山形で学ぶこと

 

 

「こういう小説家講座、東京にありますか?」
「残念ながらないと思います。山形に来るしかないでしょう」

長年世話役をつとめている「山形小説家・ライター講座」や「せんだい文学塾」の終了後に、以上のような会話をよくする。聞くのはほとんど東京在住の作家志望者や文学ファンである。講師(有名作家)の名前にひかれて(講師の話を聞きたくて)、東京からわざわざ山形や仙台に訪れる人たちだ。

そういう人たちの顔を見ると、なぜ作家の生の話を聞くためにわざわざ東北に来なくてはいけないのか? という疑問がのぞいている。その気持ち、よくわかります。日本の中心ともいうべき東京に作家たちはたくさん住んでいるのに、なぜ東京に小説家講座はないのか? と思うでしょう。一人の評論家や作家が講師をつとめるカルチャーセンターの講座はあるけれど、山形や仙台講座のように、毎月異なる作家(それも有名作家)が講師をつとめる講座が、どうして東京にないのかと思うのは当然です。そして、どうして往復2万3000円近い新幹線代(夜行バスだとその半分以下)も払って、東京から山形や仙台に来なくては行けないのか、とも。

なぜ東京に小説家講座がないのかはわかりませんが(理由はある程度想像できますが、ここには書きません)、東京に存在しない以上、山形と仙台に通うしかないでしょう。
東京から来る人の話ばかり書いていますが、実際は、山形講座には全国からつめかけています。遠くは福岡や徳島、北海道や京都からも通っている人がいます。山形講座出身作家の深町秋生は作家デビュー前は勤務先の大宮や福岡から通っていましたし、福岡在住の受講生だった佐伯琴子さんは昨年『狂歌』で第10回日経小説大賞を受賞したばかり。そう小説家講座からぞくぞく作家が生まれています。

あなたがもしも文芸や創作に関心があり、将来作家や編集者になりたい高校生なら、山形の大学を選ぶといいでしょう。授業も充実していますし、何よりも、東京から通う必要もなく、毎月名だたる作家や日本を代表する編集者に会えるのですから。

(以下、2019年度の山形小説家・ライター講座とせんだい文学塾の概要をのせておきます。)

■2019年度「山形小説家・ライター講座」概要(敬称略)

4月28日(日)太田愛(『相棒』脚本家&小説家)
5月26日(日)あさのあつこ(野間児童文芸賞&島清恋愛文学賞作家)
6月23日(日)穂村弘(歌人・評論家・エッセイスト。伊藤整文学賞&若山牧水賞)
7月28日(日)今村翔吾(角川春樹小説賞作家)
8月25日(日)三浦しをん(本屋大賞&直木賞作家)
9月22日(日)佐藤多佳子(本屋大賞&山本賞作家)司会・紺野仲右ヱ門
10月27日(日)朱川湊人(直木賞作家)司会・黒木あるじ
11月24日(日)角田光代、井上荒野、江國香織(直木賞作家たち)
12月8日(日)阿部智里(松本清張賞作家)司会・紺野仲右ヱ門
1月26日(日)川本三郎(文芸評論家。読売文学賞&毎日出版文化賞)
2月23日(日)酒井順子(講談社エッセイ賞作家)
3月22日(日)有栖川有栖(本格ミステリ大賞作家)司会・三沢陽一

※午後2時より。場所は山形市遊学館(10月、11月、12月は文翔館)
※高校生以下無料。学生1000円。一般2000円。
※ホームページは三つ。順に講座紹介、前半の講義録、後半のトークショー。
http://bungei.pixiv.net/yamagatakouza
https://pixiv-bungei.net/archives/category/serial/ymgt-kouzadayori
https://pixiv-bungei.net/archives/category/serial/ymgt-sugao

■2019年度「せんだい文学塾」概要(敬称略)
※タイトルは後半のトークショーのテーマです。
http://sites.google.com/site/sendaibungakujuku/

