松田道雄研究室

駄菓子屋楽校 ~愉快で,楽しく,どこからでも創造する生き方と社会づくりの活動記録~
*
2011-08-22

心の形?


山形では、夏の畑も終わり、秋冬の白菜などを植える畑の耕しの時期のようです。畑の衣替えといった感じです。
そんな夏の畑の終わりに、「賢治の駄菓子屋」に降りていくと、なんと、巨大な黒光しているズッキーニが置かれていました。
置いたのは、前田さん。彫りモノをするといい、と語りました。
この夏の収穫を、天に感謝するかのような、小さな神事のような造形です。
感謝、祈り、畏れ。これは、宗教や芸術以前の人間の原初の心性によるものではないかと感じました。
熱心な宗教の信者でもなく、芸術家でもない、私が、何気ないこの置物に、何か、心感じるものがある、その感じるものとは、どのような心なのか、自分で自分の心を探求しようとしても、なかなかわからないものです。
みなさんは、このような感情体験はありませんか?

2011-08-21

こんな教師もいるんだなあ


一週間のお盆休みも終わり、明日から授業が始まります。前期終了まで、もう少しあります。
現在は、企業も行政も教育現場も組織社会はどこでも、職員の勤務自己評価などがあります。また、教育現場では、学習者(学生)による評価もあります。何でも、なにかすれば、評価評価とつきまとう世の中になっています。メタボの検査などの健康評価もどんどん増えていきます。きっと、これから、もっともっと増えていくことでしょう。

さて、4月から山形の大学に勤務し、自分の専門担当で、ゼロから活動を生み出しながら、働いてきて、自分なりの仕事の自己評価を端的に示す写真を1枚と言われたら、これをあげます。
「一体、なんだ!これは?」と思われることでしょう。正式な大学の教員自己評価にも、この写真を載せることはありえないでしょうが、これこそ、私の現在の仕事の独自性を端的に表す1枚です。
6月16日、本コースでペイントすることになった尾花沢市のドームハウスの下見にフィールドワークした時に、ドームハウス壁画の次に思い描いた、スイカの箱のパッケージをデザインしたいスイカ農家がいるかどうか、頼んでいたら、箱を必要とする農家の方がいるというので、そのまま、スイカ農家の畑に行って、大学の公用車の後ろに積んでいた、学生のドームハウスのデザインのプレゼンボード7枚と、既存の農産物のダンボールを、実際に農家の方に、その場で見せたところです。
農家の方は、学生のデザインに感動して、即、スイカの箱のデザイン受注が決まりました。
その経過と成果は、これまでのブログに紹介した通りです。
スイカ農家の方は、本学にまだこられた時はありません。当然、美大生の制作や作品も見たことがありません。美大生も、作品は美術館やギャラリーに展示するものなので、スイカ農家の方のところに行くこともありません。
これまでは、同じ地球上に住んでいながら、両者は別々の世界に生きていて、出会うこともありませんでした。
美術科に美術をしない教員がいて、学生の作品を大学の公用車につけて、農村をまわって見せて、商談をとる。
単にミュージアムのクルマが地方をまわって巡回公開するのではなく、両者をドッキングさせる新たな学社連携の共同事業をおこす。
ちょうど、クルマの移動八百屋さんが村をまわっていくような感じですが、フィールドワーク・社会関係論の教員として、私は自分で実践事例をつくってみせて、そのノウハウと背後の論理を学生に教えていきながら、次は学生もともに活動し、後に、将来、自分ひとりで、このような社会関係をつくり出していくことができるようにすることが、私の教員としての役割です。
ということで、東北芸術工科大学という名前が書かれたクルマで、学生の作品をのせて、いたるところ営業する。
クルマで地方をめぐって料理をするテレビ番組もありますが、こちらは、アート版です。
こんな風変わりな教師もいるんです。そんな役割の教師を採用してくれた大学も、また風変わりなのか、どうなのか?
その成果は、これからです。

