『かわるがわる変わる』と授業第五週目

 第五週目はオープンキャンパスですべてが語りつくされる……ような気がするが、そのようなことはなく通常の授業も行っている。そのため疲労感は倍増する。普段は接することのない高校生の皆さんとオープンキャンパスという場で語ることは、新しい経験でもあるし、自分の半分ぐらいの年齢の人々が今は何を読み、何を見ているのかは興味深いところでもある。何より大勢の高校生の皆さんが文芸学科に足を運んでいただき、大変うれしい。そしてオープンキャンパスで意図せずしてよく聞かれるのは、「授業で漫画を取り上げているが、どのようなものか」というものと、さらにはその質問に地続きな感じで「最近のおすすめの漫画(もしくはアニメ)は何ですか」となる。

 おすすめ問題はきわめて根深く、高校生が特別、数多く質問するわけではなく誰でも聞くことであるし、僕だって聞く。他者が何を考えているのかの入口として、作品やクリエーターの具体名を聞き出していく作業は別に非難されうるものではない。しかし、ひねくれてしまっている自分は「それを聞いてどうする。右から左に作品をすべて読んでいけばいいではないか」などと思ってしまうのである。これは主に「最近読んで面白かったのありますか?」とか質問してしまった自分自身に対しての疑問である。他者との会話の中で、自分に聞かれると何も考えずに答えていくので面倒くさい(なので嫌なわけではないので、今後も気にせず聞いて!)。

 とはいえ、このおすすめ本に関して本質的にはどうでもいい。一番面倒なのは、玉井の存在でもなく(いや、面倒なんだけど)、授業の話と連続性をもって質問が登場するときである。「教員はおすすめ本を授業で使っているに違いない」という考えのことだ。この点がいかに違うのか、ということを以前のブログに書いたような気がするが、大事なことなので二回も三回も書こう。書いておこう。書くのだ。

 大学の授業しかしたことがないので、それ以外はわからないのだが、基本的に学科内でも大きなカリキュラム構想の中で個々の授業内容が構築されている。より巨視的な見方をすると大学のディプロマポリシーの中で授業は作られていくのだが、それを個々の学科に落とし込み、さらに詳細を作りこんでいくのである。そして個々の授業に課せられた目標に合わせるかたちで、15回のうちの1回分の授業内容を考え、作っていく。その過程の中で、それぞれの意図(例えばキャラクター造形や物語構造、文体や書き出しなどなど)に合致する作品を取り上げているだけである。したがって、そこに教員の好みが反映されることは、皆さんが思っている以上にない。もちろん、ある程度は好きな作品・作家を取り上げるのだが、現実はそれだけではうまくいかないので、好きかどうかという基準で判断していない作品について考え、語ることになる。

 私としてはこれまで触れてこなかった作家・作品について考えるのは、非常に面白く、授業を行っている自分自身の可能性を広げ続けることにつながっているのではないか、と思っている。だいたい一番好きな作品は、もう何度も読んだし、いろいろと考えているではないか。そこから広げるためには未知のものに手を伸ばすしかない。でも、ああ、ここで問題が起きてしまう。こう書いてしまうと、以降、授業で取り上げた作品に対して、この教員は好意的ではないかもしれないという疑惑を与えてしまうような気がしてならない。それは「好きな作品を取り上げている」という間違った解釈の対称でしかない。「授業では好きな作品を取り上げている」と「授業では嫌いな作品を取り上げている」は同位相的に間違っていることになる。

 さて通常の授業でも漫画作品を取り上げることはあるのだが、毎週取り扱っているのはゼミである。第五週のゼミでは藤緒あいさんの「ビーフカツレツ」(『かわるがわる変わる』祥伝社、2017年、所収)を取り上げた。この作品が優れているのは、男性が女性に対してプロポーズをするという極めて単純なストーリーを重層的に描くことで、エンターテイメントとしての濃度を上げている点だと思う。レストランでプロポーズする男性と女性という存在があり、それを主軸に物語の展開自体は行われるのだが、その外枠として観察者である女性と男性(両方ともレストランのバイト)が存在する。この観察者が作品の主人公であり、そのことはコマ割りやビジュアルで明確に把握できるように設計されている。シンプルなストーリーラインを重層的に形作ることで、そして漫画的な設計を施すことで(だってプロポーズのシーンよりウェイターのほうがカメラが寄ってるんだよ)、読者が受け取る物語的な情報量が増幅していく。みたいなことを、もっと理論的に語ったりしている。

 まじめに考えてはいるのだが、別に学会発表ではないので、かなりフランクにゼミ自体は進めている。それがいいのか悪いのかはわからないが、提示された作品に対する考え方の一つを提示しているだけであって、別にそれが絶対ではないし、学生側から別の読み方が提示されることもある。あとは参加する学生さん自身が、家に持って帰り、沈思黙考しているとき、そして自らの制作をする際に、どういかされていくのか、でしかない。

池上冬樹の50冊(解説を担当した文庫本から)

 5月25日、東北芸術工科大学でオープンキャンパスが開催された。
 文芸学科の会場では、各教員の「教員の本棚」が設けられたが(「オープンキャンパスと忘れがたき本たち」参照)、そのほかに各教員が選んだ「お薦め50冊」の棚も作られた。「教員の本棚」は品切れ・絶版本でもOKだったが、こちらは新刊本が条件だった。
 何を選ぼうか迷ったけれど、読んでほしい文庫本がたくさんあるので、宣伝をかねて、自分が解説を担当した文庫本を50冊選んでみた。会場の都合で、ほかの先生方の本と紛れてしまったので、ここで僕がリストアップした50冊をあげてみることにする。

■池上冬樹の50冊(解説を担当した文庫から50冊)