4月20日(土)青崎有吾(鮎川哲也賞作家)「書き手と読み手の二重人格」
5月25日(土)あさのあつこ(野間児童文芸賞&島清恋愛文学賞作家)
「表現 プロとアマは違うのか」
6月29日(土)熊谷達也(直木賞作家)「視点の決め方と使い方」
7月(※休み)
8月24日(土)三浦しをん(直木賞作家)「描写と説明」
9月21日(土)平松洋子(ドゥマゴ文学賞&講談社エッセイ賞作家)「食をめぐる文章について」
10月26日(土)朱川湊人(直木賞作家)「演劇の書き方から学ぶ」司会・黒木あるじ
11月23日(土)角田光代、井上荒野、江國香織(直木賞作家たち)
「3人の読み方はこんなに違う パート4」
12月(※休み)
1月25日(土)中条省平(文芸評論家)「小説を読むというテクニック」
2月22日(土)佐伯一麦(野間賞作家)「小説を書き続けるために」
3月21日(土)有栖川有栖(本格ミステリ大賞作家)司会・三沢陽一
「小説を書く、ミステリを書く」

※午後4時半より(11月は午後2時より。1・2・3月は午後4時より)。
※高校生以下無料。学生1000円、一般2000円。
※場所は仙台文学館(8月は仙台市市民活動サポートセンター、11月は宮城学院女子大学)

『朝が来るまでそばにいる』と授業第二週

 学生さんから定期的に聞かれることは、「暗い話を書きたいのですが、大丈夫なのでしょうか」という内容である。この質問はいくつかのポイントを内包していて、一つ目は別に何を書こうと問題はないという表面的な点である。もちろん商業出版であれば、手に取るお客さんのことを考える必要がある。どこを主戦場として発表していくかで変化していくので、一概には言えない。しかし商業流通でないならば、何をどうしようと別に問題ないではないか。

 二つ目のポイントとしては、そもそも自身の行動に他者の許可を得る必要はないという点である。推測でしかないが、既存の教育環境において規律正しくすることが指標とされてきたのではないだろうか。そのため規律を確認し、認識する必要が常に存在したのかもしれない。もちろん自分自身の能力に自信が持てず、常に他者の承認を必要としているのかもしれない。どちらにせよ、何をどうするかは皆さん自身の判断だし、何かに取り組んだ場合、その責任も自分自身で負っていくことになる。

 三つ目としてはそもそも教条的な内容への高い評価が背景に存在している可能性はある。話が暗かろうが何だろうが、物語は物語としての評価になっていくはずだ。とはいえ私もそうであったのだが、教師などから高い評価を得ていくためには、心地良い作文をパターン化して書くことを身体化する必要が存在する。要はお行儀のよい文章を書けば、良い点がもらえるということ。ただそれだけのことと簡単に考えることはできるのだが、その身体化された状態から変容するのは、なかなか大変であることも理解している。

 これらの点はもちろん個々人により違うだろうし、地域性や教育環境にも大きく依拠していくことでもある。要は何でもいいんだ。滔々と書いてきたが、そもそも「暗い」とは何だろうかという根本を考えたほうが良いのではないか。そう思って、「作品読解」の二回目では彩瀬まるさんの『朝が来るまでそばにいる』から「かいぶつの名前」を取り上げた。

 誰もが心の中に何かしらの苦悩を抱えていると思う。その苦しさをただそのまま登場人物のセリフとして垂れ流したとしても、見知らぬ読み手には届きにくい。その苦しさは自身のものであることは間違いないのだが、それをどう見せるのかを考える必要がある。何よりその苦悩を精緻に把握できているかどうかは、客観的な認識能力が必要になってくるため一段階難しい作業になっていく。

 その意味で彩瀬まるさんの『朝が来るまでそばにいる』は苦しみをただ苦しいと描かずに、死とからめながら再生への道筋に目を向けている。死を一面的には描かないがゆえに、死生の境界すら曖昧になってしまうかのような危うさと未経験の心地よさを読者に運んでくれる。その中で「かいぶつの名前」を取り上げたのは、「かいぶつ」を具体的にはどのように認識することができるのか。その認識の度合いを新入生の皆さんに理解して欲しいと思ったからである。

