不幸により自暴自棄的にその国を買ってしまう物語である。そういえば、これもハヤカワから出ていた。でも大きく違うのは王として国を支配するためにどうしていくべきかを考えるのがランドオーヴァーなのだが、『異世界からの企業進出』は一人のサラリーマンが主人公である。具体的には現実世界に進出してきた異世界の企業でサラリーマンとして雇われるため、要は一からのスタートになっている。

 この点は作品の大きなポイントになっている気がしていて、サラリーマンとして一からスタートすることが極めてゲーム的なレベル上げと連動している。もちろんランドオーヴァーと単純な対比が可能ということではない。階層を形成する基準は様々だが、階層上位に主人公が物語の最初から所属している(もしくは所属する資格がある)作品は数多く存在する。それこそ今、アニメが放送されている『賢者の孫』はその典型であろう。しかし、このような作品の場合、主人公が受けるべき枷が最初から存在していないか、存在していたとしてもスムーズに取りはずれる設計になっていることが多い。つまり駆け上がるスピードがとにかく早い。『異世界からの~』はほぼゼロからスタートしているように見える。

 とはいえ、そうは書いたものの、成長スピードはこの作品も比較的早いため、大枠では同じなのかもしれない。結局のところスタート地点の差異でしかなく、大枠の構造、そして読者への伝え方・見せ方を考えると大差ないのではないかとも思う。飽きの来ない「RPGのゲーム実況」を見ている気分になってくる。何せ主人公のパラメータが随時表示されているのだ。まだ3巻なのだが、今後、そのスピードと物語のベクトルの方向性が固定化されるのか、それとも大きく変化させるのかには一つの興味がある。個人的な感触として、一直線の方向性を段階を踏みながら進んでいく物語は目先をかえるような工夫はなされていくが、主人公の観測範囲と行動理由の拡大がなされていながらも、同じ物語法則の繰り返しの中で描かれているような気分になってしまうことが多い。ウェブ版を読んでいないので、この物語がどうなっていくのかは知らないが、一介のサラリーマンでいてほしいような、その段階はどこかでクリアしてほしいような、そんなもどかしさである。欲を言えば、そんなところすら飛び越えてほしい。読者のわがままである。

 さて一からからのスタートといえば、この4月から新年度である。新入生が入り、新しい教員・副手が文芸学科に加わった。教員の一人は文芸評論家の池上冬樹先生である。文庫の解説や新聞の書評などで何度もお目にかかってきた。特に山形や仙台で行われている文学講座・創作講座は非常に名高く、プロの作家を数多く生み出している。もう一人の教員はトミヤマユキコ先生である。トミヤマさんは、玉井と同期なので同じ時期に大学・大学院を過ごしていたのだが、ライターとして大活躍するトミヤマさんに比して玉井はこの体たらく。たまにはいい論文を書きたいものだ。そして副手の永尾さんは文芸学科一期生である。前任の飛塚さんの同期でもある。The Buildingsというバンドでも活動しているので、皆さんも聞こう。

 何より新入生の皆さん。玉井はガイダンスで松智洋さんの言葉を借りて、「当たり前のレベルを上げよう」と話をした。もちろんこの考えに従う必要もない。皆さんには何もしない自由もあるし、すべてのことに打ち込んでいく自由も存在する。何をしなくてもいいし、何をやってもいい。でも、そのすべての責任は自分で取っていくことになる。どうせなら、大変なほうがいいじゃないか。世の中、小説の主人公のように軽々とは乗り越えられないんだから。

 

岡本健編『コンテンツツーリズム研究〔増補改訂版〕 アニメ・マンガ・ゲームと観光・文化・社会』に寄稿しました。

 岡本健編『コンテンツツーリズム研究〔増補改訂版〕 アニメ・マンガ・ゲームと観光・文化・社会』(福村出版、2019)に寄稿しました。玉井の文章は「コンテンツツーリズムの歴史」、「史料分析」、「地域の歴史とコンテンツツーリズム」の3つになります。

 本書をお読みいただければわかると思いますが、コンテンツツーリズムという枠組みは非常に多岐にわたっています。作品論という切り口だけではなく、観光学・経済学・経営学・心理学・社会学……の中に歴史学からのアプローチも入れていただきましたが、要は一つのことを見るのにいろいろな考え方が存在するわけです。この4月に大学に入学し、研究したいこと、考えたいこと、書きたいことがたくさんあって、でも、何をどうしていいのかわからないという人も多いかと思います。世の中は複雑で、そんな簡単にわかるわけはないよ、とか斜に構えるのではなく、まずは触れて考えてみましょう。その際、研究の一助として本書を手に取っていただければ幸いです。

https://www.fukumura.co.jp/book/b451080.html

しょっぱなからフル稼働

新年度一発目の授業、新一年生を対象にした「想像力基礎ゼミ」が始まった。1限から4限までのぶっ通し。まだあどけない高校生が、徐々に変化していくさまを見届けるわけですね。 彼らが何に反応するのか、探りながら進めていくつもり。 夕方は「文芸ラジオ」の定例会議。 ゼミ生の原稿に赤字を入れて返したあとは、来週の「日本語表現基礎」の資料のための文献をひたすら入力。 まだ始まったばかりなのに、なんだか怒涛のナルトの渦に巻き込まれてる感じ?