かつて、松下幸之助も、大八車に自室でつくった二股ソケットを積んで営業をしました。
その昔には、近江商人が全国、山形などにも来て、モノ売りをしました。「相手よし、自分よし、世間よし」の「三方よし」は、社会関係の基本原理でしょう。
「生産者よし、学生よし、消費者よし」の「三方よしのアートデザイン」を生み出すべく、明日からも、もしかすると、そこいらにフィールドワーク・アンド・セールスしているかもしれません。
もし、自分のところにも来てほしい、という方がいらっしゃったら、お声かけください。
シルクロードや大航海時代、人類の歴史と発展すべては、壮大な交易の産物です。
活動の果実を生むために、ブンブンと花粉媒介者(ポリネーター)として、私も飛び回りたいと思います。

  松田道雄 dagashiyamatsuda@gmail.com

2011-08-20

人生いつでも大学生


かつて、戦後から高度経済成長をへて、約50年くらい、私たち日本人の一般的な人生の共通イメージは、高校から、できれば大学に入学して、60歳までの終身雇用の会社に就職して、結婚し、家を建て、安定した生活を過ごす。というイメージでした。
よい悪いの是非は別にして、そのイメージはほとんど影が薄くなりました。
仕事は、人生の中で複数の職業につくことが一般的になり、不安定ゆえに、つねに新たに学ぶ必要性が出てきました。
前向きによい面でとらえると、受験の15歳、18歳の時に、不十分・満足ならないで、自分の能力を発揮できなかった人は、かつての安定社会では、路線が一生決まっていましたが、今は、どこからでも、自分の能力を新たに身につけ社会に何度でもトライするチャンスがある社会になった、ととらえたほうがいいでしょう。

すべては、悲観・否定ではなく、楽観・肯定でとらえたほうが、人生の道は開けていく可能性があります。
私も、社会人で大学院に入学し、「駄菓子屋の教育的意義」の論文をベースにまとめた本『駄菓子屋楽校』が発端となって、転職をして、人生の進路が現在に至っています。もともと、大学の時に、たくさんの分野の本を読みながら、自分の人生については、一度限りの人生なので、一つだけではなく、複数の仕事をしよう(賢治やウイリアム・モリスやベンジャミン・フランクリンなどのように、と夢見つつ、なまけものなので寝てばかりいましたが)と考えていたので、自分にとっては、自然な成り行きでもあります。

50歳になって、山形の大学に戻ってきて、今度は、私が、みなさんの、人生いつでも大学で学ぶことを応援する講座を開きたいと思い、まず、今年度後期、以下の講座を本学で開設してもらうことになりました。
http://www.tuad.ac.jp/plusart/program/artcommu/index.html
036 ウオーキングをよくする人、まちづくりに関わりたい人、まち歩きが好きな人、自分で地図をつくってみたい人など…
037 自分の特技でさらに人とつながりたい人、自分の持ち味をさらによく人に紹介できるようになりたい人、コミュニケーションの原理を学びたい人、自分の趣味でコミュニティづくりをはかりたい人など…
038 農業など自分で生産物をつくっている人、それを紹介したい人、何か売りたい商品がある人、営業・セールスマンでよりよく商品を紹介できるようになりたい人、自分を語るための書くこと・話すことをあらためて学びたい人など…
このイラストマップは、私のチュートリアル生が描いたものですが、だれでも、自分なりの見方・感じ方で、自分の地域を描くこともできます。まち歩き地図づくり講座は、各人こんな地図を描くことができるようにします。