▼文学賞およびミステリ・ベストテン第1位に輝いた名作(15冊)
・阿部和重『シンセミア』(講談社文庫)※伊藤整文学賞&毎日出版文化賞
・荻原浩『オロロ畑でつかまえて』(集英社文庫)※小説すばる新人賞
・恩田陸『夜のピクニック』(新潮文庫)※本屋大賞
・小池真理子『欲望』(新潮文庫)※島清恋愛文学賞
・佐藤賢一『王妃の離婚』(集英社文庫)※直木賞
・中島京子『かたづの!』(集英社文庫)※柴田錬三郎賞ほか2賞
・宮部みゆき『理由』(新潮文庫)※直木賞
・横山秀夫『第三の時効』(集英社文庫)※「この警察小説がすごい」オールタイム1位
・連城三紀彦『隠れ菊』(集英社文庫)※柴田錬三郎賞
・渡辺優『ラメルノエリキサ』(集英社文庫)※小説すばる新人賞
・ベン・H・ウィンタース『地上最後の刑事』(ハヤカワ文庫)
 ※アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀ペイパーバック賞
・ボストン・テラン『神は銃弾』(文春文庫)※「このミステリーがすごい」第1位
・ジョン・ハート『ラスト・チャイルド』(ハヤカワ文庫)
 ※アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀長篇賞&英国推理作家協会賞最優秀賞スリラー賞
・トム・フランクリン『ねじれた文字、ねじれた路』(ハヤカワ文庫)
   ※英国推理作家協会賞ゴールド・ダガー賞&LAタイムズ文学賞
・ローリー・リン・ドラモンド『あなたに不利な証拠として』(ハヤカワ文庫)
  ※「このミステリーがすごい」&「週刊文春ミステリーベスト10」第1位

▼現代の古典および古典的名作(8冊)
・福永武彦『幼年 その他』(講談社文芸文庫)
・開高健『青い月曜日』(集英社文庫)
・『冒険の森へ・傑作小説大全 第3巻/背徳の仔ら』(集英社)
 ※大藪春彦『野獣死すべし(付・復讐篇)』黒岩重吾『裸の背徳者』所収
・ウイリアム・アイリッシュ『幻の女』(ハヤカワ文庫)
・グレアム・グリーン『ヒューマン・ファクター』(ハヤカワ文庫)
・トレヴェニアン『シブミ』(ハヤカワ文庫)
・ジョン・ル・カレ『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』(ハヤカワ文庫)
・スティーグ・ラーセン『ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士』(ハヤカワ文庫)

▼ベテラン作家の傑作(10冊)
・伊集院静『新装版 三年坂』(講談社文庫)
・北方謙三『抱影』(講談社文庫)
・川上弘美『夜の公園』(中公文庫)
・高樹のぶ子『マルセル』(文春文庫)
・辻原登『寂しい丘で狩りをする』(講談社文庫)
・宮本輝『草原の椅子』(新潮文庫)
・森村誠一『地果て海尽きるまで』(ハルキ文庫)
・リー・チャイルド『アウトロー』(講談社文庫)
・ピエール・ルメートル『傷だらけのカミーユ』(文春文庫)
・デニス・ルヘイン『過ぎ去りし世界』(ハヤカワ文庫)

▼人気作家の出世作(8冊)
・有川浩『植物図鑑』(幻冬舎文庫)
・伊坂幸太郎『ラッシュライフ』(新潮文庫)
・石田衣良『池袋ウエストゲートパーク』(文春文庫)
・熊谷達也『山背郷』(集英社文庫)
・高見広春『バトル・ロワイアル』(幻冬舍文庫)
・法月綸太郎『新装版 頼子のために』(講談社文庫)
・宮部みゆき『本所深川ふしぎ草紙』(新潮文庫)
・ユッシ・エーズラ・オールスン『特捜部Q 檻の中の女』(ハヤカワ文庫)

▼隠れた名作(9冊)
・井上荒野『ママがやった』(文春文庫)
・大沢在昌『ライアー』(新潮文庫)
・奥田英朗『沈黙の町で』(朝日文庫)
・北方謙三『擬態』(文春文庫)
・片岡義男『花模様が怖い 謎と銃弾の短篇』(池上冬樹編、ハヤカワ文庫)
・佐々木譲『夜にその名を呼べば』(ハヤカワ文庫)
・佐藤正午『身の上話』(光文社文庫)
・瀬尾まいこ『優しい音楽』(双葉文庫)
・葉室麟『千鳥舞う』(徳間文庫)
                                       
 以上の本の一冊一冊に思い入れがあり、詳しく紹介したい気持ちが強いので、いずれ紹介できればと思う。数えてみると、文庫解説は400冊を超えるので、50冊は8分の1にすぎない。品切れ・絶版になってしまったものにも歴史的な名作がたくさんあるし、いまや新古書店やアマゾンでも簡単に入手できる時代に入ったので、そちらもとりあげていきたいと思っている。お楽しみに。

オープンキャンパスと忘れがたき本たち

 5月25日、東北芸術工科大学で、オープンキャンパスが開催された。
 文芸学科でも学生たちとともに高校生&保護者のお相手をしたけれど(多数のご来場ありがとうございました!)、なかでも仙台の高校生と、伊坂幸太郎や宮部みゆきの話が出来たのが嬉しかった。まあ、僕が伊坂さんの『ラッシュライフ』、宮部さんの『理由』『本所深川ふしぎ草紙』の解説を担当していることを知らなかったようだけれど(前者は読んでいるみたいでしたが)。

 高校生たちと話をするのも面白かったけれど、合間をぬって、会場に置かれた学生たちが紹介する本を眺めるのも楽しかった。高校生たちに読んでほしい本がたくさん並んでいて、そこには短い書評もついていて、なかなか書ける学生もいて頼もしかった。

 個人的には、片桐はいりの『グアテマラの弟』(幻冬舎文庫) を“発見”した。女優としての活動は知っていたけれど、文筆家としては知らなかった。いや、どうせ女優の片手間仕事(顔で書いた芸能本)でしょうと甘く見ていた。でも、活字を追っていったら、やめられなくなり、しばし読みふけってしまった。いやあ、うまいね! この人。エッセイスト片桐はいりの文章をもっと読まなければと思った。