「乾いたメロディは止まらないぜ」

 日本は南北に長い。

 みたいな話はよく聞くのだが、愛媛から東京へ、東京から山形へと移動してきた身としては、それを体感しながら最近は生きている。別に南北である必要はなく、東西でも、県によってでも、山沿いか海側か、川の近くで生活しているか、平屋かマンションかでも基準は何でも良い。

 3月30日に開催された「春のストーリー創作講座」は文芸学科主催で行われ、冬に引き続き、石川先生と玉井が担当している。2月の「冬のストーリー創作講座」では玉井が主に喋ったのに対し、今回は石川先生が話をする回であった。ここ数年は2月3月と連続で、このストーリー創作講座を行っており、恐らく来年も同様に行うのだとは思う。高校生の皆さん、お待ちしております(ちなみに次は5月のオープンキャンパス!)。さて、その「ストーリー創作講座」の頭に「冬」と「春」が付くのだが、どっちも寒い時期だから「冬」一択じゃないかと毎回思っている(とはいえ何が良いのかと言われると、特に代案もないのだが)。

 これは私の「冬」の基準が、愛媛県あたりの経験値ではかられてしまっているせいだとは思うが、当然ながら場所により、土地により、風土により、様々なものは変化していく。そのことは大学生の時に読んだ網野善彦の『東と西の語る日本の歴史』(講談社学術文庫、1998年)を読んで、「なるほどー」とカッコつけて頷きながら理解していたつもりなのだが、やっぱりつもりでしかなく冬の寒さは体感できていなかったといえる。

 そのことは小説を読んでいるときも感じられて、先日、手に取った川澄浩平さんの『探偵は教室にいない』(東京創元社、2018年)では作品内容もさることながら、そこで描かれる風土的な描写で「え、10月なのにもうストーブ?」と思ったり、「あー、もうこの時期ということは、寒いわー、よく歩きながら会話できるな」とか考えたりする。さすが北海道。試されている。作者としては当たり前のことを書いているのかもしれないが、一度、寒いことを経験した身からすると気になって仕方ないのである。数年前までなら読んでいても特に気になることもなくスルーしていただろうから、世の中経験してみるものだ。

 さて、このように色々考えることができたのも、今現在所属している東北芸術工科大学芸術学部文芸学科に来たからである。そうでなければ寒い土地に来ることはないであろう。今でもある程度当てはまるかもしれないが、地理関係が全然把握できておらず、来る前までは秋田県と山形県の位置関係はぼんやりとしか把握できていなかった。そのぐらい遠い土地であり、漠然とした寒さに包まれているイメージであった。その文芸学科に、私が来るより前から所属していた山川健一先生、川西蘭先生、そして副手の飛塚さんが前年度をもって退任された(私が来たとき、飛塚さんは学生として所属していた)。お三方には大変お世話になり、感謝は尽きないのだが、ここでブログとしても残しておこうと思う。

 よく「喧嘩別れですか?」とか「辞めさせたんですか?」とかいろいろなことを聞かれるのだが、なぜみんなマイナスなことしか言わないんだ。そんなわけないだろう。定年やら任期満了やらでの退任である。

 それはさておき現在の大学に来るまで複数の大学で仕事してきたので、人が去るのが当たり前の世界だとは思っていたが、やはりお世話になった人が離職していくのは、どこか感傷的になってしまう。3月31日はお世話になっていた吉田正高さんの命日であり、4月1日から新年度がはじまる。思っていたより寒い年度末(雪も少し降っていた!)を経験すると、この感傷は否めないのかもしれない。

BGM:あいみょん「君はロックを聴かない」

「絵文字は苦手だった」

 ついに手に取ってしまった。以前より周囲のオタクな感じの人たちは、ほぼ全員読んでいるのではないだろうか、と錯覚してしまうかのごとくヒットしている作品がある。谷川ニコさんの『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』が更新されるたびにtwiterが動き出し、つぶやきが加速し、ファンアートが描かれ、二次創作の漫画が描かれていく。ここまでで数時間は最低でも経過している。更新後の数時間は祭りである。その通称ワタモテの単行本をこの3月は読みふけっていた。読み終わったときに虚脱感に襲われてしまい、流れるままにweb更新も読んでしまうようになった。普段は連載を読まないというのに。