もはや、これからの社会では、ますます、だれもが一生の中で、何度でも、どこの大学の講座で学んで、それを自分の新たな仕事づくりや生活や人生に生かしていくような、平行学習社会になります。
みなさんも、新たな未知の可能性を発掘するために、活用されてみるのもいいと思います。
もし、私の講座に関心ある方は、本学生涯学習プログラムに問い合わせてください。
また、こんな講座を受けたいという希望もどうぞ。
県外の方で、夏休みや正月休みなどで、山形に来て、滞在型の集中講座を受けたい! という方は、そのような希望提案もどうぞ。
成人講座の醍醐味は、私たちが小学校から大学まで受けた教育のスタイルのイメージと全く異なる、それぞれ人生経験のある大人の学習ならではのスタイルと楽しみがあるということです。この成人教育のあり方は、今からの時代に「普通」になることですが、今はまだ発芽中のような段階のようです。その醍醐味も体験してみたい方は、どうぞ。
また、子どもの学校教育の教師になるには、きちんとした教職課程の専門制度ありますが、成人教育の専門資格制度はまだありません。
もし、みなさんの中で、そのような成人教育の技法やノウハウも経験していきたいという方も、いっしょに学び合いたいと思います。

人生は、生涯、楽しい勉強ですね。

2011-08-18

まだ実現ならない、だがしや楽校とは?


だがしや楽校という活動を10年ほど前に始めて、その後、現実世界における、私が思い描いただがしや楽校は、世界中のみなさんが、それぞれのイマジネーションで行なってもらいたいと思い、私自身はやめて、考えと思い(思想)は、本に表現することにしました(『駄菓子屋楽校』など)。
その後、全国各地のみなさんが、本を読んでくださり、問い合わせがあったり、みなさんのところで行なわれたりなされています。
今も、このブログを読んでくださる方々から応答をいただき、世の中に種をまくと、どこかそこかで芽が出て、どなたかが育ててくれたりしてくださると感じます。
最も、よく尋ねられる「だがしや楽校とは何か?どのようにするのか?」という問いへの返答として、ひとまず、ここで、次のように述べておくことにします。
だがしや楽校3か条です。

私自身が行なった、だがしや楽校は、私自身、そして、これに参加する人が、みな、立場や職業や仕事を超えて、一人の人間としてつき合い合う創造的な場は可能か?という問いへの試みです。
抽象的には、自分の生き方と社会のあり方を問い詰める活動の原型体験をしたい、という哲学的な体験です。

具体的には、それは、子どもの遊びからの進化系です。大人が個人の余暇の自立して自己責任による「遊び」として、その場に集い合う。これを第一の基本に私は考えました。それゆえに、当時、中学校教師・大学院生だった私も、これは、職場から離れた、一人の市民・人間としての自己の遊びの延長として、行ないました。
もし、これが、自分の仕事の一部、授業、イベント、役職や会合として、行なえば、他の方は、対等な立場で参加することはできなくなります。
また、そのような仕事の一部としてしている場合は、仕事でないときにはしないことになるので、「えっ、だがしや楽校していないんですか?」と、他者は拍子抜けをくらってしまいます。
残念ながら、これは、簡単そうに見えて、最も大人ができないことでもあると思います。
その意味で、私が知っている、だがしや楽校で、最も当事者の人間存在の遊びとして、毎月定期的に、だれもこなくても行なっている、だがしや楽校は、東北芸工大前の公園で東海林さんが行なっている、らくがき・だがしや楽校でしょう。
この意味性では、だがしや楽校の共感性を探すのは、個人が職場や仕事と離れて、何か社会の場で開いて自立的にだれかと定期的に行なっているような活動です。
そうでない場合のだがしや楽校は、正確に言えば、
だがしや楽校の手法を生かした〜。ということになるのでしょう。