 とはいえそんな私自身の気持ちとは関係なく、授業第二週にして上手くペースがつかめず睡眠時間を削って仕事をしてしまった。なかなか教員生活も大変なもので、何年経っても生活リズムと順応させることの難しさを感じている。実績のあるプロ野球選手でも開幕からローテーションを守れずに負け続けるケースをたまに見るが、「これまでやってきたからできるだろ」などと軽々しく思ってはいけないと痛感した。たかだか寝不足でありながらも、心の中にいろいろと黒々としたものが沸き上がりそうになり、「これが『なまえのないかいぶつ』なのか」みたいな雰囲気でもあったが、幸いにもそのまま連休に突入したのである。

『早朝始発の殺風景』と授業第一週

 今年度、うちの大学は4月初頭をガイダンスおよび初年次教育の演習に時間を割いている。そのため授業は4月の第3週目からスタートすることになる。第3週なのに第1週なのだ。で、これは毎年のことながら玉井担当の授業はすべて初回から普通に授業をしている。講義なら喋るし、ゼミであれば具体的に作品を講読している。もちろん授業のスケジュールや目的などシラバスに書いてあることを説明してはいるので、いろいろと投げ捨てているわけではない。なぜこのようなことをしているのかというと、大学生のころの自分は一つでも授業を楽しみたかったので初回の授業がガイダンスという名でお茶を濁されてしまうと、それなりにがっかりしていたからである。

 そして、これが面倒さに拍車をかけてしまうのだが、昨年度と基本的には同じ内容を行わないという自分ルールを設定してしまっている。これは教員として授業を行う側になったとき、毎年同じ内容を話していると飽きてしまうのと、成長する機会を自ら放棄している気分になってしまうからである。そんなわけで4月に入っても雪が降るという驚異の風土を提示してくれた山形という土地で、寒さでふるえて軽く風邪をひいている自分は、過去の自分に対して愚痴を吐きながら授業準備をいそしんでいたのだ。

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 それでも授業が始まるとともに、緩やかに暖かくなり、桜も咲き誇り、新年度の空気を感じとれるようになってきた。そんな新年度の初回の授業(玉井が担当する全授業の最初)は「作品読解」という新入生向けの授業である。そこでは青崎有吾さんの「三月四日、午後二時半の密室」(『早朝始発の殺風景』所収)を取り上げた。

 新入生は、ほんの数週間前までは高校生であり、新しい環境に身を置いていることで、無意識的にも気を張っている状態にあると思う。それがいいか悪いかではなく、世の中そのようなものである。玉井だってそうだった。新しい場所で学び、新しい人と机を並べ、人によっては新しく一人暮らしも始まる。その中で悩んでいくことも多いだろう。特に高校までのような教室内の関係性では成立しない大学のシステムに戸惑うかもしれない。大学は何をやってもいいんだよ、と言うことは簡単だけど、それは拠り所を失った気分になったときの不安や空虚感を自力で回復していかなければならないことも意味する。どうすればいいのかわからなくて、ぐるぐると悩んでしまうかもしれない。

 そのような学生が青崎さんの「三月四日、午後二時半の密室」を読んで、教室外で他者と出会うこと、そして既存の教室内の関係性に依拠しながら発揮されるキャラクター性を脱ぎ捨てることの意義を考えて欲しい。そんなお節介な気分も込めて、この作品をセレクトして初回に持ってきた。もちろんこのようなことを受講生は考えてもいいし、まったく考えなくてもいい。おっさんは本当に面倒なことを言う存在である。ただし、そのような玉井の考えは別にして青崎さんの『早朝始発の殺風景』は名作であることは確かだ。

19歳の学生作家デビューと大沢在昌の名作たち

 集英社の読書情報誌「青春と読書」3月号の見出しを見たときに、あれ? と思った。「第31回小説すばる新人賞受賞対談 増島拓哉『闇夜の底で踊れ』 大沢在昌×増島拓哉」とあるからである。受賞記念の対談といったら、受賞者と選考委員が対談するのが決まり。小説すばる新人賞選考委員は五木寛之、阿刀田高、北方謙三、宮部みゆき、村山由佳であって、大沢在昌は選考委員ではない。なぜ大沢さんなのだろう? と思って、ひもといたら、すぐにわかった。受賞者の増島さんが熱烈な大沢ファンなのである。