 そのほかでは、同僚の先生方の「教員の本棚」が興味深かった。文字通り、先生方が過去に影響をうけ、現在も身近におかれている本たちで、1人15冊という決まりで、それぞれの個性がうかがえて、なるほどなるほどと思った。
 ちなみに、僕の「教員の本棚」は以下。コメントと15冊のリストです。

 小学校四年の時に江戸川乱歩の少年探偵団ものに魅せられて小説に夢中になり、六年のころにはエラリー・クイーンやヴァン・ダインなど本格ミステリを読んでいたが、中学では家の本棚にあった世界文学全集をあさり、特にヘミングウェイの『武器よさらば』に感動。でも高校では福永武彦の『忘却の河』と出会い、一転して日本文学に。辻邦生、森内俊雄、吉行淳之介、野坂昭如、三島由紀夫、石川淳と日本文学にどっぷりとはまり、大学では日本文学科を専攻した。しかし別名義で本格ミステリを書いていた福永武彦の弟子筋(?)から結城昌治のハードボイルドを手にして一変。ハードボイルドにはまり、とりわけ結城昌治が影響をうけたロス・マクドナルドにノックアウトされて、日本文学と並行して、本格的に海外ミステリ(エンターテインメント)の渉猟を開始した。
 あれから40年。小説は読めば読むほど面白い。日本および海外の小説のみならず短詩型の文学や評論などにもたくさん影響をうけた。リストアップした15冊の半分は座右の書であり、残り半分は忘れがたい本である。

・福永武彦『忘却の河』(新潮文庫)
・吉行淳之介『暗室』(講談社文芸文庫)
・小川国夫『生のさ中に』(角川文庫)
・立原正秋『暗い春』(角川文庫)
・結城昌治『あるフィルムの背景』(角川文庫)
・開高健『夏の闇』(新潮文庫)
・森内俊雄『短篇歳時記』(講談社)
・笠原和夫・絓 秀美・荒井晴彦『昭和の劇 映画脚本家・笠原和夫』(太田出版)
・道浦母都子『無援の抒情』(岩波現代文庫)※歌集
・岡井隆『「赤光」の生誕』(書肆山田)
・アーネスト・ヘミングウェイ『武器よさらば』(新潮文庫)
・ロス・マクドナルド『ウィチャリー家の女』(ハヤカワ文庫)
・ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』(文春文庫)
・リチャード・スターク『悪党パーカー/怒りの追跡』(ハヤカワ・ミステリ)
・池上冬樹『ヒーローたちの荒野』(本の雑誌社)

                                        
 以上が掲載された文章とリストだが、実は、結城昌治に関しては、最初『暗い落日』(角川文庫)をリストアップしていた。ところがいざ本棚を見たら、ない。自宅のどこかにあるはずだが、あちこちの山を掘り返さないと見つけられない。時間と労力がもったいないので、仙台の萬葉堂(どでかい古本屋。古本マニアの聖地。ジャンル別アイウエオ順に並んでいるので、さしづめ県立図書館みたい)や、山形の香澄堂書店でも探したのだが(そのほうが簡単)、でも見つけられない。

 『暗い落日』に関しては講談社文庫版と、それを基にした中公文庫版もあるが、僕はどちらも認めない。『ヒーローたちの荒野』にも書いたことだが、結城昌治は亡くなる前に、物語の時代背景(戦後の混乱が残っていた昭和30年代の背景)をそのままにして、古い用語と貨幣価値をあらためたから、いびつな世界になってしまった(数千億円の大富豪の娘が2階建てのアパートに住んでいて、親子電話でよびだされ、高級車ブルーバードに乗っている・・なんてどうみてもおかしい)。何よりも鍵となる老人の憤怒と後悔が、1980年代まで普通に使われていた言葉(現在では差別用語)を通して語られるのに、新しい言葉に直したものだから、なんかよそゆきの感情になり、作り物染みてしまった。

 仕方がないので、『あるフィルムの背景』(角川文庫)にしたけれど、警察小説の名作『夜の終る時』でも、スパイ小説の古典『ゴメスの名はゴメス』でも、渋い連作『死者たちの夜』でも、玄人の人気が高い『幻の殺意』でもいい(ただし全部角川文庫版。学生のときに夢中になって何度も読み返したので)。

 実は、コメントにもあるように、三島由紀夫に惚れ込んでいたので、リアルタイムで読んだ『豊饒の海』四部作(『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』)をリストアップしたのだが、大学までもっていくにはあまりに重く(『昭和の劇』も分厚くて重い)、文庫本に変更するには寂しく(豪華絢爛な単行本の装丁がいいからね)、愛着のある立原正秋の『暗い春』にした(いくらでも二番手三番手四番手がいる)。

 ちなみに、『豊饒の海』四部作、それから福永武彦の『死の島』(上下巻、河出書房新社)、辻邦生『背教者ユリアヌス』(中央公論新社)が、高校時代に読んだ忘れがたき新刊本で、三つとも、あまりの面白にさに「結末などないほうがいい!」と思ったほどである。『死の島』も『背教者ユリアヌス』もとても分厚くて、いつまでも読み終わらない幸福(それは残り頁の厚さを手で確認することでもある)をとことん味わうことができた。いまでは二作とも容易に文庫本で入手できるけれど、文庫本では物語の厚みを体感できないので、ぜひ古本の単行本を求めてほしい。『死の島』の単行本には、物語の時間を整理したカレンダーの栞もついていて、過去と現在の往復がより明確に確認することができる。長い独白、小説内小説、三つの結末など小説の方法に挑戦した、戦後最大の実験作の一つでもある。

 そういえば、いま思い出したのだが、『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』『死の島』『背教者ユリアヌス』はみな、大学に上京したときに山形から持っていった本である。北烏山のアパートでも何度も読み返した。

 さて、いまの大学生たちは何を部屋に持ってきたのだろう。そして来春大学に入る高校生たちは、何をもって山形にくるのだろうか。ちょっと聞いてみたいものだ。

『友情だねって感動してよ』、『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』と授業第三週・第四週、そしてオープンキャンパスへ