 先週の更新は3月21日の午前0時である。読む。当然だ。読むに決まってるだろう。twitterも見るだろ。イラストも、他人の解釈も読みまくりである。しかし、こう見えて、仕事をしている大人なので、ここらへんではたと気づくのである。数時間後には卒業式があるではないか。

 もちろん卒業式には寝不足で参加することになる。頭の中にはワタモテしかないので、卒業生と保護者の皆さんにはワタモテの話をすることになってしまった。

 ワタモテは主人公の女子高生が、オタクであり他人とのコミュニケーションをとることが非常に困難と思い込んでいる。連載当初は、その痛々しさが強調される物語が描かれ、「一日に一回、他人と会話ができるかどうか」というように、彼女自身が目指しているもの、取り組んでいること、しかし実際にできることの乖離が非常に激しく、そこを楽しむ物語だと思う。いや、そこに感情移入し、「お前は俺か」になってしまうのだが、まあ、その楽しみ方は置いておこう。

 これに対して、物語が進むにつれて、主人公の評価が大きくかわっていく。当初はいわゆるスクールカーストの最底辺に位置づけられ、そのことをおそらく主人公も読者もそして教室内の人々も共通認識として抱いていたと思う。彼女自身は常にオタクであり続け、周囲とのコミュニケーションも積極的には行っていかない。これはスクールカーストの底辺ととらえることは当然可能ではあるが、教室内の権力関係から完全に逸脱していると考えることもできる。要は他者に合わせて自分を変容させていくわけではなく、彼女自身は彼女自身としてぶれない存在としてあり続けるのである。そして何が起きるかというと、その生き方に少しずつ惹かれる同級生の女性が増えてきて、主人公は人に囲まれながら生きていくことになる(1巻と14巻の表紙を比較するとわかりやすい)。10巻をこえたあたりになると、世の中の百合クラスタが騒ぐようになり、更新とともに祭り状態になっているのである。

 このような生き方は、今の時代では非常に難しい。教室という狭い人間関係に身を置きながら、他者の視線を認識しつつも、そこからの関係性にはからめとられない。その生き方を選ぶことは、客観的な視線を他者だけではなく自分自身にも向ける必要性が生じる。非常に大変だ。卒業していく学生さんたちは、これまで教室の権力関係の中に居続けたと思う。もしかしたら大学でもそうだったかもしれない。そして4月からはどのようなかたちであれ、大学という場からは出なければならない。もしかしたら仕事に大きな希望を持っているかもしれないし、大きな不安を抱えているかもしれない。でも日本社会の特性というか、地域性や業種・職種に左右されるかもしれないが、職場という空間もまた大小あれどもこれまで経験してきた共同体と連続性を持っている。

 職場で趣味の話はできないかもしれないし、他人に合わせて美味しいスイーツの話をしなければならないかもしれない。上司の飲みの誘いは断ってはいけないかもしれないし、先輩にはビールを注がなければならないかもしれない。サラダは取り分けるし、週末に好きな声優のイベントがあっても休日出勤をしなければならないかもしれない。もちろん、これをすべて気にせず、自分の心が赴くままに行動をしても良い。しかし、そうしたら当然、すべて自らの責任として圧し掛かってくることになる。なので丹羽庭さんの『トクサツガガガ』の主人公のように自らのオタク的側面を職場では見せないまま、会社員として生きていくことも選択肢として存在している。

 何をどう選ぼうとも皆さん自身の責任として返ってくる。一つだけ言っていくと、ワタモテの主人公みたいには、なかなか上手くいかないぞ。というようなことを文芸学科の学位授与式で卒業生と保護者の皆さんに話をした。寝不足のまま即興で喋ったわりには、きちんとまとめられたと思う。

BGM:YUI「CHE.R.RY」

「こごえる季節に鮮やかに咲くよ」

 年が明けてから通常授業、入試、採点、授業の課題評価(講評書き)、卒展イベント(複数)、高校生の課題への講評書きに取り組んでいると、気づいたら2月もかなりの時間が経過している。そして避暑ならぬ避寒のために山形から東京に移動し春休みを過ごしているのもまた、ここ数年の恒例となっている。毎年のことながら、春休みだからといって楽になるわけではなく、4月以降の授業準備に取り組んでいるし、自分自身の研究もしなければならない。残り日数を数えると、とにかく時間が足りない。