 「・・第31回小説すばる新人賞受賞作『闇夜の底で踊れ』は、抜群のリーダビリティとテンポの良さをもった長編小説。そのハードな内容とクオリティの高さと同時に、作者の増島拓哉さんが十九歳の大学生だったことも選考委員を驚愕させた。その増島さんがあこがれの作家として真っ先にその名を挙げたのが大沢在昌さん。緊張気味の新人作家の問いに応え、ベテラン作家が語った「作家という生き方」とは」というのが、リード文。

 このあと本文で、ベテラン作家と新人作家の対談が始まるのだが、これがなかなかおもしろい。そもそも受賞作品が、小すば新人賞にしては珍しいノワールで、パチンコ依存症の無職の男が、風俗嬢に入れ込んで借金を作り、暴力団の抗争に巻き込まれていく話である。

  というと、やや通俗的な題名もあってありきたりの物語と思うかもしれないが、そうではない。前半はやや新鮮味に欠けるものの、抗争の構図があらわになってから会話もキャラクターも弾けるし、意外な事実が次々と明らかになっていく終盤は緊迫感に包まれてわくわくする。黒川博行に迫る笑いにみちた会話、作者が多大な影響を受けたという大沢在昌の優れた語りと人物像の創出が、陰惨な暴力劇を調子のいいピカレスクに仕立てあげている。才能にみちた出色の新人のデビュー作だ。何よりも十九歳というのがすごい。

 これは僕だけの感想ではなく、大沢在昌もそう。「十九でこれだけ書けるの。すごいね。キャラクターの描き分けも上手いし、この風貌から思いつかないぐらいヤクザ業界のことをちゃんと書けている。この子は一体どういう育ち方をしたんだろうと思ったけど(笑)」といったあと、もういちど具体的にキャラクターの良さに触れ、自分のデビュー時を思い返す。 「選考委員が評価したのは、やっぱりキャラだと思うんだよね。主人公の伊達雅樹も面白い男だけど、伊達がパチンコ屋で知り合う平田っていうおっさんとか、伊達にからんでくるいいろいろなタイプの極道とか、登場人物一人一人の個性が立っている。「役」じゃなく「キャラ」になっているんだ。とても十九歳の筆とは思えないね。俺も十九のときに小説を書いてたけど、とてもじゃないけどこんなものは書いてなかったし、デビューしたのが二十三で、あなたより四歳年上だったけど、それでも今のあなたにかなうレベルじゃなかったなってつくづく思った」

 ほめすぎではないかと思うかもしれない。でも、大沢在昌の言葉に嘘はないだろう。一九七九年、二十三歳の時のデビュー作は、小説推理新人賞を受賞した「感傷の街角」で、失踪人調査のプロである佐久間公の登場作。受賞作をタイトルにした第一作品集が上梓されたのが、三年後の一九八二年で、現在角川文庫に収録されている。ちなみに解説は、僕である。解説者の僕からみても、文体の瑞々しさという点では大沢在昌に魅力があるけれど、キャラクター描写に関してはやはり増島拓哉のほうが勝っている。本当に驚くほど増島は巧い。

 一方、増島は、大沢在昌の小説の魅力を、一気読みさせる力だという。「小説を一気読みすることってあまりしないんですけど、大沢さんの本はほとんどすべて一気読みしています。どれもぶっちぎりで面白いんです」といい、「俺の作品のなかで何が一番好きなの?」と聞かれて、「シリーズものを除けば『ライアー』ですね」と応えている。 この返答を読んで、おお、増島君(と急に親しみを覚えた)、君は小説のことをよくわかっているね! といいたくなった。「どれもぶっちぎりで面白い」が、その中でも『ライアー』(新潮文庫)は抜群なのである。これはもう必読の名作といっていい。

 物語の主人公は、大学教授の夫と小学生の息子との三人暮らしをする神村奈々。「消費情報研究所」に勤務しているが、実はこれは政府の非合法組織で、国家に不都合な人物を「処理」するのが任務。そのことを夫には秘密にしていたけれど、夫の事故死のあと、身辺が慌ただしくなり、謀略に巻き込まれて死の危険にさらされていくという内容だ。