 なんというブログの記事タイトルであろうか。二週間分を一気に更新しようだなんて。授業期間中に毎週更新ぐらいはしてみよう、と大して深く考えもせずに取り組み始めてしまったが、この体たらくである。第三週どころか第四週まで食い込みながら、二週間分を一気にお届けするのだ。責任者出てこいの気分である。

 日記をまじめに書いている人にはわからない感覚かもしれないが、1週間以上経過してしまうともう何が起こっていたのか、そしてその出来事を覚えていたとしても、自分自身がどう受け止め、何を考えていたのかは遠い記憶の彼方になっている。過ぎ去っていく日々は、どれも均質化されてしまい、単なる過去として脳内処理されがちなのだ。と言い切ってみたが、学問の端っこに身を置いている立場としては、本来はそう考えてはいけないものなのだろう。その誰かにとっては見るべくものない過去かもしれないしが、誰かにとっては重要かもしれない過去を、忘れそうな記憶を、忘れ去れられそうな記録をも、考えていかなければならない。

 さて記憶を掘り起こしながら書いているが、一年生向けの「作品読解」という授業の第三回目では小嶋陽太郎さんの『友情だねって感動してよ』(新潮社、2018年)、第四回では町田そのこさんの『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』(新潮社、2017年)を取り上げた。毎年、この授業は一年生が受講することが多いので(二年生以上で受講している場合は、前の年に単位を落としていることになる)、入学して間もない皆さんが抱えるいろいろな不安や新鮮な感動を描く作品を取り上げようとセレクトしている。特に今年は様々な短編を読んでいくうちに気になる作家や作品が数多く目に留まってしまったので、この路線を第五回の授業まで引き延ばすことにした。

 個人的には物事を考えることへの矛盾や理不尽さは確実に存在していて、そのことを時間をかけて、ある部分では受け入れ、ある部分では反発しながら生きてきたように思う。そのことを今から振り返って考えてみると、学生のときに吸収した作品を自らの血肉として考え、文章でも論文でも何かしらアウトプットしていくことができるようになって、ようやく考えることができるようになったのではないだろうか。ただ、簡単に書いたけれども、インプットとアウトプットは連動しつつも、両方ともに一朝一夕にできるようになったわけではない。その最初の一歩として(人によっては二歩目、三歩目かもしれないが)、この授業を受け入れ、10年後ぐらいに振り返って欲しいなあ、というよくわからない気持ちで授業を行っている。要はおっさんになったということでもある。

 その文脈で小嶋陽太郎さんの『友情だねって感動してよ』も町田そのこさんの『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』も、両作品ともに既存の認識の枠組み内に居続けることの息苦しさを描いた作品として取り上げた。もちろん既存の枠組みに入り込むことが悪いわけではなく、それは社会としてそして人としてある一面では非常に正しいし、何より楽である。とはいえ、人間、譲れないものはどこかにあるもので、その線引きがどこに行われるか、そしてその線引きが枠をはるかに超えてしまう場合だって往々にしてあるのだ。そのときに周囲の目を気にして息苦しくなるよりは、別の場所で生きること、別の考えを身につけることは自分自身の大きな自信になるし、大きな武器になると思う。

 そのことを忘れないで欲しい。そう書きつつ、今週末はオープンキャンパスが開催される。高校生の皆さんが、大学に来て、うちの文芸学科に来て、学びたい、考えたい、叫びたい(別に声に出して叫ぶ必要はないけど)という願望があれば、ぜひ足を運んで欲しい。我々は常に皆さんをお待ちしています。

 オープンキャンパス情報は以下の通りです(大学全体のページはこちら)。教員の面談・作品講評は随時行っています。

  • 5月25日(土)スケジュール
  • 13:00-13:30 学科説明(担当:石川) 文芸棟(図書館2階)204教室
  • 13:40-14:20 物語・ストーリー創作講座「ノベルクサ」(担当:玉井) 文芸棟(図書館2階)205演習室
  • 14:30-15:10 物語・ストーリー創作講座「3キャラでストーリーを作ってみよう」(担当:トミヤマ)文芸棟(図書館2階)205演習室
  • 14:30-15:00 (担当:石川) 文芸棟(図書館2階)204教室

『スキップとローファー』とゴールデンウィーク

 これが年を重ねたということか、と思うことが多くなっているのだが、その一つとして学校を舞台とした作品に対する興味関心が薄れていることが挙げられる。現在地からの時間的距離感が生まれてしまうことによるものだろうとは思う。もちろん嫌いになったわけではないし、学園ものが発売されたところで別にそれを理由に忌避することもないのだが、ただそれだけで魅力的に思えるほどではなくなっている。物語のパターンや空間に既視感が生まれてしまうことは致し方ないとはいえ、そもそも学校という空間に期待なんかしていないからではないかと自問自答をしたりもしている。教育空間に身を置いているというのに。そのため連休になり積読を崩そうとして、ようやく高松美咲さんの『スキップとローファー』(講談社)を手に取ることになった。

 連休とは良いもので、たまっている仕事に取り組むことに注力できるようになるし、自然と睡眠と読書の時間も取れるようになる。10連休だろうと5連休だろうと何でも良いのだが、連休は素晴らしい。連休に長いも短いもない。長くて休めない人は休み方を知らないだけで、ダラダラ過ごしてしまうのではないだろうか。本を読もう。なんでも読もう。そのぐらいのおおらかな気持ちで、連休中に『スキップとローファー』を読み始めた。正直に書こう。読む前は、そして物語の冒頭までは「また、この手の話か」と思っていたが、読後感は最高であった。「SFじゃないのか」と思ってすみません(前作『カナリアたちの舟』は素晴らしきSF作品だった)。

 物語は過疎地域で育った女子学生が、進学した高校で経験したことのない人間関係や社会状況に身を置いていくものである。何が良いのかというと、主人公を筆頭にそれぞれのキャラクターが重層的に描かれている点である。主人公が通っていた中学校では生徒が8名しかおらず、人間関係で悩む・悩まない以前にコミュニケーションが可能であった状況から、大きく環境が転換していく。それに悩むという単純な話ではないのが、非常に良い。一つ一つを新鮮に感じ取り、直球で味わっていく彼女は決して魅力的な人間ではないかもしれないし、クラスメイトであったとしても特に友達にはならないかもしれない。これは経験値の低さが、他者から魅力的に受け取られるかどうか、という問題である。

