自宅から大学まで、短い時間をクルマで行く途中、先日のことです。道路わきの家の庭がきれいな花畑になっていて、そこにおじいさんが手入れをしていたので、クルマを道路わきに止めて、降りて、おじいさんに声をかけました。
てっきり、出荷する花かと思っていたら、自宅で植えている花とのことです。
20年前、友だちからもらったジャーマンアイリスだそうです。それが、どんどん増えたのだそうです。
ジャーマンアイリスは、似ているあやめなどと異なり、山野草なので、水も肥やしも必要なしなのだそうです。
88歳のおじいさんは、にこにこと語ってくださり、何と、自宅におじゃましてお茶もごちそうになりながら、昔のこの地域の話も聞きました。
戦後、乳牛も飼って、乳搾りした乳牛で田んぼを耕したのは、この近辺では、このおじいさんだけだったそうです。(普通は、馬で耕していました。)
「肥えあげ」って、知ってるべ?
と聞かれましたが、みなさんは、知っていますか?
朝早く、農家でない住宅をベコ連れてまわって、汲み取りさせてもらうのだそうです。それを田畑にまいて肥やしにして。
「今は浦島太郎のようだ。道も違うので、迷ってしまう。」
まだ、たった50年ほど前のことです。
行き先の時間に合わせて移動すると、その途中に道草することはできません。道草とは、偶然の発見のことですが、目的のところにだけ行き来することは、目的とはその時点で自分が知っていることの範囲なので、新たな発見はできないことになります。
新たな発見をしていくためには、それができる(できない場合もあることも含めて)、時間のゆとりと、自分で足を運ぶ行動力と、発見する能力が必要でしょう。
子どもだけでなく、大人も、道草は必要でしょう。それには、社会全体がそれを認める寛容の雰囲気と制度も必要のように思いますが。
4月から、この大学で、フィールドワーク論を担当する私の場合は、道草も重要な仕事時間になっています。
なぜなら、道草しなければ、新たな人・新たな技術・新たな素材・新たな活動を見つけることはできないからです。
さて、このおじいさんの話をうかがいながら考えた活動は、写真のないかつての時代の思い出を、文で記録するのも必要だけれども、絵で記録としても残していくこともできると思いました。
「語り絵」
青田(地区名、大学の前、今は住宅地)には、家が数件しかなく、見渡す限り、田んぼと畑。乳牛を引きながら田を耕している…。頭に浮かんでくるようです。
道草をするたびに、アイデアの貯金箱が殖え、それによって、いつでも、アイデアを引き出して使うことができます。私にとって、最も大切な仕事です。本を読むこと以上に。