 なかなか避寒という概念を他人には理解してもらえず、多くの人に「そんなに寒いわけないじゃん」と言われてしまう。この「そんなに寒いわけない」というのは、北国の人からは「山形市は大して雪は積もらないし、それほど寒くはない」の意味を持っているし、南のほうの人からは「雪国とかに住んだことないけど、数年に1回ぐらい雪の降る感じから想定すると楽勝でしょ」という意味合いになってくる。そうではない。違うんだ。というのは心の叫びとして飲み込んで、「いやー、そうですか」と返答している。

 とはいえ、いろいろ片づけた上で春休みをむかえているので、気分はかなり楽になっている。授業準備のための読書は、何で自分はこれほどまでに本を読んでこなかったのだろうか、この程度の読書スピードしかないのか。という心の戦いではあるが、でも、あっという間に手に取ったことのない小説や論文に知的好奇心を刺激され続けることになる。授業準備としての読書と趣味としての読書と研究としての読書をしていると、一日が短すぎるのである。

 趣味の読書として、いまさらながら丸山くがね『オーバーロード』(エンターブレイン)を読んでいる。概ね一日一冊ずつ読んでおり、先ほど13巻に入ったので最新刊に追いついてしまった。ああ、次は何を読もうか。この作品自体は発売当初に1巻を読んでいたのだが、そのまま放置し忘れていた。しかし昨年の後期、ゼミのゲストとしてお招きした漫画家の今井哲也さんが、学生たちへの推薦作品として漫画版(作画は深山フギン)を挙げられたことが再読の契機である。もちろん、挙げられたのはこの一作品だけではなく複数あったのだが、取り上げた理由として物語の構造を指摘されていたのが印象深い。そこで小説をきちんと読もうと思った次第である。

 既読の人にとっては当然かもしれないが、この『オーバーロード』シリーズは巻によっては主人公さえも入れ替えて物語を進めている。簡単に言ってしまえば、それだけなのだが、物語の大枠を崩さないままに違う主人公を描き続けることは、非常に難しい。メインコンテクストとサブコンテクストという中長編レベルの問題だけではなく、長編から大河小説的な構造の中でも同じ構造をさらにもう一段階、示していることになる。本来の主人公を主人公としつつ、巻によっては傍観者にまで押し込むのだが、それでも数巻にわたる大枠の中からは外れないのは見事であろう。多くのウェブ小説が、構造をこのような入れ子にせずに、連続化していくことに比すれば、描く際の難しさは理解できると思う。

 もちろんそれ以外の様々な点も読みながら、「なるほどー」と感心しているのだが、まあ、それは置いておこう。結局、趣味と言いながら、授業でどう活かすかにたどり着いてしまう。久しぶりのブログ更新なので、リハビリのようになってしまった。

BGM:宮本浩次「冬の花」

玉井建也「歴史コンテンツとメディアとしての小説」が出ます。

 今年度は例年よりなぜだか忙しくて、よくわからないことが多発し、自分自身の脳みその限界を感じながら生きていた。そのわからないことの代表的なものが「この文章を書いたっけ?」である。そう、この論文のことは結構、忘れている。けど、書いたことは書いたし、書いたこと自体は覚えている。

 一応、この論文は以下の論文の流れの中で書いているつもりではある。

 歴史とフィクションの問題を、あーでもない、こーでもない、と外周を回りながら、近づいたり、遠ざかったりしている気がする。なかなかもどかしい。ここ数本の論文では、ネット小説を取り上げており、この点は今回も同様ではあるが、次はまったく違うアプローチをしよう。そう思いながら、春休みをむかえたはずなのに、ずっと課題を読み、講評書きを行っている現実である。

 最後にこの論文で取り上げた作品を以下に列挙する(学術書・研究論文は今回はカット)。

歴史遺産学科とのコラボ冊子完成

後期に歴史遺産学科の北野先生ゼミと文芸学科野上ゼミがコラボレーションして制作した、楢下宿を紹介・解説する冊子「楢下宿 ノスタルジックな宿場町」が完成しました。

楢下宿は山形県上山市内の、江戸時代の町並みが残る歴史的価値の高い地域です。この地域の調査をしてきた北野先生のゼミの成果を、多くの人に伝えられるような冊子にまとめる、その編集制作のところを野上ゼミの学生が担当しました。

学生たちも何度も楢下宿に通い、取材や撮影をして、モデルまで自分たちでやって、趣のある冊子に仕上げたと思います。

デザインは『文芸ラジオ』でもお世話になっているCOAさんに依頼しました。単なる観光パンフレットではないので雰囲気づくりが難しかったと思いますが、さすがの仕上がりです。「歴史の古さもありつつ今っぽい感じですかね」と、わけのわからないオーダーをしたんです。見事に実現してくれました。

こうした実践的な演習は、学生たちも大変ですが、本当に力がつきます。今後も積極的にこういう制作物に取り組んでいきたいですね。

教員も大変だけど。