 ただし彼女は物事に天真爛漫に取り組んでいくわけではない。きちんと悩み、考え、行動している。それは既存の教室内の関係性で構築されうる行動原理にからめとられていないことを意味している。その点において魅力的であるし、極めて危ういともいえる。教室の関係性というのは、高校生までの(もしかしたら一部の大学生の)視野や認識範囲では非常に強固に思えるのかもしれない。しかし、その範囲の狭さを認識するには外部からの指摘が非常に有用だし、さらにはその狭さの中で出来得ることがまだまだ存在することも理解できる。決して、その狭さはくだらないものでも唾棄するだけのものでもない。

 ということを、つらつらと考えているうちに連休はあっという間に過ぎ去ってしまった。具体的には東京の自宅にいたのに溜めてしまっていた作業をこなして、体調を整えているうちに過ぎ去ってしまった。あまり本が読めなかったので、もっと読書スピードを上げていきたいものである。

山形で学ぶこと

 

 

「こういう小説家講座、東京にありますか?」
「残念ながらないと思います。山形に来るしかないでしょう」

長年世話役をつとめている「山形小説家・ライター講座」や「せんだい文学塾」の終了後に、以上のような会話をよくする。聞くのはほとんど東京在住の作家志望者や文学ファンである。講師(有名作家)の名前にひかれて(講師の話を聞きたくて)、東京からわざわざ山形や仙台に訪れる人たちだ。

そういう人たちの顔を見ると、なぜ作家の生の話を聞くためにわざわざ東北に来なくてはいけないのか? という疑問がのぞいている。その気持ち、よくわかります。日本の中心ともいうべき東京に作家たちはたくさん住んでいるのに、なぜ東京に小説家講座はないのか? と思うでしょう。一人の評論家や作家が講師をつとめるカルチャーセンターの講座はあるけれど、山形や仙台講座のように、毎月異なる作家(それも有名作家)が講師をつとめる講座が、どうして東京にないのかと思うのは当然です。そして、どうして往復2万3000円近い新幹線代(夜行バスだとその半分以下)も払って、東京から山形や仙台に来なくては行けないのか、とも。

なぜ東京に小説家講座がないのかはわかりませんが(理由はある程度想像できますが、ここには書きません)、東京に存在しない以上、山形と仙台に通うしかないでしょう。
東京から来る人の話ばかり書いていますが、実際は、山形講座には全国からつめかけています。遠くは福岡や徳島、北海道や京都からも通っている人がいます。山形講座出身作家の深町秋生は作家デビュー前は勤務先の大宮や福岡から通っていましたし、福岡在住の受講生だった佐伯琴子さんは昨年『狂歌』で第10回日経小説大賞を受賞したばかり。そう小説家講座からぞくぞく作家が生まれています。

あなたがもしも文芸や創作に関心があり、将来作家や編集者になりたい高校生なら、山形の大学を選ぶといいでしょう。授業も充実していますし、何よりも、東京から通う必要もなく、毎月名だたる作家や日本を代表する編集者に会えるのですから。

(以下、2019年度の山形小説家・ライター講座とせんだい文学塾の概要をのせておきます。)

■2019年度「山形小説家・ライター講座」概要(敬称略)

4月28日(日)太田愛(『相棒』脚本家&小説家)
5月26日(日)あさのあつこ(野間児童文芸賞&島清恋愛文学賞作家)
6月23日(日)穂村弘(歌人・評論家・エッセイスト。伊藤整文学賞&若山牧水賞)
7月28日(日)今村翔吾(角川春樹小説賞作家)
8月25日(日)三浦しをん(本屋大賞&直木賞作家)
9月22日(日)佐藤多佳子(本屋大賞&山本賞作家)司会・紺野仲右ヱ門
10月27日(日)朱川湊人(直木賞作家)司会・黒木あるじ
11月24日(日)角田光代、井上荒野、江國香織(直木賞作家たち)
12月8日(日)阿部智里(松本清張賞作家)司会・紺野仲右ヱ門
1月26日(日)川本三郎(文芸評論家。読売文学賞&毎日出版文化賞)
2月23日(日)酒井順子(講談社エッセイ賞作家)
3月22日(日)有栖川有栖(本格ミステリ大賞作家)司会・三沢陽一

※午後2時より。場所は山形市遊学館(10月、11月、12月は文翔館)
※高校生以下無料。学生1000円。一般2000円。
※ホームページは三つ。順に講座紹介、前半の講義録、後半のトークショー。
http://bungei.pixiv.net/yamagatakouza
https://pixiv-bungei.net/archives/category/serial/ymgt-kouzadayori
https://pixiv-bungei.net/archives/category/serial/ymgt-sugao

■2019年度「せんだい文学塾」概要(敬称略)
※タイトルは後半のトークショーのテーマです。
http://sites.google.com/site/sendaibungakujuku/

4月20日(土)青崎有吾(鮎川哲也賞作家)「書き手と読み手の二重人格」
5月25日(土)あさのあつこ(野間児童文芸賞&島清恋愛文学賞作家)
「表現 プロとアマは違うのか」
6月29日(土)熊谷達也(直木賞作家)「視点の決め方と使い方」
7月(※休み)
8月24日(土)三浦しをん(直木賞作家)「描写と説明」
9月21日(土)平松洋子(ドゥマゴ文学賞&講談社エッセイ賞作家)「食をめぐる文章について」
10月26日(土)朱川湊人(直木賞作家)「演劇の書き方から学ぶ」司会・黒木あるじ
11月23日(土)角田光代、井上荒野、江國香織(直木賞作家たち)
「3人の読み方はこんなに違う パート4」
12月(※休み)
1月25日(土)中条省平(文芸評論家)「小説を読むというテクニック」
2月22日(土)佐伯一麦(野間賞作家)「小説を書き続けるために」
3月21日(土)有栖川有栖(本格ミステリ大賞作家)司会・三沢陽一
「小説を書く、ミステリを書く」