次に、最低異なる次元・要素・人が混在する「小さな世界」をつくる、ということです。
私が最初に試みたときには、大学は、1つではなく2つにチラシ置く。文系と理系、体育系とアート系など、異なる分野が共存するようにする。高齢者にも声かけて、子どもと若者と大人と高齢者の4世代が共存する場にする。日本人と外国人がそこに集う。そのために留学生会館に行って、個別にチラシを渡しました。子どもの遊びとともに、大人の仕事の部分もある。ボランティアと商売が混在する。教育学者、民俗学者、人類学者、経済学者、政治学者、社会学者、心理学者など、複数の異なる専門の学者が語れる…
そのような、「小さな世界」「小さな地球」をつくろうとする私自身は、最も中立的な空気のような存在でなければなりません。
これまで見渡してみて、私の役割をしようとする人は…?
よく、コーディネーター養成講座のようなことが、行政でよくありますが、最も、有効なコーディネーター学習は、これでないかと思います。
コーディネーターとは、まったく異質の人を集めること、未知の人を出会わせること、新たなことを生み出す人です。私の身の回りでは、まだ、この人はコーディネーターだね、という人には出会ったことがあるかなあ?

最後に。この活動自体も遊びとして、いろいろ同時に異なる条件や場で試みるということです。学問にしても、あらゆる知的好奇心は、比較体験です。
私がだがしや楽校をした時には、駄菓子屋のある公園とともに、駄菓子屋がない公園でもしてみました。第2土曜日をだがしや楽校にしたら、第4土曜日を、公民館でのてらこや楽校と名づけた集いもしました。
外のだがしや楽校だけでは、自分の屋台に来る人との流動的なやりとりで、じっくり語り合ったり、教わったり、学んだりということには不向きです。そこで、公民館の中でじっくり遊び学びつくり合う場も、平行して実験しました。こちらは、現在、高齢者や主婦のみなさんなどが主に、元木公民館で、おしゃべり手芸の会として、一つのテーブルを囲んで、異なる技芸を学び合いながら、語り合っています。
だがしや楽校は、その形式だけが単独に存在するのではなく、補完し合う形式と共存することで、効果と意味性が出てきます。コミュニティの場づくりを考える際の基本になります。
さらに、だがしや楽校やてらこや楽校でもできないこともあります。それは、実際に大人の働く現場に出向くことです。人を集めるのではなく、こちらから、いろいろな人がそこにいるところに出向く。ワークツアーズと称した、体験ツーリズムも実験して行いました。
残念ながら、だがしや楽校を語る方で、このようないろいろな比較体験をして、その意味性を広く考えようという方もまだいません。
また、自分の職場や仕事にも生かすことも必要です。私の場合には、中学校の授業で、国際交流の集いをだがしや楽校形式で行なったり、PTAの方々の職業をだがしや楽校形式で体育館で体験し合ったり、経済の体験学習を行なったり、という試みもしました。さらには、隣家の畑に隣接する校庭で畑を耕し、ちょうど、駄菓子屋のおばあちゃんと子どもの共生関係性を、学校でもさりげなくつくろうと試みたり。
このような職場への応用は、企業などさまざまな現場でも生かすことができます。(具体的なアドバイス提案もします。)

だがしや楽校と名乗る必要もなく、その心と形を生かすことは、無限にありますが、そのように愉快に創造的に活動なされている方は、いらっしゃるでしょうか。
私自身は、まだ、そのような方には、出会っていないように思います。
私の感性と共感なる方とは、きっと、のり蔵さんのスイカドームを見て、「愉快な未来の村の駄菓子屋のようだねえ」と感じてくれる方かもしれませんし、畑を「賢治の駄菓子屋」と名づけても汲み取ってくれる方でしょう。
(もちろん、人それぞれの感性の集合体が世界なので、異なる感性もたくさん見せてもらいたいと思います。)