 設定だけ紹介すると、やや安手の印象を与えかねないが、最後まで読めば、おそろしく深く、実に遠いところまで読者を運んでいることに気づくだろう。組織内部の凄まじい暗闘、ヒロインの切々たる女性性の葛藤、深く響きわたる家族の愛などが、激しく胸をうつのである。ここ十年の、海外と日本のエンターテインメントの変質の中で、いかに『ライアー』が際立つ傑作であるかを、僕は解説に書いた(そう、言い忘れたが、解説担当は僕である。大物作家の輝かしい第一作品集の解説も名誉だが、個人的には『ライアー』という歴史的傑作-詳しくは解説参照-を担当できたことが本当に嬉しい)。ぜひ読んでほしい傑作中の傑作だ。

 ところで、この対談のはじめのほうで、大沢在昌が「小説家という仕事はずっと続くから、これから十年、二十年、三十年先、その時々にどんなものを書いていくが重要だと思うんだよね。いま、人生設計で、ある程度決まってることってある?」と聞くと、「いま大学二年生なんですが、卒業したら就職はしようかなと思っています」と増島拓哉はこたえている。これは大沢在昌が授賞式の二次会で、「企業と組織を知ることが作家として強みになる」と助言したからだという。大沢在昌も新人賞を受賞したとき、新聞社から内定をもらっていたが、作家の道を選び、就職しないできたことを後悔したという。

 数あるエンターテインメントの新人賞のなかで、小説すばる新人賞は打率の高さ(受賞作家のその後の活躍の度合い。大きな文学賞の獲得やベトスセラー作家への足掛かり)ではナンバーワンであり、増島拓哉は作家として十二分に活動していけると思うが、あえて就職の道を選ぶあたりが、ますます頼もしい。学生のみなさん、就職活動をしましょうね。

 さて、申し遅れたが、すでに玉井先生の文章にもあるように、四月から東北芸術工科大学の文芸学科で教えることになった。本欄でも、さまざまなことを書いていきたいと思う。どうかよろしくお願いいたします。

『異世界からの企業進出』と4月の始め

 いつも何かの本は買ったり読んだりしているのだが、昨年からハヤカワ文庫でリリースされている七士七海さんの『異世界からの企業進出』シリーズを本屋で見かけるたびに購入している。概ね買ったものは、そのまま積ん読状態にするのが常なのだが、この作品は購入後、少し時間が経過すると積まれている順番を押しのけ手に取っているので、好きなシリーズなのだとは思う。何とも歯切れが悪いのは、購入していきなりは読んでいないということが根底にあるのだろう。何はともあれ一度は積むのである。積むと徳も一緒に積んでいる気がする。そういう気分は重要である。重要。

 さておき最初、読み始めた際にはテリー・ブルックスのランドオーヴァーシリーズを思い出していた。異世界の王国が売りに出されている広告を目にした主人公が、半信半疑でそして自分自身に降りかかった不幸により自暴自棄的にその国を買ってしまう物語である。そういえば、これもハヤカワから出ていた。でも大きく違うのは王として国を支配するためにどうしていくべきかを考えるのがランドオーヴァーなのだが、『異世界からの企業進出』は一人のサラリーマンが主人公である。具体的には現実世界に進出してきた異世界の企業でサラリーマンとして雇われるため、要は一からのスタートになっている。

 この点は作品の大きなポイントになっている気がしていて、サラリーマンとして一からスタートすることが極めてゲーム的なレベル上げと連動している。もちろんランドオーヴァーと単純な対比が可能ということではない。階層を形成する基準は様々だが、階層上位に主人公が物語の最初から所属している(もしくは所属する資格がある)作品は数多く存在する。それこそ今、アニメが放送されている『賢者の孫』はその典型であろう。しかし、このような作品の場合、主人公が受けるべき枷が最初から存在していないか、存在していたとしてもスムーズに取りはずれる設計になっていることが多い。つまり駆け上がるスピードがとにかく早い。『異世界からの~』はほぼゼロからスタートしているように見える。