※午後4時半より(11月は午後2時より。1・2・3月は午後4時より)。
※高校生以下無料。学生1000円、一般2000円。
※場所は仙台文学館(8月は仙台市市民活動サポートセンター、11月は宮城学院女子大学)

『朝が来るまでそばにいる』と授業第二週

 学生さんから定期的に聞かれることは、「暗い話を書きたいのですが、大丈夫なのでしょうか」という内容である。この質問はいくつかのポイントを内包していて、一つ目は別に何を書こうと問題はないという表面的な点である。もちろん商業出版であれば、手に取るお客さんのことを考える必要がある。どこを主戦場として発表していくかで変化していくので、一概には言えない。しかし商業流通でないならば、何をどうしようと別に問題ないではないか。

 二つ目のポイントとしては、そもそも自身の行動に他者の許可を得る必要はないという点である。推測でしかないが、既存の教育環境において規律正しくすることが指標とされてきたのではないだろうか。そのため規律を確認し、認識する必要が常に存在したのかもしれない。もちろん自分自身の能力に自信が持てず、常に他者の承認を必要としているのかもしれない。どちらにせよ、何をどうするかは皆さん自身の判断だし、何かに取り組んだ場合、その責任も自分自身で負っていくことになる。

 三つ目としてはそもそも教条的な内容への高い評価が背景に存在している可能性はある。話が暗かろうが何だろうが、物語は物語としての評価になっていくはずだ。とはいえ私もそうであったのだが、教師などから高い評価を得ていくためには、心地良い作文をパターン化して書くことを身体化する必要が存在する。要はお行儀のよい文章を書けば、良い点がもらえるということ。ただそれだけのことと簡単に考えることはできるのだが、その身体化された状態から変容するのは、なかなか大変であることも理解している。

 これらの点はもちろん個々人により違うだろうし、地域性や教育環境にも大きく依拠していくことでもある。要は何でもいいんだ。滔々と書いてきたが、そもそも「暗い」とは何だろうかという根本を考えたほうが良いのではないか。そう思って、「作品読解」の二回目では彩瀬まるさんの『朝が来るまでそばにいる』から「かいぶつの名前」を取り上げた。

 誰もが心の中に何かしらの苦悩を抱えていると思う。その苦しさをただそのまま登場人物のセリフとして垂れ流したとしても、見知らぬ読み手には届きにくい。その苦しさは自身のものであることは間違いないのだが、それをどう見せるのかを考える必要がある。何よりその苦悩を精緻に把握できているかどうかは、客観的な認識能力が必要になってくるため一段階難しい作業になっていく。

 その意味で彩瀬まるさんの『朝が来るまでそばにいる』は苦しみをただ苦しいと描かずに、死とからめながら再生への道筋に目を向けている。死を一面的には描かないがゆえに、死生の境界すら曖昧になってしまうかのような危うさと未経験の心地よさを読者に運んでくれる。その中で「かいぶつの名前」を取り上げたのは、「かいぶつ」を具体的にはどのように認識することができるのか。その認識の度合いを新入生の皆さんに理解して欲しいと思ったからである。

 とはいえそんな私自身の気持ちとは関係なく、授業第二週にして上手くペースがつかめず睡眠時間を削って仕事をしてしまった。なかなか教員生活も大変なもので、何年経っても生活リズムと順応させることの難しさを感じている。実績のあるプロ野球選手でも開幕からローテーションを守れずに負け続けるケースをたまに見るが、「これまでやってきたからできるだろ」などと軽々しく思ってはいけないと痛感した。たかだか寝不足でありながらも、心の中にいろいろと黒々としたものが沸き上がりそうになり、「これが『なまえのないかいぶつ』なのか」みたいな雰囲気でもあったが、幸いにもそのまま連休に突入したのである。

『早朝始発の殺風景』と授業第一週

 今年度、うちの大学は4月初頭をガイダンスおよび初年次教育の演習に時間を割いている。そのため授業は4月の第3週目からスタートすることになる。第3週なのに第1週なのだ。で、これは毎年のことながら玉井担当の授業はすべて初回から普通に授業をしている。講義なら喋るし、ゼミであれば具体的に作品を講読している。もちろん授業のスケジュールや目的などシラバスに書いてあることを説明してはいるので、いろいろと投げ捨てているわけではない。なぜこのようなことをしているのかというと、大学生のころの自分は一つでも授業を楽しみたかったので初回の授業がガイダンスという名でお茶を濁されてしまうと、それなりにがっかりしていたからである。

 そして、これが面倒さに拍車をかけてしまうのだが、昨年度と基本的には同じ内容を行わないという自分ルールを設定してしまっている。これは教員として授業を行う側になったとき、毎年同じ内容を話していると飽きてしまうのと、成長する機会を自ら放棄している気分になってしまうからである。そんなわけで4月に入っても雪が降るという驚異の風土を提示してくれた山形という土地で、寒さでふるえて軽く風邪をひいている自分は、過去の自分に対して愚痴を吐きながら授業準備をいそしんでいたのだ。

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 それでも授業が始まるとともに、緩やかに暖かくなり、桜も咲き誇り、新年度の空気を感じとれるようになってきた。そんな新年度の初回の授業(玉井が担当する全授業の最初)は「作品読解」という新入生向けの授業である。そこでは青崎有吾さんの「三月四日、午後二時半の密室」(『早朝始発の殺風景』所収)を取り上げた。

 新入生は、ほんの数週間前までは高校生であり、新しい環境に身を置いていることで、無意識的にも気を張っている状態にあると思う。それがいいか悪いかではなく、世の中そのようなものである。玉井だってそうだった。新しい場所で学び、新しい人と机を並べ、人によっては新しく一人暮らしも始まる。その中で悩んでいくことも多いだろう。特に高校までのような教室内の関係性では成立しない大学のシステムに戸惑うかもしれない。大学は何をやってもいいんだよ、と言うことは簡単だけど、それは拠り所を失った気分になったときの不安や空虚感を自力で回復していかなければならないことも意味する。どうすればいいのかわからなくて、ぐるぐると悩んでしまうかもしれない。