いずれにしても、だがしや楽校は、まだ、始まったばかり、と言えますね。

2011-08-17

ダメージを受けつつ生きる


この夏、私が最も打撃を受けたことは、「賢治の駄菓子屋」で、初めて、種から育てて目をかけながら世話をして、もうまもなく収穫できて、みなに分けっこできるかな、と思っていた、ちょうどその時期に、それをみすかすように、カラスが、2うねのトウモロコシの実をすべて、食べちらかしていた風景です。(カラスのしわざとわかったのは、次の日に来てみたら、「どうだ、まいったか」と言うようななき声で、竹棒の上にいたのでわかりました。)
4月にこの大学に着たとき、道路で、カラスがクルマにクルミを割らせていた光景を見ました。(ブログに書きました)
畑を借りた日、キジとカラスが、ここはおれの土地だと言わんばかりに、顔を出していたのを思い出します。
それいらい、あまり目にしませんでしたが、私にトウモロコシを育てさせて、じっとうかがっていたのでしょう。
やっぱり、私より頭がいいんだと、妙に感心しました。
村長さんに言うと、農家の人もやられるとのことでした。
むざんなトウモロコシ畑をながめながら、カラスができなくて、人間しかできないこともできたら、とも思いました。その時、雑誌で、トウモロコシの皮でつくった人形を見たのです。
しかし、残念ながら、私には、そのアートの手わざも時間のゆとりもありません。

アマゾンでは、最も強い動物から、森のおいしい果実を食べ、最も弱い人間は、どの動物も食べない毒いもマンジョーカを、水さらしてあくぬきして食べ、その汁を調味料にまでするということを、アマゾン民族館で以前見たことがあります。
人間は、何かかにか自然の中でしようとして、必ず災害や他の動物からなどの思わぬことなどで、打撃を受けます。常に、多かれ少なかれダメージを受けつつも、それでも、また、なにかかにかしようとしていく…、これがよいか悪いかわかりませんが、人間の特徴のように思います。

私は、絵も描けません(かけば描けるのかもしれませんが)。時々、夕方、そこに居合わせた学生に、「賢治の駄菓子屋」から収穫してきた野菜を分けます。私にとっての他者に気軽に分けっこできる、自分が手がけた駄菓子的贈与物です。その際、学生には、時折、社会で生きていく力として、自分のアート(技芸)でも、手軽に駄菓子や野菜のように、他者に分けっこできるものを作っておこうと、提案しています。
なすが、3つとれたら、全部自分で食べずに、だれかに、分ければ、相手は、なすでない、何かをお返ししてくれるかもしれません。もしくは、根源的にだれかに何かを与えたいという人間の存在論です(一方で、とりたい・得たいという所得欲求もあるので、そのバランスの葛藤が人間の存在論です)。その微妙な人間関係づくりと存在論が、アルバイトや就職といった大きなマネー経済の外側にある、隠れてしまった人間関係経済の原理です。
どこの大学でも、経済学部でも、この生きた経済を教室で学ぶ科目はないでしょう。
しかし、このことこそ、生きていくための基本学習だと私は思っています。何年か後には、大きな思想書にまとめていきたいと思います。次世代のために。
ところで、この写真は、その時に、わけた野菜を学生がテーブルに並べていたら、「あっ顔だ」と言いながら、並べかえたところです。

2011-08-16

足で生み出す


今日、お盆にどれくらいの賑わいで、どんな反応だったのか、尾花沢市のスイカドームに、フィールドワークに行きました。
途中、尾花沢市徳良湖を過ぎた道沿いで、おばあさんが2人、日陰で休憩していました。カゴメトマトの契約栽培のトマト畑で、何とも、絵になる風景なので、写真をとらせていただきました。残暑の中、2人のおばあちゃんの笑顔が何とも、日本の未来をほのぼのとさせてくれる感じがしました。

昼休みに、銀山温泉のにぎわい状況も視察に行きました。かつての鉱山坑道ものぞいてみると、前で見ていた家族の男の子が、「3D見ているみたい」と歓声あげました。何とも幻想的な視覚空間です。