 とはいえ、そうは書いたものの、成長スピードはこの作品も比較的早いため、大枠では同じなのかもしれない。結局のところスタート地点の差異でしかなく、大枠の構造、そして読者への伝え方・見せ方を考えると大差ないのではないかとも思う。飽きの来ない「RPGのゲーム実況」を見ている気分になってくる。何せ主人公のパラメータが随時表示されているのだ。まだ3巻なのだが、今後、そのスピードと物語のベクトルの方向性が固定化されるのか、それとも大きく変化させるのかには一つの興味がある。個人的な感触として、一直線の方向性を段階を踏みながら進んでいく物語は目先をかえるような工夫はなされていくが、主人公の観測範囲と行動理由の拡大がなされていながらも、同じ物語法則の繰り返しの中で描かれているような気分になってしまうことが多い。ウェブ版を読んでいないので、この物語がどうなっていくのかは知らないが、一介のサラリーマンでいてほしいような、その段階はどこかでクリアしてほしいような、そんなもどかしさである。欲を言えば、そんなところすら飛び越えてほしい。読者のわがままである。

 さて一からからのスタートといえば、この4月から新年度である。新入生が入り、新しい教員・副手が文芸学科に加わった。教員の一人は文芸評論家の池上冬樹先生である。文庫の解説や新聞の書評などで何度もお目にかかってきた。特に山形や仙台で行われている文学講座・創作講座は非常に名高く、プロの作家を数多く生み出している。もう一人の教員はトミヤマユキコ先生である。トミヤマさんは、玉井と同期なので同じ時期に大学・大学院を過ごしていたのだが、ライターとして大活躍するトミヤマさんに比して玉井はこの体たらく。たまにはいい論文を書きたいものだ。そして副手の永尾さんは文芸学科一期生である。前任の飛塚さんの同期でもある。The Buildingsというバンドでも活動しているので、皆さんも聞こう。

 何より新入生の皆さん。玉井はガイダンスで松智洋さんの言葉を借りて、「当たり前のレベルを上げよう」と話をした。もちろんこの考えに従う必要もない。皆さんには何もしない自由もあるし、すべてのことに打ち込んでいく自由も存在する。何をしなくてもいいし、何をやってもいい。でも、そのすべての責任は自分で取っていくことになる。どうせなら、大変なほうがいいじゃないか。世の中、小説の主人公のように軽々とは乗り越えられないんだから。

 

岡本健編『コンテンツツーリズム研究〔増補改訂版〕 アニメ・マンガ・ゲームと観光・文化・社会』に寄稿しました。

 岡本健編『コンテンツツーリズム研究〔増補改訂版〕 アニメ・マンガ・ゲームと観光・文化・社会』(福村出版、2019)に寄稿しました。玉井の文章は「コンテンツツーリズムの歴史」、「史料分析」、「地域の歴史とコンテンツツーリズム」の3つになります。

 本書をお読みいただければわかると思いますが、コンテンツツーリズムという枠組みは非常に多岐にわたっています。作品論という切り口だけではなく、観光学・経済学・経営学・心理学・社会学……の中に歴史学からのアプローチも入れていただきましたが、要は一つのことを見るのにいろいろな考え方が存在するわけです。この4月に大学に入学し、研究したいこと、考えたいこと、書きたいことがたくさんあって、でも、何をどうしていいのかわからないという人も多いかと思います。世の中は複雑で、そんな簡単にわかるわけはないよ、とか斜に構えるのではなく、まずは触れて考えてみましょう。その際、研究の一助として本書を手に取っていただければ幸いです。

https://www.fukumura.co.jp/book/b451080.html

しょっぱなからフル稼働

新年度一発目の授業、新一年生を対象にした「想像力基礎ゼミ」が始まった。1限から4限までのぶっ通し。まだあどけない高校生が、徐々に変化していくさまを見届けるわけですね。 彼らが何に反応するのか、探りながら進めていくつもり。 夕方は「文芸ラジオ」の定例会議。 ゼミ生の原稿に赤字を入れて返したあとは、来週の「日本語表現基礎」の資料のための文献をひたすら入力。 まだ始まったばかりなのに、なんだか怒涛のナルトの渦に巻き込まれてる感じ?