 そのような学生が青崎さんの「三月四日、午後二時半の密室」を読んで、教室外で他者と出会うこと、そして既存の教室内の関係性に依拠しながら発揮されるキャラクター性を脱ぎ捨てることの意義を考えて欲しい。そんなお節介な気分も込めて、この作品をセレクトして初回に持ってきた。もちろんこのようなことを受講生は考えてもいいし、まったく考えなくてもいい。おっさんは本当に面倒なことを言う存在である。ただし、そのような玉井の考えは別にして青崎さんの『早朝始発の殺風景』は名作であることは確かだ。

19歳の学生作家デビューと大沢在昌の名作たち

 集英社の読書情報誌「青春と読書」3月号の見出しを見たときに、あれ? と思った。「第31回小説すばる新人賞受賞対談 増島拓哉『闇夜の底で踊れ』 大沢在昌×増島拓哉」とあるからである。受賞記念の対談といったら、受賞者と選考委員が対談するのが決まり。小説すばる新人賞選考委員は五木寛之、阿刀田高、北方謙三、宮部みゆき、村山由佳であって、大沢在昌は選考委員ではない。なぜ大沢さんなのだろう? と思って、ひもといたら、すぐにわかった。受賞者の増島さんが熱烈な大沢ファンなのである。

 「・・第31回小説すばる新人賞受賞作『闇夜の底で踊れ』は、抜群のリーダビリティとテンポの良さをもった長編小説。そのハードな内容とクオリティの高さと同時に、作者の増島拓哉さんが十九歳の大学生だったことも選考委員を驚愕させた。その増島さんがあこがれの作家として真っ先にその名を挙げたのが大沢在昌さん。緊張気味の新人作家の問いに応え、ベテラン作家が語った「作家という生き方」とは」というのが、リード文。

 このあと本文で、ベテラン作家と新人作家の対談が始まるのだが、これがなかなかおもしろい。そもそも受賞作品が、小すば新人賞にしては珍しいノワールで、パチンコ依存症の無職の男が、風俗嬢に入れ込んで借金を作り、暴力団の抗争に巻き込まれていく話である。

  というと、やや通俗的な題名もあってありきたりの物語と思うかもしれないが、そうではない。前半はやや新鮮味に欠けるものの、抗争の構図があらわになってから会話もキャラクターも弾けるし、意外な事実が次々と明らかになっていく終盤は緊迫感に包まれてわくわくする。黒川博行に迫る笑いにみちた会話、作者が多大な影響を受けたという大沢在昌の優れた語りと人物像の創出が、陰惨な暴力劇を調子のいいピカレスクに仕立てあげている。才能にみちた出色の新人のデビュー作だ。何よりも十九歳というのがすごい。

 これは僕だけの感想ではなく、大沢在昌もそう。「十九でこれだけ書けるの。すごいね。キャラクターの描き分けも上手いし、この風貌から思いつかないぐらいヤクザ業界のことをちゃんと書けている。この子は一体どういう育ち方をしたんだろうと思ったけど(笑)」といったあと、もういちど具体的にキャラクターの良さに触れ、自分のデビュー時を思い返す。 「選考委員が評価したのは、やっぱりキャラだと思うんだよね。主人公の伊達雅樹も面白い男だけど、伊達がパチンコ屋で知り合う平田っていうおっさんとか、伊達にからんでくるいいろいろなタイプの極道とか、登場人物一人一人の個性が立っている。「役」じゃなく「キャラ」になっているんだ。とても十九歳の筆とは思えないね。俺も十九のときに小説を書いてたけど、とてもじゃないけどこんなものは書いてなかったし、デビューしたのが二十三で、あなたより四歳年上だったけど、それでも今のあなたにかなうレベルじゃなかったなってつくづく思った」

 ほめすぎではないかと思うかもしれない。でも、大沢在昌の言葉に嘘はないだろう。一九七九年、二十三歳の時のデビュー作は、小説推理新人賞を受賞した「感傷の街角」で、失踪人調査のプロである佐久間公の登場作。受賞作をタイトルにした第一作品集が上梓されたのが、三年後の一九八二年で、現在角川文庫に収録されている。ちなみに解説は、僕である。解説者の僕からみても、文体の瑞々しさという点では大沢在昌に魅力があるけれど、キャラクター描写に関してはやはり増島拓哉のほうが勝っている。本当に驚くほど増島は巧い。

 一方、増島は、大沢在昌の小説の魅力を、一気読みさせる力だという。「小説を一気読みすることってあまりしないんですけど、大沢さんの本はほとんどすべて一気読みしています。どれもぶっちぎりで面白いんです」といい、「俺の作品のなかで何が一番好きなの?」と聞かれて、「シリーズものを除けば『ライアー』ですね」と応えている。 この返答を読んで、おお、増島君(と急に親しみを覚えた)、君は小説のことをよくわかっているね! といいたくなった。「どれもぶっちぎりで面白い」が、その中でも『ライアー』(新潮文庫)は抜群なのである。これはもう必読の名作といっていい。

 物語の主人公は、大学教授の夫と小学生の息子との三人暮らしをする神村奈々。「消費情報研究所」に勤務しているが、実はこれは政府の非合法組織で、国家に不都合な人物を「処理」するのが任務。そのことを夫には秘密にしていたけれど、夫の事故死のあと、身辺が慌ただしくなり、謀略に巻き込まれて死の危険にさらされていくという内容だ。

