この夏、私が最も打撃を受けたことは、「賢治の駄菓子屋」で、初めて、種から育てて目をかけながら世話をして、もうまもなく収穫できて、みなに分けっこできるかな、と思っていた、ちょうどその時期に、それをみすかすように、カラスが、2うねのトウモロコシの実をすべて、食べちらかしていた風景です。(カラスのしわざとわかったのは、次の日に来てみたら、「どうだ、まいったか」と言うようななき声で、竹棒の上にいたのでわかりました。)
4月にこの大学に着たとき、道路で、カラスがクルマにクルミを割らせていた光景を見ました。(ブログに書きました)
畑を借りた日、キジとカラスが、ここはおれの土地だと言わんばかりに、顔を出していたのを思い出します。
それいらい、あまり目にしませんでしたが、私にトウモロコシを育てさせて、じっとうかがっていたのでしょう。
やっぱり、私より頭がいいんだと、妙に感心しました。
村長さんに言うと、農家の人もやられるとのことでした。
むざんなトウモロコシ畑をながめながら、カラスができなくて、人間しかできないこともできたら、とも思いました。その時、雑誌で、トウモロコシの皮でつくった人形を見たのです。
しかし、残念ながら、私には、そのアートの手わざも時間のゆとりもありません。
アマゾンでは、最も強い動物から、森のおいしい果実を食べ、最も弱い人間は、どの動物も食べない毒いもマンジョーカを、水さらしてあくぬきして食べ、その汁を調味料にまでするということを、アマゾン民族館で以前見たことがあります。
人間は、何かかにか自然の中でしようとして、必ず災害や他の動物からなどの思わぬことなどで、打撃を受けます。常に、多かれ少なかれダメージを受けつつも、それでも、また、なにかかにかしようとしていく…、これがよいか悪いかわかりませんが、人間の特徴のように思います。
私は、絵も描けません(かけば描けるのかもしれませんが)。時々、夕方、そこに居合わせた学生に、「賢治の駄菓子屋」から収穫してきた野菜を分けます。私にとっての他者に気軽に分けっこできる、自分が手がけた駄菓子的贈与物です。その際、学生には、時折、社会で生きていく力として、自分のアート(技芸)でも、手軽に駄菓子や野菜のように、他者に分けっこできるものを作っておこうと、提案しています。
なすが、3つとれたら、全部自分で食べずに、だれかに、分ければ、相手は、なすでない、何かをお返ししてくれるかもしれません。もしくは、根源的にだれかに何かを与えたいという人間の存在論です(一方で、とりたい・得たいという所得欲求もあるので、そのバランスの葛藤が人間の存在論です)。その微妙な人間関係づくりと存在論が、アルバイトや就職といった大きなマネー経済の外側にある、隠れてしまった人間関係経済の原理です。
どこの大学でも、経済学部でも、この生きた経済を教室で学ぶ科目はないでしょう。
しかし、このことこそ、生きていくための基本学習だと私は思っています。何年か後には、大きな思想書にまとめていきたいと思います。次世代のために。
ところで、この写真は、その時に、わけた野菜を学生がテーブルに並べていたら、「あっ顔だ」と言いながら、並べかえたところです。
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