「乾いたメロディは止まらないぜ」

 日本は南北に長い。

 みたいな話はよく聞くのだが、愛媛から東京へ、東京から山形へと移動してきた身としては、それを体感しながら最近は生きている。別に南北である必要はなく、東西でも、県によってでも、山沿いか海側か、川の近くで生活しているか、平屋かマンションかでも基準は何でも良い。

 3月30日に開催された「春のストーリー創作講座」は文芸学科主催で行われ、冬に引き続き、石川先生と玉井が担当している。2月の「冬のストーリー創作講座」では玉井が主に喋ったのに対し、今回は石川先生が話をする回であった。ここ数年は2月3月と連続で、このストーリー創作講座を行っており、恐らく来年も同様に行うのだとは思う。高校生の皆さん、お待ちしております(ちなみに次は5月のオープンキャンパス!)。さて、その「ストーリー創作講座」の頭に「冬」と「春」が付くのだが、どっちも寒い時期だから「冬」一択じゃないかと毎回思っている(とはいえ何が良いのかと言われると、特に代案もないのだが)。

 これは私の「冬」の基準が、愛媛県あたりの経験値ではかられてしまっているせいだとは思うが、当然ながら場所により、土地により、風土により、様々なものは変化していく。そのことは大学生の時に読んだ網野善彦の『東と西の語る日本の歴史』(講談社学術文庫、1998年)を読んで、「なるほどー」とカッコつけて頷きながら理解していたつもりなのだが、やっぱりつもりでしかなく冬の寒さは体感できていなかったといえる。

 そのことは小説を読んでいるときも感じられて、先日、手に取った川澄浩平さんの『探偵は教室にいない』(東京創元社、2018年)では作品内容もさることながら、そこで描かれる風土的な描写で「え、10月なのにもうストーブ?」と思ったり、「あー、もうこの時期ということは、寒いわー、よく歩きながら会話できるな」とか考えたりする。さすが北海道。試されている。作者としては当たり前のことを書いているのかもしれないが、一度、寒いことを経験した身からすると気になって仕方ないのである。数年前までなら読んでいても特に気になることもなくスルーしていただろうから、世の中経験してみるものだ。

 さて、このように色々考えることができたのも、今現在所属している東北芸術工科大学芸術学部文芸学科に来たからである。そうでなければ寒い土地に来ることはないであろう。今でもある程度当てはまるかもしれないが、地理関係が全然把握できておらず、来る前までは秋田県と山形県の位置関係はぼんやりとしか把握できていなかった。そのぐらい遠い土地であり、漠然とした寒さに包まれているイメージであった。その文芸学科に、私が来るより前から所属していた山川健一先生、川西蘭先生、そして副手の飛塚さんが前年度をもって退任された(私が来たとき、飛塚さんは学生として所属していた)。お三方には大変お世話になり、感謝は尽きないのだが、ここでブログとしても残しておこうと思う。

 よく「喧嘩別れですか?」とか「辞めさせたんですか?」とかいろいろなことを聞かれるのだが、なぜみんなマイナスなことしか言わないんだ。そんなわけないだろう。定年やら任期満了やらでの退任である。

 それはさておき現在の大学に来るまで複数の大学で仕事してきたので、人が去るのが当たり前の世界だとは思っていたが、やはりお世話になった人が離職していくのは、どこか感傷的になってしまう。3月31日はお世話になっていた吉田正高さんの命日であり、4月1日から新年度がはじまる。思っていたより寒い年度末(雪も少し降っていた!)を経験すると、この感傷は否めないのかもしれない。

BGM:あいみょん「君はロックを聴かない」

「絵文字は苦手だった」

 ついに手に取ってしまった。以前より周囲のオタクな感じの人たちは、ほぼ全員読んでいるのではないだろうか、と錯覚してしまうかのごとくヒットしている作品がある。谷川ニコさんの『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』が更新されるたびにtwiterが動き出し、つぶやきが加速し、ファンアートが描かれ、二次創作の漫画が描かれていく。ここまでで数時間は最低でも経過している。更新後の数時間は祭りである。その通称ワタモテの単行本をこの3月は読みふけっていた。読み終わったときに虚脱感に襲われてしまい、流れるままにweb更新も読んでしまうようになった。普段は連載を読まないというのに。