肝心のスイカドームの反応は? 東京などからの銀山温泉帰りの家族連れなどが次々と立ち寄り、ドームの前にのり蔵さんが機転をきかせて置いたベンチに座って、記念写真をとっていく人がたくさんいました。こちらも、絵を描いた建物は、確かに「絵になった風景」になったので、写真をとる人が多いのでしょう。
 あれあれ。ドアのガラス部分には、のり蔵さんのリクエストで、のり蔵さんが描かれました。この画材は、ガラスに描いて、さっと消すことができるキットパス(日本理化学工業株式会社)です。
 なかなか上手ですねえ。この画材に関心持たれた子どもとお母さんもいたようです。のり蔵さんは、カールおじさんを超えるキャラクターになる資質充分です。
スイカのほうも、好調に売れていました。特に、結夏のダンボールによって、贈答用のスイカが増えたそうです。


帰りに、生産者の尾崎さんからスイカ畑で、米ぬかで微生物を育てたふっくりした土を、ちょっとだけいただきました。微生物によって豊かになる大地。最も気になることがらです。
今日のフィールドワークでも、直接対面で、過去の事業の評価を肌で聞き取り、同時に、未来の事業創出の話もいろいろしました。つまるところ、何かことを行なうこと(事業)の評価と創出は、日常的な出会いの中でなされます。
営業担当者が細かに顔を出しながら世間話の中でも、事業の展開をはかるのと同じようなことでしょうが、「足で活動を生み出す」ことこそ、フィールドワークの原点でしょう。
10年後、このスイカドームは、どのようになっているのか、楽しみです。

2011-08-15

世界ダガシヤ運動


世界ダガシヤ運動を!
この呼びかけは、9年前、600頁の『駄菓子屋楽校』(新評論)の最後に提案しました。
これからの一層の少子高齢社会。日本が先頭を行き、世界の国ぐにがそうなっていきます。
かつての、子沢山時代の人間社会のアノニマスな文化として営まれてきた駄菓子屋。これが、これからの高齢者だらけの社会に、互恵関係原理によって成立することを提案し、日本が世界に先駆けて、そのモデルをつくろう、と呼びかけました。
あれから9年。
〒424−0811
静岡市清水区二の丸町5−4
に、「めだか屋」さんという駄菓子屋が開かれたと、お手紙を頂戴しました。
この駄菓子屋さんが開店する背景には、「まちなびや」さんという、まちづくり・子どもの居場所づくり・昔の生活の聞きとりなどを精力的に行なっている私立子ども社会教育センターのような駄菓子屋があったり、そのような市民による活動を黒子で支援してくれる行政の社会教育担当者の存在と連携とこれまでの長い実践の年月があると思っています。

現在の日本の若者は、自分たちの老後には、今の高齢者がもらって暮らしているような生活はできないと思っています。
これから進む少子高齢という人口構成は、人類の歴史史上初めてのあり様ですが、そこで試される哲学的課題は、歳をとるほど人間の利己主義をふくらませる近代社会に生きる心を、どこで、どのようにして制御して、我を捨て、私欲を減らし、自然に、次世代が生存繁栄するように、高齢者の心が変容していくのか、ということだと、私は『駄菓子屋楽校』で、やや過激に問題提起しました。
自分の楽しみのみを追求する利己的な高齢者「トラベルじいさん・カルチャーばあさん」から、次世代のために心つくすことが生きがいになる高齢者「世話焼きじいさん・駄菓子屋ばあさん」へ。
各地で、個々に自立的に、確実に、このような高齢者の心の革命がおこりつつあるように思います。
「めだか屋」さん。のんびり、無理なく、楽しく店を続けられてください。ささいなアイデア提案を添えた手紙を書いたところです。
自分の立場からの都合ではなく(それだとどこかで利害のぶつかり合いがおこります)、人類の長い歴史の中での思いで共感される未知の方々と、これから「世界ダガシヤ運動」を提案展開していきたいと思っています。(言いだしっぺなので)