 設定だけ紹介すると、やや安手の印象を与えかねないが、最後まで読めば、おそろしく深く、実に遠いところまで読者を運んでいることに気づくだろう。組織内部の凄まじい暗闘、ヒロインの切々たる女性性の葛藤、深く響きわたる家族の愛などが、激しく胸をうつのである。ここ十年の、海外と日本のエンターテインメントの変質の中で、いかに『ライアー』が際立つ傑作であるかを、僕は解説に書いた(そう、言い忘れたが、解説担当は僕である。大物作家の輝かしい第一作品集の解説も名誉だが、個人的には『ライアー』という歴史的傑作-詳しくは解説参照-を担当できたことが本当に嬉しい)。ぜひ読んでほしい傑作中の傑作だ。

 ところで、この対談のはじめのほうで、大沢在昌が「小説家という仕事はずっと続くから、これから十年、二十年、三十年先、その時々にどんなものを書いていくが重要だと思うんだよね。いま、人生設計で、ある程度決まってることってある?」と聞くと、「いま大学二年生なんですが、卒業したら就職はしようかなと思っています」と増島拓哉はこたえている。これは大沢在昌が授賞式の二次会で、「企業と組織を知ることが作家として強みになる」と助言したからだという。大沢在昌も新人賞を受賞したとき、新聞社から内定をもらっていたが、作家の道を選び、就職しないできたことを後悔したという。

 数あるエンターテインメントの新人賞のなかで、小説すばる新人賞は打率の高さ(受賞作家のその後の活躍の度合い。大きな文学賞の獲得やベトスセラー作家への足掛かり)ではナンバーワンであり、増島拓哉は作家として十二分に活動していけると思うが、あえて就職の道を選ぶあたりが、ますます頼もしい。学生のみなさん、就職活動をしましょうね。

 さて、申し遅れたが、すでに玉井先生の文章にもあるように、四月から東北芸術工科大学の文芸学科で教えることになった。本欄でも、さまざまなことを書いていきたいと思う。どうかよろしくお願いいたします。

『異世界からの企業進出』と4月の始め

 いつも何かの本は買ったり読んだりしているのだが、昨年からハヤカワ文庫でリリースされている七士七海さんの『異世界からの企業進出』シリーズを本屋で見かけるたびに購入している。概ね買ったものは、そのまま積ん読状態にするのが常なのだが、この作品は購入後、少し時間が経過すると積まれている順番を押しのけ手に取っているので、好きなシリーズなのだとは思う。何とも歯切れが悪いのは、購入していきなりは読んでいないということが根底にあるのだろう。何はともあれ一度は積むのである。積むと徳も一緒に積んでいる気がする。そういう気分は重要である。重要。

 さておき最初、読み始めた際にはテリー・ブルックスのランドオーヴァーシリーズを思い出していた。異世界の王国が売りに出されている広告を目にした主人公が、半信半疑でそして自分自身に降りかかった不幸により自暴自棄的にその国を買ってしまう物語である。そういえば、これもハヤカワから出ていた。でも大きく違うのは王として国を支配するためにどうしていくべきかを考えるのがランドオーヴァーなのだが、『異世界からの企業進出』は一人のサラリーマンが主人公である。具体的には現実世界に進出してきた異世界の企業でサラリーマンとして雇われるため、要は一からのスタートになっている。

 この点は作品の大きなポイントになっている気がしていて、サラリーマンとして一からスタートすることが極めてゲーム的なレベル上げと連動している。もちろんランドオーヴァーと単純な対比が可能ということではない。階層を形成する基準は様々だが、階層上位に主人公が物語の最初から所属している(もしくは所属する資格がある)作品は数多く存在する。それこそ今、アニメが放送されている『賢者の孫』はその典型であろう。しかし、このような作品の場合、主人公が受けるべき枷が最初から存在していないか、存在していたとしてもスムーズに取りはずれる設計になっていることが多い。つまり駆け上がるスピードがとにかく早い。『異世界からの~』はほぼゼロからスタートしているように見える。

 とはいえ、そうは書いたものの、成長スピードはこの作品も比較的早いため、大枠では同じなのかもしれない。結局のところスタート地点の差異でしかなく、大枠の構造、そして読者への伝え方・見せ方を考えると大差ないのではないかとも思う。飽きの来ない「RPGのゲーム実況」を見ている気分になってくる。何せ主人公のパラメータが随時表示されているのだ。まだ3巻なのだが、今後、そのスピードと物語のベクトルの方向性が固定化されるのか、それとも大きく変化させるのかには一つの興味がある。個人的な感触として、一直線の方向性を段階を踏みながら進んでいく物語は目先をかえるような工夫はなされていくが、主人公の観測範囲と行動理由の拡大がなされていながらも、同じ物語法則の繰り返しの中で描かれているような気分になってしまうことが多い。ウェブ版を読んでいないので、この物語がどうなっていくのかは知らないが、一介のサラリーマンでいてほしいような、その段階はどこかでクリアしてほしいような、そんなもどかしさである。欲を言えば、そんなところすら飛び越えてほしい。読者のわがままである。

 さて一からからのスタートといえば、この4月から新年度である。新入生が入り、新しい教員・副手が文芸学科に加わった。教員の一人は文芸評論家の池上冬樹先生である。文庫の解説や新聞の書評などで何度もお目にかかってきた。特に山形や仙台で行われている文学講座・創作講座は非常に名高く、プロの作家を数多く生み出している。もう一人の教員はトミヤマユキコ先生である。トミヤマさんは、玉井と同期なので同じ時期に大学・大学院を過ごしていたのだが、ライターとして大活躍するトミヤマさんに比して玉井はこの体たらく。たまにはいい論文を書きたいものだ。そして副手の永尾さんは文芸学科一期生である。前任の飛塚さんの同期でもある。The Buildingsというバンドでも活動しているので、皆さんも聞こう。

 何より新入生の皆さん。玉井はガイダンスで松智洋さんの言葉を借りて、「当たり前のレベルを上げよう」と話をした。もちろんこの考えに従う必要もない。皆さんには何もしない自由もあるし、すべてのことに打ち込んでいく自由も存在する。何をしなくてもいいし、何をやってもいい。でも、そのすべての責任は自分で取っていくことになる。どうせなら、大変なほうがいいじゃないか。世の中、小説の主人公のように軽々とは乗り越えられないんだから。