 先週の更新は3月21日の午前0時である。読む。当然だ。読むに決まってるだろう。twitterも見るだろ。イラストも、他人の解釈も読みまくりである。しかし、こう見えて、仕事をしている大人なので、ここらへんではたと気づくのである。数時間後には卒業式があるではないか。

 もちろん卒業式には寝不足で参加することになる。頭の中にはワタモテしかないので、卒業生と保護者の皆さんにはワタモテの話をすることになってしまった。

 ワタモテは主人公の女子高生が、オタクであり他人とのコミュニケーションをとることが非常に困難と思い込んでいる。連載当初は、その痛々しさが強調される物語が描かれ、「一日に一回、他人と会話ができるかどうか」というように、彼女自身が目指しているもの、取り組んでいること、しかし実際にできることの乖離が非常に激しく、そこを楽しむ物語だと思う。いや、そこに感情移入し、「お前は俺か」になってしまうのだが、まあ、その楽しみ方は置いておこう。

 これに対して、物語が進むにつれて、主人公の評価が大きくかわっていく。当初はいわゆるスクールカーストの最底辺に位置づけられ、そのことをおそらく主人公も読者もそして教室内の人々も共通認識として抱いていたと思う。彼女自身は常にオタクであり続け、周囲とのコミュニケーションも積極的には行っていかない。これはスクールカーストの底辺ととらえることは当然可能ではあるが、教室内の権力関係から完全に逸脱していると考えることもできる。要は他者に合わせて自分を変容させていくわけではなく、彼女自身は彼女自身としてぶれない存在としてあり続けるのである。そして何が起きるかというと、その生き方に少しずつ惹かれる同級生の女性が増えてきて、主人公は人に囲まれながら生きていくことになる(1巻と14巻の表紙を比較するとわかりやすい)。10巻をこえたあたりになると、世の中の百合クラスタが騒ぐようになり、更新とともに祭り状態になっているのである。

 このような生き方は、今の時代では非常に難しい。教室という狭い人間関係に身を置きながら、他者の視線を認識しつつも、そこからの関係性にはからめとられない。その生き方を選ぶことは、客観的な視線を他者だけではなく自分自身にも向ける必要性が生じる。非常に大変だ。卒業していく学生さんたちは、これまで教室の権力関係の中に居続けたと思う。もしかしたら大学でもそうだったかもしれない。そして4月からはどのようなかたちであれ、大学という場からは出なければならない。もしかしたら仕事に大きな希望を持っているかもしれないし、大きな不安を抱えているかもしれない。でも日本社会の特性というか、地域性や業種・職種に左右されるかもしれないが、職場という空間もまた大小あれどもこれまで経験してきた共同体と連続性を持っている。

 職場で趣味の話はできないかもしれないし、他人に合わせて美味しいスイーツの話をしなければならないかもしれない。上司の飲みの誘いは断ってはいけないかもしれないし、先輩にはビールを注がなければならないかもしれない。サラダは取り分けるし、週末に好きな声優のイベントがあっても休日出勤をしなければならないかもしれない。もちろん、これをすべて気にせず、自分の心が赴くままに行動をしても良い。しかし、そうしたら当然、すべて自らの責任として圧し掛かってくることになる。なので丹羽庭さんの『トクサツガガガ』の主人公のように自らのオタク的側面を職場では見せないまま、会社員として生きていくことも選択肢として存在している。

 何をどう選ぼうとも皆さん自身の責任として返ってくる。一つだけ言っていくと、ワタモテの主人公みたいには、なかなか上手くいかないぞ。というようなことを文芸学科の学位授与式で卒業生と保護者の皆さんに話をした。寝不足のまま即興で喋ったわりには、きちんとまとめられたと思う。

BGM:YUI「CHE.R.RY」