2011-08-14

30点主義

人とつながり、だれかとともに活動をつくり出していくための心の持ち方の一つに、私は30点主義を、いつも心がけるように最近しています。
人はだれでも、100点をとりたいとめざします。自分だけの活動の場合は、そうでもいいのでしょうが、(私は自分だけの場合でも、70点主義でいっています。根が元来道楽で無理をしない・でできないからなのでしょう。)
ところが、共同で行なう場合には、自分だけが100点をめざそうとすると、我がぶつかり合うことになります。そこで、2人の場合は、自分半分・相手半分。つまり、自分は50点くらいの満足で、相手も同じく満足してくれれば、合わせて100点分になります。
3人の場合は、みな、33点分の満足。4人なら、お互い、25点分の満足となります。

30点というと、何とも物足りなく不十分・不本意に、自分自身は思えますが、集団活動の場合は、それくらいでちょうど。それゆえに、いかに、実のある30点にするか、そして、不十分な残り、70点を、だれがどのように補ってくれるのか、また、のちに、どのように今ならないことを、将来していくか、という、未来の70点への準備をしていくかが、たった30点でも、次につながり、広がる30点になると、私は思っています。

前期、長野県生涯学習推進センターと、熊本県生涯学習推薦センターで、講義とワークショップをしてきましたが、このことを語る時間がありませんでしたので、ここで、つまらぬ信条を補足する次第です。
長野県では3者の話し合い、熊本県では4者の話し合いを、あらためて実験してみました。
人間社会では、話し合いは、一番の活基盤になります。そこで、一人だけが自分の考えを100点めざして出そうとすれば、全体の話し合いは空虚なものになります。
いかに、みなが、全体の充実感(全員が100点以上の満足を得るには)、自分は自分の論の体系100点分の中から、30点くらいでちょうどよく、その30点分を、真剣に、その場の話し合いの中で最も有益な30点分を出していくことが、チームワークなのだと思います。
長野県でも、熊本県でも、実に、円滑に会話のパスワークをまわしながら、各グループで話し合いを充実なされていました。
話し合いは、何気なく、いつでも、どこでも行なわれていますが、それゆえに、それが創造的・成長的か、そうでないかで、人間社会・私たちの人生の活動は大きく異なっていくことのではないかと思います。
ちなみに、同じく県の生涯学習推進センターでも、長野県は、教員研修宿泊施設もある見晴らしが抜群の山ふところにあり、熊本県は、熊本城前のにぎやかな繁華街のど真ん中の老舗デパートの上の階に、他のセンターと複合してありました。
低迷する国内経済の活性化のためにも、互いの県の生涯学習推進センターで学び合う広域連携事業なども、今後、大いにあればいいのではないかと思います。
なにはともあれ、人生を豊かに生き合うのは、一つの統一理論ではなく、無数の人生信条の響かせ合いではないかと、私は考えているのですが…
みなさんの人生信条は、どんな「?」主義ですか?

2011-08-13

デザートにスイカをどうぞ


大学は今日まで開いて、明日から1週間お盆休みで閉館です。今日の学食のランチに、総合美術コースの準備室にいただいていたスイカ「結夏」を提供しました。
このスイカ、本当にシャリッとします。雑草とともに生き生き育ったからなのでしょうか?

スイカの説明文案は、これから、箱に貼るために、どのようにデザインするか、来年に向けて、さらに創造と付加価値を生み出していきます。(今日の掲示用のレイアウトは、副手の齋藤君がさっと手早くしてくれました)

2011-08-13

雲をつかむような話ですが…


みなさんは、日頃から、いつ、どんなことを頭の中で考えていますか?
私の着想時間は、おきている間、(寝ている時もたまに)いつもです。
さて、一つ、着想談義です。
飛行機でこの光景をみながら、いろいろ着想が浮かび、あるところに、さっそく、打診をしてみました。
みなさんなら、どんなことを考えつきますか?
雲をつかむような話で、すみません。

お盆休み、みなさんも、せみの声をBGMに、たまには、ゆっくりと、愉快な着想のひとときをお過ごしください。

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